第24話 窓が開く日
一九九五年一月十七日、午前五時四十六分。
俺は、札幌の自分の部屋で、目を覚ましていた。
一睡もできなかった。
机の上の時計の秒針を、ずっと見つめていた。
五時四十五分。四十六分。
札幌は、何も揺れなかった。
七時のニュースで、それは伝えられた。
兵庫県の南部を震源とする、大きな地震。
最初は、被害の状況が分からない、と言っていた。
昼になり、夕方になり、数字が増えていった。
画面には、倒れた高速道路と、燃え続ける街が映っていた。
母さんが、台所で手を止めて、画面を見つめていた。
父さんは、何も言わずに、ずっとテレビの前に座っていた。
俺は、自分の部屋に戻った。
机の引き出しの奥から、一枚の紙を取り出した。
一年前の秋に書いた、手紙の下書きだった。
『一九九五年一月十七日の早朝、兵庫県南部で大きな地震が起きる可能性があります。古い建物や高速道路の点検を、急いでください』
同じ内容の手紙を、俺は二十通以上書いた。
兵庫県庁に。神戸市役所に。新聞社に。大学の地震の研究室に。
名前は書かなかった。書けなかった。
返事は、一通も来なかった。
当然だ。差出人の分からない、日付まで書かれた地震の予言など、悪質ないたずらにしか見えない。
――全員は救えん。
祖父の言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
分かっている。分かっていた。俺一人の力で、何十万という建物を、一年で直すことなどできない。
それでも。
俺は、手紙の下書きを握りしめたまま、机に突っ伏した。
泣くことも、できなかった。
翌週。
俺は、山岸の事務所を訪ねた。
「信託から、寄付をさせてください」
山岸は、黙って俺の顔を見た。
それから、何も聞かずに頷いた。
「いくらだ」
「信託の、一割。それから……地震の研究と、建物を強くする研究に、これからずっと、お金を出したいんです」
山岸は、ペンを取った。
「分かった。手続きは、私がやる。……天城くん」
「はい」
「君は、自分を責めているね」
俺は、答えられなかった。
「高野さんが言っていたことがある。『蓮は、何でも自分で背負おうとする。だから、誰かが荷物を半分持ってやらんといかん』と」
山岸は、ファイルを閉じた。
「何があったのかは聞かない。だが、荷物は半分、私が持つ。それが、高野さんとの約束だ」
二月二十五日。
東京大学、第二次試験。
沙月と二人で、本郷のキャンパスに向かった。
沙月は、試験の前日まで、ずっと俺の顔色を気にしていた。
「蓮、最近元気ないよね。……地震のニュース、ずっと見てたでしょ」
「……うん」
「私も、見てた。つらいよね」
沙月は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、試験会場の前で、俺の背中を一度だけ、ぽんと叩いた。
「行こう。ロケット、作るんでしょ」
その言葉で、少しだけ、背筋が伸びた。
三月の合格発表。
掲示板の前で、沙月が俺の腕を掴んで飛び跳ねた。
二人とも、合格だった。
工学部の、航空宇宙の分野を目指せる、理科一類。
前世の俺は、北海道大学に進んだ。
北大の工学部も、いい大学だった。だが、今の俺には、東京にいなければならない理由があった。
国の宇宙開発の中心は、東京にある。
金融の中心も、東京にある。
黒崎も、九条麗華も、東京にいる。
三月二十日。
上京の準備で東京に来ていた俺は、朝のニュースで、地下鉄の事件を知った。
これも、知っていた。
そして、これも、止められなかった。
この年は、日本にとって、そういう年だった。
前世の歴史で「戦後五十年の節目」と言われた年は、日本が戦後に積み上げてきた「安全」の神話が、音を立てて崩れた年でもあった。
十一月二十三日。
午前零時の、東京・秋葉原。
電気街の大通りは、人で埋め尽くされていた。
冬の夜の寒さにもかかわらず、何千人という人々が、パソコンショップの前に列を作っている。
「すごい人……!」
沙月が、マフラーに顔を埋めながら、目を丸くしていた。
大学一年生の秋。
俺と沙月は、駒場の寮と下宿にそれぞれ住み、週に一度は一緒にロケットの勉強会を開いていた。
今夜は、勉強会のあと、俺が「見せたいものがある」と言って、沙月をここに連れてきた。
『ウィンドウズ95 日本語版 発売』
店の看板に、大きな文字が躍っている。
カウントダウンの声が、通りに響いた。
「――五、四、三、二、一!」
午前零時。
店のシャッターが上がり、歓声が上がった。
人々が、我先にと店の中になだれ込んでいく。
「パソコンのソフト一つに、こんなに人が集まるんだ……」
沙月が、呆然と呟いた。
「これから、世界が変わるよ」
俺は、人の波を見つめながら言った。
「パソコンが、普通の家に入る。インターネットにつながる。世界中の誰とでも、手紙より速く話せるようになる。情報が、国境を越えて、一瞬で届くようになる」
「……蓮、それ、ロケットと関係あるの?」
「あるよ」
俺は、沙月の方を向いた。
「ロケットを作るには、計算がいる。昔は何か月もかかった計算が、これからは、机の上のパソコンで一晩でできるようになる。世界中の論文も、図書館に行かなくても読めるようになる。エレナとも、手紙じゃなくて、もっと速くやり取りできる」
沙月は、しばらく黙って人の波を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「蓮って、時々、未来を見てきたみたいなこと言うよね」
「……よく言われる」
「でも、蓮の言うことって、いつも当たるんだよね。中学の時の、株の話も。ペットボトルロケットの、重心の話も」
沙月は、白い息を吐いた。
「だから、信じる。世界が変わるなら、私たちのロケットも、きっと飛ぶよね」
「飛ぶよ」
祖父の言った、窓の向こうの会社。
その窓が、今夜、日本中で開いた。
山岸に預けた信託の中のマイクロソフト株は、祖父が買った時の、何倍にもなっていた。




