第15話 枝を残す
「次は、銀行です」
受話器を握りしめて、俺は言った。
「土地の値段は、株より一年か二年遅れて下がり始めます。そうなると、土地を担保にお金を貸していた銀行が、本当に苦しくなる。でも、銀行は損を認めたくないから、貸したお金が返ってくるふりをして、帳簿の上だけ取り繕う」
『……先送りか』
「はい。それを何年も続けると、最後には一番大きな銀行から倒れます。国が助けようとしても、もう手遅れなくらいに」
受話器の向こうで、煙草に火をつける音がした。
『具体的には、どこが危ない』
俺は、一瞬だけ迷った。
それから、祖父の顔を見た。祖父は、黙って小さく頷いた。
「――北海道拓殖銀行」
長い沈黙。
『根拠は』
「土地への貸し出しが、規模の割に多すぎます。リゾート開発とか、ゴルフ場とか。北海道の景気は、本州より遅れて悪くなる。気づいた時には、もう遅い」
前世の記憶だけではない。
この五年間、祖父と一緒に会社四季報を読み込み、新聞の地方面を切り抜いてきた。拓銀の危うさは、数字からもちゃんと見えていた。
『……四半期報告の数字と、合っている』
黒崎の声が、低くなった。
『高野さんの孫は、相変わらず、とんでもないな』
「黒崎さん。お願いがあります」
『なんだ』
「すぐに何かをしてほしいわけじゃないんです。でも、拓銀の数字だけは、ずっと見ていてください。毎回、必ず」
また、沈黙。
やがて、黒崎は短く言った。
『分かった。約束する』
電話が切れた。
受話器を置くと、祖父が茶を淹れ直していた。
「国の方は、あの男に任せるしかない。わしらは、わしらの枝を守るぞ」
「北斗精工?」
「そうだ」
祖父は、方眼紙を一枚取り出した。
そこには、北斗精工の取引先、借入金、取引銀行が、几帳面な字で書き込まれていた。
「いつの間に調べたの」
「三年前からだ。わしは、自分が金を出す先の値打ちは、自分で確かめる」
自分が金を出す先。
俺は、その言葉に引っかかった。
「じいちゃん、それって……」
「北斗精工に、出資する」
祖父は、あっさりと言った。
「拓銀から借りている金を、全部返させる。代わりに、わしが株主になる。取引銀行は、一つに頼らず、いくつかに分ける。拓銀が潰れても、工場が巻き込まれんようにな」
十一月の日曜日。
北斗精工の事務所に、四人の男が集まった。
社長の北村。
父さん。
祖父。
そして、なぜか俺。
「お孫さんも、同席されるんですか」
北村社長は、六十手前の、角刈りの小柄な男だった。
油の染みた作業着の上に、慌てて羽織ったらしい背広を着ている。
「社会勉強だ。気にせんでくれ」
祖父は、そう言って座った。
父さんは、ひどく緊張していた。義理の父親が、自分の勤め先の社長と向かい合っているのだ。無理もない。
祖父は、単刀直入に話を切り出した。
出資額は、八千万円。
北斗精工の拓銀からの借入金を全額返済し、残りは新しい設備に回す。
その代わり、祖父が会社の株の四割を持つ。経営には口を出さない。ただし、取引銀行を三行以上に分けること。土地や株には、手を出さないこと。
北村社長は、話を聞き終えると、しばらく黙り込んだ。
「……ありがたい話です。正直、喉から手が出るほど」
社長は、膝の上で拳を握った。
「ですが、一つだけ伺いたい。なぜ、うちなんですか。高野さんほどの方なら、もっと大きな会社に、いくらでも金を出せるでしょう」
祖父は、少しだけ考えるような顔をした。
それから、隣に座っている父さんに目をやった。
「この会社の値打ちは、人の腕だ。天城くんの腕を見て、わしはそう思った」
父さんの肩が、びくりと震えた。
「それに――」
祖父は、北村社長に向き直った。
