第18話 海の向こうの技術者
一九九一年十二月二十五日。
クリスマスの夜に、一つの国が消えた。
『――ソビエト連邦の大統領が、辞任を表明しました。これにより、ソ連は事実上、消滅することになります』
クレムリンの屋根から、赤い旗が降ろされていく。
代わりに、白と青と赤の三色旗が揚がった。
俺は、こたつの中で、じっとその映像を見ていた。
七十年続いた国が、一晩で終わる。
世界で初めて人工衛星を飛ばし、初めて人間を宇宙へ送った国が。
「すげえ時代だな」
父さんが、みかんを剥きながら言った。
「ソ連がなくなったら、あそこで働いてた人たちは、どうなるんだろうな」
「……みんな、仕事がなくなる」
俺が答えると、父さんは驚いたように振り向いた。
「ロケットを作ってた人たちも?」
「うん。国のお金で作ってたから。国がなくなったら、給料も出ない。来年になったら、一流の技術者が、市場で自分の家の物を売って生活するようになる」
父さんは、手を止めた。
職人として、何か思うところがあったのかもしれない。
「……そりゃ、もったいねえな」
「うん。すごく、もったいない」
前世の記憶では、そうした技術者たちの多くは、アメリカや中国、あるいは中東の国々に流れていった。
アメリカは、ソ連のロケットエンジンを買い、技術者を雇った。中国は、その技術を吸収して、宇宙大国になっていった。
日本は、何もしなかった。
――今度は、違う。
年明けの小樽。
祖父は、居間に布団を敷いて横になっていた。
秋から、起きている時間が減った。
それでも、俺が来ると、必ず体を起こした。
「ソ連の技術者を、日本に呼びたい?」
祖父は、枕元の湯呑みに手を伸ばしながら言った。
俺は、それを取って渡した。
「うん。全員は無理だけど、何人かでも」
「十五の子供が、どうやって」
「……分からない。だから、相談に来たんだ」
祖父は、茶を一口すすった。
しばらく天井を見つめて、考えていた。
「名前は、分かるのか。呼びたい技術者の」
「何人かは。前世で一緒に仕事をした人たちが、もとはソ連の技術者だった。その人たちの若い頃の名前と、所属していた研究所なら、覚えてる」
前世の俺の会社には、ロシア出身のエンジン技術者が二人いた。
どちらも、ソ連崩壊の混乱の中でアメリカに渡り、三十年後に日本へ流れ着いた人たちだった。
酒が入ると、決まって昔の話をした。モスクワの研究所のこと。給料が何か月も出なかったこと。そして、優秀だったのに名前が残らなかった、若い同僚たちのこと。
「特に、一人。ヴォルコワっていう女の人がいるんだ」
「女の技術者か」
「今は、まだ十九歳くらい。モスクワの航空大学の学生。前世で一緒に働いた人が、『あの子が一番の天才だった』って、何度も言ってた。燃焼の研究で、すごい論文を書いて……でも、ソ連が崩壊して、研究を続けられなくなった。最後は、どこかの国の工場で、設計とは関係ない仕事をしてたって」
エレナ・ヴォルコワ。
前世の俺は、その名前を、論文の中でしか知らない。
十年後に彼女が書いた燃焼不安定の論文は、俺のエンジン設計の土台になった。
「その娘を、日本に呼びたいのか」
「呼びたい。でも、今すぐじゃなくていい。今の彼女には、まず研究を続けられる場所が必要なんだ。お金の心配をしないで、勉強を続けられる場所が」
祖父は、目を閉じた。
長い沈黙だった。
「……奨学金、か」
ぽつりと、祖父が言った。
「研究を続けさせるための金を、日本から出す。今は日本に来いとは言わん。だが、恩は売っておく。いずれ、その恩が人を連れてくる」
「うん。そういうこと」
「相場と同じだな。底で買えば、値上がりは大きい」
祖父は、目を開けて、少しだけ笑った。
「ソ連の技術者は、今が底値か。皮肉な話だ」
祖父は、枕元の古い名刺の束を手繰り寄せた。
黄ばんだ名刺を一枚ずつめくり、やがて、一枚を抜き出した。
「総合商社の、ロシア担当の男だ。昔、わしが上場の面倒を見た会社の、今は役員になっておる。モスクワに支店がある」
「その人に、頼めるの?」
「頼むのはわしではない。お前だ」
祖父は、名刺を俺に差し出した。
「わしの名前で紹介状は書く。だが、話をするのはお前だ。十五の子供がどれだけ本気か、向こうに見せてこい」
二月。
俺は、東京の商社の本社ビルにいた。
応接室に通されると、五十代の、日焼けした男が待っていた。
名刺には、「ロシア・東欧部門担当役員」とある。
「高野さんのお孫さん、か。紹介状は読んだよ。……正直に言うと、半分冗談だと思ってた」
男は、俺を上から下まで眺めた。
中学の制服を着た、十五歳の子供を。
「ソ連の学生に奨学金を出したい、と。いくらだ」
「一人あたり、年に三千ドル。最初は、五人。三年間」
男の眉が、跳ね上がった。
三千ドル。
今のモスクワでは、大学教授の年収の何倍にもなる額だ。
「総額で、四万五千ドル。日本円で六百万円くらい。お金は、祖父と私で出します」
「……そのお金で、何を得たい。見返りは」
「今は、何も」
男は、意外そうな顔をした。
「研究を続けてもらうこと。それだけです。いつか、彼らが日本で働きたいと思った時に、最初に思い出してもらえれば、それで十分です」
男は、しばらく黙っていた。
それから、ソファに深く座り直した。
「君は、ソ連崩壊で何が起きているか、分かっているのか。向こうの研究所は、ひどい有様だ。給料は半年出ていない。優秀な連中から、アメリカに引き抜かれている。日本の会社も、何社か声をかけているが、どこも腰が引けている」
「だから、今なんです」
俺は、まっすぐに男を見た。
「日本の会社が腰を引いている今だから、小さなお金でも、ちゃんと届く。アメリカが何百万ドルで技術者を買っている時に、日本は学生に三千ドルの奨学金を出す。金額は小さくても、誰が手を差し伸べたかは、ちゃんと覚えています」
男は、俺の顔をじっと見つめた。
やがて、ため息をついて、苦笑した。
「……高野さんが、なんでわざわざ紹介状を書いたのか、分かった気がするよ」
男は、手帳を開いた。
「モスクワ支店の人間に、モスクワ航空大学と、いくつかの研究所に当たらせる。君が名前を挙げた学生が実在するかどうかも、確認しよう」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。うまくいくかどうか、まだ分からんぞ」
男は、立ち上がって、手を差し出した。
「名前を、もう一度聞いておこう」
「天城蓮です」
「天城くん。君がいつか本当にロケットを飛ばす会社を作ったら、うちと取引してくれよ」
俺は、その手を握り返した。
帰りの飛行機の中で、俺は窓の外の雲を見ていた。
前世の日本は、ソ連の技術者に手を差し伸べなかった。
今度は、小さな手を、一つだけ差し出した。
届くかどうかは、分からない。
だが、何もしなければ、確実に届かない。
小樽に着いたのは、夜遅くだった。
祖父は、布団の中で起きて待っていた。
「どうだった」
「動いてくれるって。名前の確認も、してくれる」
「そうか」
祖父は、目を閉じた。
口元が、少しだけ緩んでいた。
「……底値で、いい買い物をしたな」




