第20話 さよならの大納会
一九九二年十二月二十八日。
東京証券取引所、年内最後の取引日。
俺は、朝一番の列車で小樽に向かった。
冬休みの初日だった。
病室の祖父は、もうほとんど話せなくなっていた。
十一月に入ってから、急に悪くなった。医者は、年は越せないかもしれない、と言った。
母さんは、一週間前から病院に泊まり込んでいる。
父さんも、仕事のあとに毎晩札幌から通ってきた。結衣は、祖父の手を握って、学校の話をして帰っていく。
家族が、全員、祖父のそばにいた。
前世の祖父は、一人で死んだ。母さんですら、間に合わなかったと聞いている。
今度は、違う。
「……蓮か」
病室に入ると、祖父がかすかに目を開けた。
酸素のチューブが、鼻に通されている。
「来たよ、じいちゃん。今日は、大納会だよ」
祖父の目が、わずかに動いた。
枕元のラジオを、目で示す。
俺は、ラジオのスイッチを入れた。
ザーッという雑音の向こうから、アナウンサーの声が聞こえてきた。
『――東京株式市場は、本日が大納会。今年の日経平均は、八月に一万四千円台まで下げたあと、持ち直し――』
母さんが、そっと病室を出ていった。
父さんも、結衣の手を引いて、あとに続いた。
二人きりにしてくれたのだと、分かった。
前場が進む。
ラジオが、株価を読み上げていく。
一万六千八百円。一万六千九百円。
「……八月に、買ったな」
祖父が、かすれた声で言った。
一言話すたびに、胸が大きく上下する。
「うん。底から、二割近く戻ったよ」
「……悪くない、最後だ」
祖父の口元が、わずかに緩んだ。
窓の外は、雪だった。
港も、船も、白い幕の向こうにかすんでいる。
「蓮」
「なに?」
「……もう一度、聞かせろ。お前の、未来の話を」
俺は、ベッドの横の椅子に座り直した。
祖父の、骨と皮だけになった手を握る。
「来年は、日本の政治が大きく変わる。それから、二年後の一九九四年に、日本の大型ロケットが、初めて打ち上げに成功する。H-IIっていうロケット」
「……日本の、ロケットか」
「うん。全部、日本の技術で作ったエンジン。俺は、前世でそのエンジンの資料を、何百回も読んだ」
祖父は、目を閉じて聞いていた。
「その次の年には、ウィンドウズ95が出て、日本中の家にパソコンが入る。インターネットが始まる。窓の向こうの会社が、世界で一番大きな会社になる」
「……わしの、目は、正しかったな」
「じいちゃんが買ったんだよ。俺の言うことを、信じて」
祖父の指が、かすかに、俺の手を握り返した。
「それから……それから、俺は会社を作る。ロケットの会社。沙月と、エレナと、父さんと。それから、もっとたくさんの人と」
「……」
「日本のロケットで、宇宙に行く。月にも行く。二〇六一年には、ハレー彗星を、宇宙船で見に行く。沙月と、約束したんだ」
声が、震えた。
それでも、俺は話し続けた。
「全部、見せたかった。全部、じいちゃんに見せたかったんだ」
祖父の目が、ゆっくりと開いた。
濁った目が、まっすぐに俺を見た。
「……見た、ぞ」
かすれた、でもはっきりとした声だった。
「タカノ一号を、見た。……あれが、全部の始まりだ。始まりを見たなら、終わりは、もう見たのと同じだ」
「……じいちゃん」
「相場と同じだ。……底で買ったら、あとは、待つだけだ」
祖父は、少しだけ笑った。
午後三時。
ラジオが、大引けを告げた。
『――本日の大納会、日経平均株価は、一万六千九百二十四円九十五銭で取引を終えました。年間では、二十六パーセントあまりの下落となり――』
一万六千九百二十四円。
三年前の大納会の、半分にも届かない。
だが、祖父の顔は、穏やかだった。
「……三年前は、崖の手前で降りた。今年は、底で拾った」
