第23話 H-II
一九九四年二月四日、金曜日。
午前七時。
沙月の家の居間に、二つの家族が集まっていた。
白峰家の三人と、天城家の四人。
朝ご飯の味噌汁と焼き魚が並んだ大きな座卓の前で、全員がテレビを見つめている。
『――種子島宇宙センターから、中継でお伝えしています。日本が独自に開発した大型ロケット、H-IIの一号機が、まもなく打ち上げられます』
画面の中で、白い巨大なロケットが、朝の青空に向かって屹立していた。
全長、五十メートル。
エンジンも、機体も、すべて日本の技術で作られた、初めての大型ロケット。
「すごい……」
沙月が、身を乗り出して画面を見つめていた。
高校二年生の冬。ロケット研究会は、去年の秋に正式な同好会として認められた。部員は六人になっていた。
「蓮くん、あのロケットのエンジンは、どこがすごいんだい?」
沙月の父親が、湯呑みを持ったまま聞いてきた。
「LE-7っていう、液体水素と液体酸素を燃やすエンジンです。二段燃焼サイクルっていう、一番効率がいいけど、一番難しい方式を使ってる。それを、日本は一からやったんです」
「一から?」
「アメリカやソ連の技術を買わずに、全部、自分たちで。何度も失敗して、試験中にエンジンが爆発したこともあった。それでも、やめなかった」
前世の俺は、このエンジンの資料を、何百回も読んだ。
設計図の一枚一枚に、技術者たちの失敗と工夫が詰まっていた。
俺が三十年かけて作ったエンジンの、本当の先生だった。
『――打ち上げ、十秒前。九、八、七――』
居間が、静まり返った。
父さんが、腕を組んで画面を睨んでいる。
母さんが、結衣の肩を抱いている。
沙月が、両手を胸の前で組んでいる。
『――三、二、一、点火』
画面が、白く光った。
轟音。
テレビのスピーカーが、びりびりと震える。
H-IIが、ゆっくりと、発射台を離れた。
オレンジ色の炎を噴き出しながら、まっすぐに、空へ。
速度を上げていく。
白い煙の柱が、青い空に、一本の線を描いていく。
「行け……」
沙月が、小さく呟いた。
「行け、行け、行け……!」
ロケットは、雲を突き抜け、見えなくなった。
カメラが、遠ざかっていく炎の点を追い続ける。
数分後。
アナウンサーの声が、震えていた。
『――第一段の分離、確認。第二段、正常に燃焼中。……衛星の分離を、確認しました。H-II一号機、打ち上げ成功です!』
居間が、歓声に包まれた。
父さんが、膝を叩いて「よっしゃあ!」と叫んだ。
沙月の父親が、立ち上がって拍手をしている。
結衣が、何が起きたのかよく分からないまま、一緒になって手を叩いていた。
沙月は、両手で顔を覆っていた。
指の隙間から、涙がこぼれていた。
「……飛んだ。日本のロケットが、飛んだ」
俺は、画面を見つめたまま、動けなかった。
知っていた。
今日、このロケットが成功することを、俺は知っていた。
それなのに。
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
喉が詰まって、声が出ない。
――じいちゃん。
三年前の小樽の縁側。
「日本のロケットは、わしは見られんな」と、穏やかに笑った祖父の顔。
飛んだよ、じいちゃん。
日本のロケットが、宇宙まで、飛んだよ。
その夜。
俺は、自分の部屋で、祖父の方眼紙を広げた。
一九八五年九月から、一九九二年十二月まで。
七年分の、祖父と俺の相場日記。
最後の書き込みの下に、まだ余白が残っていた。
祖父の几帳面な字とは似ても似つかない、俺の字で、一行を書き足した。
『一九九四年二月四日 H-II、成功。じいちゃん、見えたか』
窓の外は、雪だった。
札幌の冬の夜空は、厚い雲に覆われて、星は一つも見えなかった。
それでも、俺は窓を開けて、空を見上げた。
冷たい空気が、頬に刺さった。
三月。
一通のエアメールが届いた。
『天城蓮様
ご無沙汰しております。エレナ・ヴォルコワです。
この春、モスクワ航空大学を卒業します。そして、中央流体力学研究所という研究機関に、研究員として採用されることになりました。燃焼の研究を、続けられます。
二年前、暖房の止まった研究室で、私は研究を諦めかけていました。あなたの奨学金がなければ、今の私はいません。
奨学金は、今年で終わりと伺っております。三年間、本当にありがとうございました。
先日、日本のロケットの打ち上げ成功のニュースを見ました。素晴らしいエンジンでした。研究所の先輩たちも、驚いていました。
あなたも、ロケットを作る方なのですか。
二年前の手紙で、なぜ私だったのかをお尋ねしました。まだ、お答えをいただいておりません。
いつか、必ず、伺います。
エレナ・ヴォルコワ』
俺は、手紙を何度も読み返した。
中央流体力学研究所。
前世の彼女は、ここに入れなかった。研究所の採用が凍結され、彼女は研究の道を断たれた。
今の彼女は、そこにいる。
――歴史が、また一つ、変わった。
俺は、机に向かって、返事を書き始めた。
『エレナ・ヴォルコワ様
ご卒業と、研究所への採用、おめでとうございます。
私は、ロケットを作る人間です。今はまだ、高校生ですが。
なぜあなただったのか。その答えは、手紙では書けません。
いつか、私がロケットの会社を作った時に、直接お話しします。
その時まで、燃焼の研究を、続けてください。
あなたの研究は、きっと、世界のロケットを変えます』
書き終えて、俺は少しだけ迷った。
それから、最後に、もう一行だけ書き加えた。
『奨学金は、終わりではありません。研究を続ける限り、続けます』




