第21話 十七歳の決算書
一九九三年四月。
札幌駅前の古い雑居ビルの三階に、小さな事務所があった。
『山岸投資顧問』
すりガラスの扉に、手書きの文字が貼ってある。
中に入ると、机が二つと、書類棚と、旧式のパソコンが一台。それで全部だった。
「狭くて悪いね。一人でやってるから、これで十分なんだ」
山岸は、そう言って苦笑した。
五十を過ぎて、髪には白いものが増えている。祖父の葬儀から三か月。目の下の隈は、まだ消えていなかった。
「さて、天城くん。高野さんから預かった信託の、最初の報告だ」
山岸は、机の上に一冊のファイルを置いた。
「年末時点で、総額二億三千万円。中身は、アメリカ株が六割。マイクロソフトとインテル。残りは、高野さんが去年の八月に買った日本株と、国債だ」
「アメリカ株、まだ増えてるんですね」
「増えてる。ウィンドウズが、とんでもなく売れてるからね。正直、私には何が起きているのか、よく分からないんだが」
山岸は、眼鏡を外して目頭を押さえた。
「高野さんは、亡くなる前に私に言ったんだ。『信託の中身については、蓮の意見を聞け。最後の判断はお前がしろ』と。……つまり、君が私に助言をして、私が判断する。高野さんと君の関係と、同じ形だ」
「はい」
「最初に聞いておきたい。君の考えでは、これから三年、何を持っておくべきだ」
俺は、ファイルを開いた。
祖父の方眼紙と同じように、几帳面に数字が並んでいる。
「アメリカの株は、そのまま。九五年に、マイクロソフトはもっと大きく伸びます。それから、九五年の夏に、ネットスケープという会社が上場します」
「ネットスケープ」
「インターネットを見るためのソフトを作ってる会社です。上場した日に、株価が倍以上になります」
山岸は、ペンを止めた。
「……天城くん。君は、時々、未来を見てきたような言い方をするね」
心臓が、一つ跳ねた。
「高野さんも、そうだった。いや、高野さんは、君の言うことを、未来の事実みたいに扱っていた。私は、ずっと不思議だったんだ」
「……」
「聞かないでおくよ」
山岸は、ペンを置いた。
「高野さんが信じた子だ。私は、高野さんを信じる。それで十分だ」
俺は、深く頭を下げた。
――頼れ。
祖父の最後の言葉が、胸の奥で響いた。
「部員、四人集まった!」
放課後の物理実験室で、沙月が名簿を高々と掲げた。
『ロケット研究会 設立届』
高校二年生の春。
沙月は、約束通り、本当にロケットのクラブを作ろうとしていた。
「同好会として認めてもらうには、部員五人と顧問の先生が必要なの。あと一人! それと、顧問は蓮の担当ね」
「四人って、誰?」
「私と、蓮と、それから一年生が二人。小松くんと、佐伯さん」
実験室の隅で、二人の一年生が小さく頭を下げた。
小松は、ひょろりと背の高い眼鏡の少年だった。
ラジオの分解が趣味で、半田ごてを握らせれば誰よりも器用だと、沙月が得意げに紹介した。
佐伯は、髪を短く切った、無口な女の子だった。
手にはスケッチブック。中には、精密な機械の図面が何枚も描かれている。
「……これ、全部自分で描いたの?」
「はい。工業高校に行きたかったんですけど、親に反対されて」
佐伯は、少しだけ悔しそうに言った。
俺は、二人の顔を見た。
前世の記憶をたどる。小松。佐伯。どちらも、覚えのない名前だった。
――そうか。
前世の俺は、高校で何もしなかった。ロケットのクラブなど、存在しなかった。
だから、この二人に出会うこともなかった。
この世界で、初めて出会う人間たち。
未来の記憶に、一行も書かれていない人たち。
「よろしく。天城です」
俺が手を差し出すと、小松は慌ててズボンで手を拭いてから握り返した。
佐伯は、少しだけ迷ってから、小さく頷いて握手をした。
「あと一人は、私が絶対に連れてくる。蓮は顧問の先生を説得してね。物理の田所先生、ロケット好きらしいから」
沙月は、もう次の計画を立てていた。
六月。
北斗精工の事務所に、一台の黒塗りの車が止まった。
降りてきたのは、紺のスーツを着た若い女性だった。
栗色の長い髪を、きっちりと後ろでまとめている。年は、二十歳前後だろうか。
その後ろに、鞄を持った中年の男が二人、控えるように立っていた。
その日、俺は父さんの忘れ物を届けに、たまたま工場に来ていた。
「――北村社長はいらっしゃいますか」
女性は、事務所の入り口で、作業着姿の父さんに声をかけた。
丁寧な口調だった。だが、その目は笑っていなかった。
「は、はい。社長は奥に……どちら様で?」
「九条グループの、九条麗華と申します」
九条。
その名前に、父さんの顔が強張った。
九条グループ。
戦前の財閥の流れを汲む、日本有数の企業集団だ。銀行、商社、重工業、化学。傘下の企業は数百社に及ぶ。
そして俺は、その名前を、前世の記憶の中に持っていた。
――九条銀行。
一九九八年に、経営破綻する銀行の一つ。
応接室に通された九条麗華は、北村社長の前に、一冊の書類を置いた。
「単刀直入に申し上げます。北斗精工の株式を、九条グループで買い取らせていただきたいのです」
北村社長が、目を丸くした。
「買い取り、ですか」
「はい。御社の精密加工技術は、半導体製造装置の業界で高く評価されております。九条グループには、半導体装置の子会社がございます。御社をグループに迎え、技術を活かしていただきたい」
麗華は、淀みなく話した。
まるで、何度も練習した原稿を読み上げるように。
「条件は、こちらに。現在の株価評価の、一・五倍で買い取らせていただきます」
北村社長が、書類をめくる手を止めた。
その額は、小さな町工場には、目も眩むような数字だったのだろう。
「……ありがたいお話ですが、うちの株は、私が六割、そこにいる天城が四割を持っております。天城の分は、亡くなった義理の父上から相続したもので」
「存じております」
麗華は、そこで初めて、事務所の入り口に立っていた俺に目を向けた。
まっすぐに。冷たく、値踏みするように。
「そちらが、天城蓮さんですね」
俺は、思わず背筋を伸ばした。
「なぜ、俺の名前を」
「高野宗一郎氏が、晩年に北斗精工に出資された経緯は、調べさせていただきました。そして、その出資の判断に、お孫さんが深く関わっておられたことも」
麗華は、薄く微笑んだ。
「高野宗一郎。かつて、証券業界で『崖の見える男』と呼ばれた方。バブルの頂点で全ての株を売り抜け、底で買い戻した。……私の祖父が、その名前を聞いて、とても悔しそうな顔をしておりました」
応接室の空気が、張り詰めた。
「天城蓮さん。あなたに、お会いしたかったのです」