祖父は、ゆっくりと目を閉じた。
「いい、相場人生だった」
それが、祖父の、相場についての最後の言葉になった。
祖父が息を引き取ったのは、二日後の、十二月三十日の明け方だった。
家族全員が、ベッドのそばにいた。
母さんが、祖父の手を握っていた。父さんが、母さんの肩を抱いていた。結衣が、泣きながら祖父の名前を呼んでいた。
俺は、祖父のもう片方の手を握っていた。
最後に、祖父の唇が、かすかに動いた。
声にはならなかった。
だが、俺には分かった。
口の形が、七年前の雨の日の、あの言葉と同じだった。
――話せ。全部だ。
いや。違う。
――頼れ。
祖父は、静かに、息を引き取った。
窓の外で、雪がやんでいた。港の向こうから、薄く、朝日が差し始めていた。
葬儀は、小樽の古い寺で行われた。
思っていたよりも、ずっと多くの人が来た。
山岸が、目を真っ赤にして焼香をした。北村社長が、工場の職人たちを連れてきた。
東京から、商社の役員が駆けつけた。
そして、喪服の列の一番後ろに、銀縁眼鏡の痩せた男が立っていた。
「……黒崎さん」
「高野さんには、父の代から世話になった」
黒崎は、祭壇の遺影を見上げた。
「惜しい人を亡くした。あの人の忠告を、もっと早く省の上の連中が聞いていたら、と思うよ」
黒崎は、俺の方を向いた。
「天城くん。高野さんの代わりに、とは言わない。だが、拓銀の数字は、これからも見続ける。約束は、守る」
「……ありがとうございます」
「それから――救急車の運転手の話は、まだ生きている。君が大人になったら、また話そう」
黒崎は、それだけ言うと、一礼して去っていった。
葬儀の翌日。
母さんと二人で、祖父の家の書斎を片づけていた。
古い相場の本。黄ばんだ名刺の束。何十年分の方眼紙のグラフ。
祖父の人生が、そこに積み上がっていた。
「……あら」
母さんが、書斎の机の引き出しから、一冊の黒い手帳を取り出した。
――あの手帳だ。
前世の葬式の日に、泣き腫らした目で母さんが見せてくれた、古びた黒い手帳。
表紙の裏に、祖母の写真が挟んである。
「お母さんの写真ね。……お父さん、ずっと持ってたんだ」
母さんは、写真を手に取った。
そして、その裏を見て、手を止めた。
「蓮。……これ、見て」
母さんが、写真を俺に差し出した。
写真の裏に、二行の文字があった。
一行目は、古いインクで、少し滲んでいた。
『富美子、すまない。わしは間違っていなかった』
前世の俺が知っている、あの言葉だ。
そして、その下に。
新しいインクで、震える、でも丁寧な楷書で、もう一行。
『富美子。わしは、間に合った』
俺は、写真を握りしめた。
視界が、滲んでいく。
こらえようとした。契約書の、四つ目だ。正直に言うこと。泣くなとは、どこにも書いていない。
――じいちゃん。
声を上げて、泣いた。
この体になってから、初めてだった。七年前の四月の朝、父さんの手の温かさに泣いて以来、一度も泣かなかったのに。
母さんが、黙って俺の背中を抱いた。
母さんも、泣いていた。
間に合った。
この人は、間に合ったのだ。
崖の手前で降りることにも。
娘と和解することにも。
孫のロケットを見ることにも。
――そして、一人で死ななかったことにも。
一九九二年が、終わろうとしていた。
俺は、十六歳。
祖父から受け継いだものは、二億円の信託と、七年分の方眼紙と、半紙一枚の契約書。
それから、頼っていい人たちの名前。
未来ノートを開く。
前世の記憶が書き込まれたページの、一番新しい余白に、俺は書いた。
『一九九二年十二月三十日 高野宗一郎、永眠』
その下に、もう一行。
『じいちゃんは、間に合った。次は、俺の番だ』




