第16話 残された時間
一九九一年一月十七日。
テレビの画面が、緑色に光っていた。
暗視カメラが映す、バグダッドの夜空。
無数の光の筋が、闇を切り裂いて飛び交っている。
『――アメリカを中心とする多国籍軍は、イラクへの空爆を開始しました。湾岸戦争の始まりです』
居間の空気が、凍りついた。
父さんも母さんも、箸を持ったまま画面を見つめている。結衣は、母さんの腕にしがみついていた。
「戦争……本当に、始まっちゃったのね」
母さんの声が、かすれていた。
俺は、画面の中の光の筋を見ていた。
巡航ミサイル。誘導爆弾。
前世の俺が、技術者として一番近づきたくなかった種類の「ロケット」だった。
同じ技術だ。
空へ人を運ぶエンジンも、人を殺すために飛ぶエンジンも、根っこは同じところにある。
――だからこそ、と俺は思う。
ロケットを、空へ行くためだけに使う国が、一つくらいあってもいい。
三月。
戦争は、あっけなく終わった。
日本は、多国籍軍のために莫大な金を出した。総額で百三十億ドル。国民一人あたり、一万円を超える。
だが、戦争が終わったあと、解放されたクウェートが世界の新聞に出した感謝の広告に、日本の名前はなかった。
「金だけ出して、誰にも感謝されない、か」
小樽の縁側で、祖父が新聞を畳んだ。
「この国は、いつもそうだ。汗をかかずに、金で済ませようとする。金で済むうちはいい。だが、金がなくなった時には、何も残らん」
祖父は、こほ、と咳をした。
年が明けてから、祖父は目に見えて痩せた。和服の襟元から覗く首筋が、細くなっている。
それでも、月に一度の小樽通いは続いていた。
祖父は、会うたびに新しい本を俺に渡し、相場の話をし、最後に必ず聞いた。
「今月、学校はどうだ」
俺は中学三年生になろうとしていた。
高校受験が近い。沙月と同じ、札幌の進学校を目指している。
「沙月が、毎日数学の問題を出してくるんだ。俺が解けないと、すごく嬉しそうにする」
「お前が解けん問題があるのか」
「あるよ。前世の俺は技術者だったけど、中学の数学なんて三十年以上前の話だもん。忘れてることばっかりだよ」
祖父は、喉の奥で低く笑った。
「それでいい。全部を知っている人間など、つまらん」
四月のある日曜日。
縁側で茶を飲んでいた祖父が、ふいに言った。
「蓮。お前は、いつ日本のロケットを宇宙に飛ばす」
俺は、湯呑みを持つ手を止めた。
「……二十年くらい、かかると思う」
「二十年か」
「お金だけじゃ、ロケットは飛ばない。人を集めて、技術を育てて、失敗して、また失敗して。前世でも、そうだった」
祖父は、庭の松を見つめた。
「わしは、見られんな」
穏やかな声だった。
嘆きでも、恨み言でもない。ただ、事実を確かめるような声。
俺は、何も言えなかった。
国の大型ロケット、H-IIは、まだ開発の途中だ。
前世の記憶では、初めて打ち上げに成功するのは一九九四年の二月。
祖父の余命は、長くて二年。来年の終わりまで。
間に合わない。
国のロケットも、俺のロケットも。
「まあいい。年寄りは、若い者の夢を聞くのが仕事だ。見られんでも、聞かせてもらえば十分だ」
祖父は、そう言って笑った。
――十分じゃない。
帰りの列車の中で、俺はずっと窓の外の海を見ていた。
前世の俺は、何も間に合わなかった。
父さんにも、母さんにも、何も見せられないまま、一人で死んだ。
今度も、そうなるのか。
この人に、何も見せられないまま。
――いや。
列車が札幌の駅に滑り込む頃、俺は一つの考えにたどり着いていた。
大きなロケットは、間に合わない。
でも、小さなロケットなら。
「模型ロケット?」
翌日の放課後、理科室。
沙月が、俺の持ってきた雑誌を覗き込んだ。
アメリカの模型ロケットの雑誌だった。
紙とプラスチックでできた細長い機体に、市販の小さな固形燃料モーターを積んで飛ばす。パラシュートで回収して、何度でも打ち上げられる。
「ペットボトルロケットの、ずっと上。高さ数百メートルまで飛ぶ」
「数百メートル!?」
「日本でも、ライセンスを取れば飛ばせるんだ。顧問の先生が、昔取ったって言ってた」
沙月は、雑誌の写真を食い入るように見つめた。
白い煙の尾を引いて、まっすぐに空へ昇っていく、小さなロケット。
「……これ、本物のロケットみたい」
「本物だよ。小さいだけで、仕組みは同じ」
沙月が顔を上げた。
目が、きらきらと光っていた。
「やる! 絶対やる! 蓮、いつ?」
「夏休み。それまでに、設計と、ライセンスと、場所」
「夏休みかあ。……あれ、でも蓮、受験は?」
「両方やる」
「両方って」
「じいちゃんに、見せたいんだ」
沙月は、少し驚いたように俺を見た。
祖父の病気のことは、母さんから沙月の母親に、そして沙月にも伝わっているらしかった。
沙月は、何も聞かなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、絶対に成功させなきゃね」
沙月は、ノートを開いた。
新しいページの一番上に、丸っこい字で大きく書く。
『おじいちゃんに見せるロケット 計画書』
その字を見て、喉の奥が熱くなった。
俺は、黙って隣に座った。
夏まで、あと四か月。
今度こそ、間に合わせる。




