第13話 窓の向こうの会社
「ウィンドウズ、だと?」
五月の小樽。
祖父は、俺が差し出した英字の経済誌の切り抜きを、眉をひそめて眺めた。
「窓、という意味か。何の会社だ」
「会社の名前じゃなくて、商品の名前。マイクロソフトっていうアメリカの会社が作ってる、パソコンを動かすソフト」
「ソフト……」
祖父の顔に、はっきりと「分からん」と書いてあった。
無理もない。この時代、パソコンを持っている家など、ほとんどない。
一九九〇年五月二十二日。
マイクロソフトは、ウィンドウズの三代目を発売する。
前世の歴史では、これが爆発的に売れた。
画面に窓が並び、マウスで操作できるパソコン。それまで一部の専門家のものだったパソコンが、普通の会社員の机に乗るようになる。
五年後のウィンドウズ95で、それは家庭にまで広がる。
「じいちゃん。日本の株は、これから何年も下がる。持っているお金を、日本だけに置いておくのは危ない」
「それは分かる。だが、なぜアメリカの、それもソフトとやらの会社なんだ」
「これから三十年、世界で一番お金を稼ぐのは、目に見えない物を作る会社だから」
祖父は、腕を組んだ。
「目に見えない物」
「うん。工場も、土地も、ほとんどいらない。一度作ったソフトは、何百万回でもコピーして売れる。材料費は、ほとんどゼロ」
祖父の目つきが、少しだけ変わった。
相場師の目だった。
「……原価がゼロに近い商品か。それが本当に売れるなら、利益率は化け物のようになるな」
「なる。マイクロソフトの株は、これから十年で、何十倍にもなる」
「何十倍」
祖父は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと切り抜きを卓に置いた。
「正直に言えば、わしにはこの会社の値打ちが分からん。会社四季報にも載っておらん。工場も見えん。わしの四十年の経験は、ここでは役に立たん」
「……」
「だから、お前の記憶と、お前の理屈に賭ける。ただし、全部ではない」
祖父は、方眼紙に数字を書き込んだ。
「三億二千万のうち、一億をアメリカの株に回す。残りは、当面は預金と国債だ。日本の株は、底が見えるまで手を出さん」
「マイクロソフトだけ?」
「お前の記憶で、他に有望なのはどこだ」
俺は、考えた。
この時代に存在していて、これから大きく伸びる会社。
「インテル。パソコンの頭脳になる半導体を作ってる会社。ウィンドウズが売れれば、インテルの半導体も売れる」
「半導体か。それならわしにも分かる」
「それから……」
言いかけて、口をつぐんだ。
アップル。今はまだ元気だが、数年後に倒産寸前まで落ちぶれる。買い時は、一九九七年だ。
アマゾンも、グーグルも、まだこの世に存在しない。
「今はその二つでいい。次の買い時は、また言う」
「ふむ」
祖父は、黒電話の受話器を取った。
「――山岸か。わしだ。お前のところ、外国株は扱っておったな」
六月。
科学部の理科室は、水浸しになっていた。
「また落ちたー!」
沙月が、校庭から濡れたペットボトルを拾って戻ってくる。
試作四号機は、二十メートルほど飛んだところで、くるりと回転して地面に落ちた。
「真っ直ぐ飛ばないんだよね。空中でぐるぐる回っちゃう」
「重心が後ろすぎるんだ」
俺は、ペットボトルの先端を指で叩いた。
「ロケットは、重心が前にあって、空気の力を受ける中心が後ろにあると、真っ直ぐ飛ぶ。逆だと、矢羽根が前についた矢みたいに回っちゃう」
「矢羽根が前……あ、そっか! だから先っぽに粘土を入れるんだ!」
沙月は、ノートに図を描き始めた。
重心と、空気の力の中心。二つの点を矢印で結ぶ。
「じゃあ、羽根も大きくしたら、後ろに引っ張られて安定する?」
「そう。でも大きすぎると、空気の抵抗が増えて飛ばなくなる」
「バランスかあ。……あーもう、計算することいっぱい!」
沙月は髪をかきむしったが、その顔は楽しそうだった。
五号機は、先端に粘土を詰め、羽根を三枚に増やした。
圧力を上げて、角度を四十五度に合わせる。
「いくよ。三、二、一――」
シュッ、という音。
白い水の尾を引いて、ペットボトルが空に駆け上がった。
真っ直ぐに。
放物線を描いて、校庭の端まで。
「……飛んだ」
沙月が、ぽかんと口を開けている。
巻き尺を持って走っていった一年生が、遠くで叫んだ。
「六十二メートルでーす!」
「やったぁ!!」
沙月が、俺の両手を掴んでぶんぶんと振った。
理科室の窓から、科学部の顧問の先生が拍手をしていた。
六十二メートル。
前世で俺が設計したロケットは、高度百キロを超えた。
なのに、今日の六十二メートルが、なぜか同じくらい嬉しかった。
「蓮、あと二十メートル! 夏までに、絶対優勝しようね!」
「うん」
夕焼けの校庭に、水たまりがきらきらと光っていた。
六月の終わり。
祖父から電話があった。
『ウィンドウズとやら、売れておるそうだな。アメリカの新聞に載っておった』
「うん」
『マイクロソフトの株も、買った時から二割上がった。……日本の株は、四月からさらに一割下がっておる』
受話器の向こうで、祖父がページをめくる音がした。
『窓の向こうの会社、か。わしには見えん世界だ』
「じいちゃん」
『なんだ』
「見えるようになるまで、俺が説明するよ。何年かかっても」
短い沈黙。
それから、祖父の低い笑い声が聞こえた。
『――年寄りに、何年も勉強させる気か。まったく、とんでもない孫だ』
祖父の声は、笑っていた。
だが、その笑いのあとに続いた咳は、前よりも長かった。




