第22話 九条の令嬢
「俺に、ですか」
麗華は、ゆっくりと頷いた。
「高野氏の投資の記録を、九条グループの調査部に調べさせました。一九八五年の秋から、円高と金利低下を見越した銘柄選び。NTT株の天井の手前での売却。ブラックマンデーの翌日の全額買い。そして、大納会での全株売却」
麗華は、指を一本ずつ折っていった。
「どれも、まるで未来を知っていたかのような判断です。調査部の人間は、『高野氏は天才だった』と結論づけました」
「……祖父は、天才でしたよ」
「ええ。ですが、私は少し違う結論を持っております」
麗華は、膝の上で手を組んだ。
「高野氏が相場に戻られたのは、一九八五年の秋。それまで十年、隠居されていた方が、急に。そしてその直前から、九歳のお孫さんが、毎月小樽に通い始めた」
俺は、表情を変えないように努めた。
背中に、冷たい汗がにじむ。
「偶然かもしれません。ですが、私は偶然を信じない性分なのです」
麗華の目が、鋭く光った。
「天城蓮さん。あなたは、何をご存じなのですか」
沈黙。
北村社長と父さんが、困惑した顔で俺と麗華を交互に見ている。
――この人は、危ない。
祖父と同じ種類の目をしている。
数字の向こうにある、人間の手札を読もうとする目だ。
「何も知りませんよ。俺は、祖父に相場を教わっただけです」
「そうですか」
麗華は、あっさりと引き下がった。
だが、その目は、少しも引き下がっていなかった。
「では、本題に戻りましょう。北村社長、天城さん。株式の買い取りについて、ご検討いただけますか」
「――断ります」
答えたのは、父さんだった。
俺も、北村社長も、驚いて父さんを見た。
父さんは、作業着の膝の上で、拳を握りしめていた。
「この株は、お義父さんが、俺の腕を見て出してくれた金でできてるんです。いくら積まれても、売るわけにはいかねえ」
「天城さん。条件は、さらに上乗せできます」
「金の問題じゃねえんだ」
父さんは、まっすぐに麗華を見た。
「お義父さんは、死ぬ前に俺に言ったんです。『春子を頼む。この子も頼む』って。……俺が預かったのは、株じゃねえ。お義父さんが残したもんなんだ」
麗華は、黙って父さんを見つめていた。
その表情が、ほんのわずかに揺らいだ気がした。
「……北村社長は、いかがですか」
「私は――」
北村社長は、言い淀んだ。
社長は、もう六十を過ぎている。跡継ぎの息子はいない。会社を高く売れるなら、それに越したことはない。そう考えていても、おかしくはなかった。
俺は、口を開いた。
「九条さん。一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「この買い取りの資金は、どこから出るんですか」
麗華の眉が、ほんのわずかに動いた。
「九条グループの、半導体装置の子会社からです」
「その子会社の、メインバンクは」
「……九条銀行です」
俺は、ゆっくりと言った。
「九条銀行は、バブルの時に、不動産にたくさんお金を貸しましたよね。総量規制のあと、その土地は大きく値下がりしている。銀行の決算には、まだ出てきていない損が、たくさんあるはずです」
「……」
「今の九条銀行に、グループの子会社が新しい会社を買うお金を、気前よく貸し続ける余裕は、あと何年ありますか」
応接室が、静まり返った。
麗華の後ろに控えていた中年の男二人が、顔を見合わせた。
麗華だけが、表情を変えなかった。
「……あなた、本当に十七歳なのですか」
「高野宗一郎の孫です」
麗華は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「おっしゃる通りです。九条銀行の状況は、外から見えているよりも悪い。……私が、この買収を急いでいる理由も、そこにあります」
麗華は、膝の上の手を、ぎゅっと握った。
「銀行が倒れる前に、グループの中に、少しでも本当に価値のある会社を集めておきたい。土地でも株でもなく、技術を持った会社を。……それが、私の考えです」
その声には、さっきまでの原稿のような滑らかさはなかった。
「祖父も、父も、まだ土地の値段が戻ると信じております。私が何を言っても、聞いてもらえません。だから、自分で動くしかないのです」
俺は、麗華の顔を見た。
二十歳になるかならないかの、一人の女性。
巨大なグループの中で、誰にも信じてもらえずに、一人で崖の存在を叫んでいる。
――じいちゃんと、同じだ。
「九条さん。株を買う代わりに、別の提案をしてもいいですか」
「……何でしょう」
「長期の取引契約です。北斗精工は、九条グループの半導体装置の子会社に、優先して部品を供給する。その代わり、九条グループは、五年間、一定量の注文を約束する」
麗華の目が、わずかに見開かれた。
「株は動かない。お金も動かない。でも、九条グループは、北斗精工の技術を確実に手に入れられる。北斗精工は、安定した注文を手に入れられる。もし九条銀行が倒れても、取引契約は残ります」
「……資本ではなく、契約で結ぶ、と」
「はい。銀行が倒れても、腕は倒れませんから」
麗華は、長いこと黙っていた。
やがて、ふっと、小さく笑った。
初めて見る、本物の笑みだった。
「高野氏の調査報告書に、一行だけ、こう書いてありました。『高野宗一郎は、会社の値打ちを、最後は人の腕で測る男だった』と」
麗華は、立ち上がった。
「その提案、持ち帰って検討いたします。……天城蓮さん」
「はい」
「あなたが何を知っているのか、私はいつか、必ず突き止めます」
麗華は、一礼して、応接室を出ていった。
黒塗りの車が、工場の砂利道を去っていく。
北村社長が、大きく息を吐いた。
「……蓮くん。君は、本当に高野さんの孫だなあ」
父さんは、何も言わなかった。
ただ、俺の肩に、油の染みた手をぽんと置いた。
八月。
北斗精工と、九条グループの半導体装置の子会社との間で、五年間の長期供給契約が結ばれた。
同じ月。
日本の政治が、大きく動いた。三十八年間続いた一つの党の政権が終わり、新しい連立政権が誕生した。
テレビのニュースを見ながら、俺は思った。
歴史は、変わらないところは変わらない。
だが、変わるところは、少しずつ変わっている。
九条麗華。
前世の俺は、その名前を知らなかった。
九条銀行の破綻のニュースの中で、どこかの令嬢がどうなったかなど、気にもしなかった。
――あの人も、救える枝の一本なのかもしれない。