「四年前、東京の半導体装置の会社から、試作の注文が来たのを覚えておるか」
「え、ええ。あれがなかったら、うちは円高で潰れていました。急に話が来て、どこから聞きつけたのかと不思議に……」
社長の言葉が、途中で止まった。
祖父の顔を、まじまじと見つめる。
「……まさか」
「わしの古い知り合いの会社だ。紹介状を一枚、書いただけだがな」
事務所の中が、静まり返った。
父さんが、ゆっくりと祖父の方を向いた。
その目が、大きく見開かれていた。
「お義父さん……あれは、お義父さんが……」
「名前は出すなと言っておいたんだがな。年を取ると、口が軽くなっていかん」
祖父は、ばつが悪そうに目を逸らした。
「だが、注文を取ったのは、お前の腕だ。わしは、門を開けただけだ。門の向こうへ歩いていったのは、お前だ」
父さんは、何も言えなかった。
唇を噛み、俯いて、膝の上の拳を震わせていた。
やがて、絞り出すように言った。
「……ありがとう、ございます」
その声は、震えていた。
「俺、ずっと……お義父さんに、認めてもらえないと思ってました。春子を、苦労させてばかりで」
「苦労させておるのは、わしも同じだ。あれの母親を、苦労させて死なせた」
祖父は、静かに言った。
「天城くん。春子を、頼む。それから、この子もな」
祖父の手が、俺の頭に乗った。
骨張った、冷たい手だった。
十二月。
北斗精工は、拓銀からの借入金を全額返済した。
取引銀行は、地元の信用金庫と、本州の地方銀行と、もう一行に分けられた。
前世で父さんの工場を潰した、あの融資契約書は、この世界にはもう存在しない。
――一本目の枝は、守れた。
大晦日の前の日。
俺は、小樽の祖父の家にいた。
今年最後の、月に一度の訪問。
祖父は縁側で、松の盆栽に最後の鋏を入れていた。
「蓮」
「なに?」
「契約書の、四つ目を覚えておるか」
俺は、首をかしげた。
「記憶が外れたと思った時は、正直に言うこと」
「そうだ。……あれは、お前だけに課したものではない。わしにも、正直に言わねばならんことがある」
祖父は、鋏を置いた。
そして、和服の懐から、一通の封筒を取り出した。
病院の名前が印刷されていた。
「春に、病院へ行った。気管支炎だと言われたのは、嘘ではない。だが、それだけではなかった」
冬の夕日が、縁側を赤く染めている。
祖父の横顔が、その光の中で、ひどく小さく見えた。
「肺に、悪いものがある。……医者は、長くて、あと二年だと言った」
頭の中が、真っ白になった。
知らなかった。
前世の俺は、祖父の死期を知らなかった。
だから――知らないまま、ここまで来てしまった。
「なんで……なんで、もっと早く」
「お前が知ったら、相場どころではなくなるだろう。大納会の前に、言えるか」
祖父は、穏やかに笑った。
「それに、わしは嘘はついておらん。お前が聞いたのは『風邪か』と『大丈夫か』だけだ。風邪ではない、とは言わなかったが、大丈夫だ、とも言っておらん」
「そんなの、屁理屈だよ……!」
声が、震えた。
目の奥が熱くて、祖父の顔がぼやけていく。
祖父は、そっと俺の肩に手を置いた。
「泣くな。わしは、まだ死んでおらん」
「……」
「二年あれば、できることはいくらでもある。お前に教え残したことも、まだ山ほどある。……それにな」
祖父は、庭の松を見つめた。
「わしは、五年前のあの日、もう一度生き直すことにしたのだ。お前と一緒にな。だから、残りの時間も、お前と一緒に使う」
港の方で、汽笛が鳴った。
冬の短い日が、海の向こうに沈んでいく。
俺は、祖父の手を握った。
骨張った、冷たい手だった。
――二年。
今度こそ、間に合わせる。
この人に、見せなきゃいけないものが、まだたくさんある。




