第26話 北の救急車
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一九九七年四月一日。
札幌の街に、一つのニュースが流れた。
『北海道拓殖銀行と北海道銀行、合併を発表』
テレビの中で、二つの銀行の頭取が並んで頭を下げている。
記者会見の会場には、フラッシュの光が絶え間なく瞬いていた。
「おお、拓銀と道銀が一緒になるのか。北海道の銀行が一つになりゃ、安心だな」
帰省していた実家の居間で、父さんが新聞を広げながら言った。
俺は、黙って茶をすすった。
知っている。
この合併は、半年もしないうちに延期される。そして十一月十七日、拓銀は破綻する。
都市銀行の破綻は、戦後初めて。北海道の経済は、そこから十年以上、立ち直れなかった。
前世の父さんの工場は、その連鎖の中で倒れた。
今の北斗精工は、拓銀と取引をしていない。祖父が七年前に、縁を切らせた。
だが、北海道には、北斗精工のような会社が、何千とある。
「――リストは、これで全部か」
札幌駅前の雑居ビル。
天城キャピタルの事務所は、山岸投資顧問の部屋をそのまま使っていた。机が二つ増え、電話が三台になった。それだけだ。
山岸が、俺の作った書類の束をめくっていた。
「拓銀をメインバンクにしている、道内の製造業。従業員二十人以上で、独自の技術を持っていて、土地や株に手を出していない会社。……全部で、八十七社か」
「黒崎さんが、大蔵省の資料から絞り込んでくれました。そこから、俺がこの一年で回れるだけ回って、四十社まで減らしてあります」
「四十社。一年で、か」
山岸は、眼鏡を外して俺を見た。
「大学は、どうしてるんだ」
「行ってますよ。春から三年生です。週の半分は、こっちですけど」
東京大学工学部、航空宇宙工学科。
沙月と同じ学科に、俺は進んでいた。授業のない日は、千歳行きの飛行機に乗る。一年間で、往復の航空券の半券が、引き出し一つ分たまった。
「天城くん。一つ、確認しておきたい」
山岸は、真面目な顔になった。
「この四十社を救うには、いくら要ると思う」
「拓銀が倒れた時、取引先は一斉に資金繰りに詰まります。新しい銀行に移るまでの、つなぎの資金。それから、一部の会社には出資も。……全部で、三十億から五十億」
山岸は、黙ってファイルを閉じた。
「天城キャピタルの資産は、今、八億だ。君が去年言った通り、マイクロソフトとインテルがまた伸びた。だが、八億だ」
「分かっています」
「足りない。圧倒的に」
「だから、仲間を集めます」
俺は、もう一つの書類を机に置いた。
「黒崎さんが、国の側から受け皿の銀行を用意してくれる。でも、つなぎの資金までは、国は出せない。だから、民間でファンドを作るんです。北海道の技術を守るためのファンド」
「出資者は」
「商社です。祖父の紹介で、ソ連の奨学金を仲介してくれた役員の会社。あの人、今は副社長になっています。それから、道内の信用金庫を、いくつか」
山岸は、しばらく考え込んでいた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……高野さんが聞いたら、何と言うかな」
「『年寄りを、まだ休ませてくれんのか』って言うと思います」
山岸は、声を出して笑った。
五月十五日。
東京・本郷の、俺の下宿。
古いパソコンの画面に、英語のニュースサイトが映っていた。
大学の回線を使って、インターネットにつないでいる。
『オンライン書店アマゾン・ドット・コム、ナスダック市場に上場』
「……アマゾンって、本屋さん?」
隣で覗き込んでいた沙月が、首をかしげた。
研究室の帰りに、二人で論文を読む約束をしていたのだ。
「今はね。インターネットで本を売ってる会社。でも、いつか何でも売るようになる。それから、パソコンの計算力そのものを、世界中に貸し出すようになる」
「パソコンの計算力を、貸す?」
「ロケットの設計で、何百台ものコンピューターが必要になった時、自分で買わなくても、インターネット越しに借りられるようになるんだ」
沙月は、少し考えてから言った。
「それ、すごく便利だね。私たちの研究室、計算機の予約で毎週ケンカになってるもん」
「でしょ」
「……で、蓮はまた、その会社の株を買うの?」
沙月は、じっと俺の顔を見ていた。
「中学の時から、ずっとそうだよね。蓮が『いつか』って言う会社、必ず大きくなる。おじいちゃんの株の話も、私、なんとなく分かってたよ」
「……」
「聞かないけどね。蓮が話したくなったら、話して」
沙月は、そう言って論文に目を戻した。
山岸と、同じことを言う。
祖父の周りに集まった人たちは、みんなそうだ。
――時が来たら、お前の口から話せ。
契約書の三つ目を、俺は思い出していた。
沙月は、家族ではない。だが、いつか必ず話さなければならない人だ。
七月二日。
タイの通貨が、暴落した。
それが、アジア中に広がっていった。
インドネシア、韓国、マレーシア。次々に通貨が売られ、経済が崩れていく。
日本の銀行は、アジアにも多くの金を貸していた。弱っていた体に、もう一つ傷が増えた。
九月。
拓銀と道銀の合併が、延期されると発表された。
「天城くん」
霞が関の喫茶店で、黒崎は、いつもより早いペースで煙草を吸っていた。
「拓銀は、もう持たない。年内だ」
「十一月です」
黒崎の手が、止まった。
「……君は、いつもそうだな。日付まで言う」
「十一月の、半ばです。その前に、本州で証券会社が一つ倒れます。それが引き金になって、短期の資金を貸してくれる相手がいなくなる」
黒崎は、長いこと俺を見つめていた。
やがて、煙草を灰皿に押しつけた。
「受け皿は、決まった。北洋銀行だ。北海道の事業は、北洋に引き継がせる。倒れてから慌てて決めるのではなく、事前に話をつけておく。君が七年前に言った、救急車だ」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。北洋が引き継げるのは、まともな取引先だけだ。引き継ぎまでの数か月、資金が止まる会社が必ず出る。そこは、国では面倒を見られない」
「そこは、俺たちがやります」
黒崎は、わずかに口元を緩めた。
「頼もしいな、救急車の運転手くん」
その日の夜。
東京の天城キャピタルの仮事務所――といっても、俺の下宿の隣の部屋を借りただけの場所――に、一本の電話がかかってきた。
『天城蓮さんですね。九条麗華です』
四年ぶりに聞く、冷静な声だった。
『お会いしたいのです。できるだけ早く』
「……何かありましたか」
『九条銀行は、もう持ちません』
受話器の向こうで、麗華が小さく息を吸った。
『天城さん。あなたに、買っていただきたいものがあるのです』




