第12話 総量規制
一九九〇年三月二十七日。
夕刊の一面に、小さな見出しが載った。
『大蔵省、不動産融資に総量規制 銀行に通達』
小さな、と言ったのは、俺の感覚だ。
実際には、経済面のトップ記事だった。だが、父さんも母さんも、その記事には目もくれなかった。
「土地の値段が下がるんなら、そのうち家が買えるかもしれないわね」
母さんが、のんきに言った。
父さんも「そうなりゃいいな」と笑っている。
――そうはならない。
土地の値段は下がる。だが、それと同時に、勤め先の給料も、ボーナスも、仕事そのものも減っていく。
家を買えるようになる頃には、誰も家を買う余裕がなくなっている。
俺は、黙って夕刊を畳んだ。
その夜、小樽から電話がかかってきた。
『黒崎から連絡があった』
祖父の声は、いつもより少しだけ明るかった。
『通達そのものは、予定通り出た。だが、一つだけ変わった点がある』
「変わった?」
『通達の最後に、一行だけ書き加えられたそうだ。「銀行は、不動産関連融資の状況を、四半期ごとに詳細に報告すること」とな』
俺は、受話器を握り直した。
『黒崎が、局長に食い下がって入れさせたらしい。土地の値段が下がった時、どの銀行がどれだけ危ないのかを、早く掴むためだと』
「……救急車」
『そうだ。あの男なりの、救急車だ』
たった一行。
歴史の教科書には、決して載らない一行だ。
だが、前世の日本の銀行は、不良債権の実態を何年も隠し続けた。
大蔵省ですら、正確な数字を掴めていなかった。それが、処理の先送りを招いた。
もし、その数字が、最初から見えていたら――。
『大きな変化ではない。報告をさせても、銀行が正直に書くとは限らん』
「うん。でも、ゼロじゃない」
『……そうだな』
祖父は、小さく笑った。
『それから、黒崎がお前によろしくと言っておった。「救急車の運転手を、十年後に一人探している」とな』
「どういう意味?」
『知らん。あの男なりの冗談だろう』
電話が切れたあとも、俺はしばらく受話器を置けなかった。
歴史が、ほんの少しだけ動いた。
俺の言葉が、国の文書の、たった一行になった。
四月。
俺は中学二年生になった。
「蓮、今年の科学部の目標、決まったよ!」
放課後の理科室で、沙月が一枚の紙を机に叩きつけた。
『全道中学生ペットボトルロケット大会 出場』
「ペットボトルに水を入れて、空気で飛ばすやつ。夏に大会があるんだって。去年の優勝記録は、八十メートル」
「沙月、天文部じゃなかったっけ」
「両方入ってるもん。蓮と一緒で」
沙月は、得意げに胸を張った。
天文部と科学部の兼部は、去年の春に二人で決めたことだ。
「ロケット作る人になるんでしょ? まずはこれで優勝しないと」
俺は、思わず笑ってしまった。
前世で三十年ロケットを作ってきた男が、ペットボトルロケットで中学生と勝負する。
――悪くない。
「分かった。やろう」
「やった! じゃあ、まずは設計図ね。蓮がロケット担当、私が計算担当!」
沙月は、ノートを広げた。
そこには、すでに放物線の計算式がびっしりと書き込まれていた。
「打ち上げの角度と、水の量と、空気の圧力。全部変えて、一番遠くに飛ぶ組み合わせを探すの。お父さんに、関数電卓借りてきた」
「……沙月、それ、どこで習ったの」
「図書館の本。高校の物理って面白いよ」
俺は、ノートの数式を覗き込んだ。
空気抵抗まで考慮に入れようとしている。中学二年生のノートではなかった。
前世の彼女は、アメリカの研究所で宇宙物理学をやっていた。
あの頃、どれだけの努力を重ねたのだろう。
俺は、それを一度も聞いたことがなかった。
「沙月」
「ん?」
「すごいね、これ」
「でしょ! でもね、空気抵抗のところが分からないの。蓮、分かる?」
「……少しだけ」
少しだけ、ではない。
だが、全部を教えてしまっては、意味がない気がした。
「一緒に考えよう」
沙月は、嬉しそうに頷いた。
四月二日。
その朝、株と、円と、債券が、同時に崩れた。
日経平均は、一日で二千円近く下げ、二万八千円台に沈んだ。
年初から数えれば、三か月で一万円以上が消えたことになる。
『トリプル安』
新聞の見出しには、聞き慣れない言葉が躍った。
株も、円も、国債も、すべてが売られる。日本という国そのものが、売られている。
「おいおい、どうなってんだ、これ」
父さんが、新聞を握りしめた。
「北村社長が言ってたぞ。取引先の会社が、株で大損したって。土地を買った会社は、もっと大変だって」
「うちの工場は、大丈夫なの?」
母さんが、不安そうに聞く。
「うちは土地を買わなかったからな。……あの時、お義父さんに言われてなかったら、と思うとゾッとするよ」
父さんは、そう言って俺の方を見た。
「蓮。お前のじいちゃんは、すごい人だな」
「……うん」
すごい人だ。
でも、その人の咳は、春になっても止まらない。
窓の外では、雪解けの水が、どこかへ流れていく音がしていた。




