第11話 大発会
一九九〇年一月四日。
新年最初の取引日、日経平均は二百円あまり下げて始まった。
「なに、ご祝儀相場の反動だろう」
テレビの中で、証券会社の解説者が笑っている。
「年内には四万円台を回復するでしょう」と、隣のアナウンサーが頷いた。
居間でみかんを食べていた父さんが、のんきに言った。
「ほらな、蓮。株なんてのは上がったり下がったりするもんだ。年末に上がったんだから、ちょっとくらい下がるさ」
「……うん」
ちょっとくらい、ではない。
今日から始まる下落は、九か月で日経平均を半分近くまで押し下げる。
そして、日本はそれから三十年以上、この日の値段に戻れない。
俺は、こたつの中で拳を握った。
――あと、三日。
一月七日、日曜日。
俺と祖父は、早朝の千歳空港から東京行きの飛行機に乗った。
母さんには「おじいちゃんと東京の博物館に行く」と説明してある。
嘘ではない。帰りに上野の国立科学博物館に寄る約束を、祖父としてあった。
「飛行機は好かん」
隣の席で、祖父がぶつぶつと言った。
機体が揺れるたびに、肘掛けを握る手に力が入っている。
「ロケットに比べたら、ゆりかごみたいなもんだよ」
「お前と一緒にするな」
祖父は窓の外を見ないようにしながら、咳をした。
年が明けてから、咳は少し増えた気がする。
「……じいちゃん、本当に大丈夫?」
「何度も聞くな。医者は気管支炎だと言っておる」
祖父はそう言って、目を閉じた。
俺は、それ以上何も聞けなかった。
霞が関。
大蔵省の庁舎は、日曜日でも明かりがついていた。
通されたのは、庁舎の裏手にある古い喫茶店だった。
役所の中では人目がある、と向こうが指定してきたのだ。
奥の席に、一人の男が座っていた。
三十代の半ば。痩せていて、銀縁の眼鏡をかけている。
灰皿には、吸い殻が三本。
スーツの襟元はよれていて、ネクタイは緩んでいた。
「高野さん。ご無沙汰しております」
男は立ち上がり、祖父に向かって丁寧に頭を下げた。
それから、俺に目を向けた。値踏みするような、冷たい目だった。
「そちらは」
「孫の蓮だ。社会勉強に連れてきた」
「……なるほど」
男は、それ以上何も聞かずに座り直した。
「大蔵省銀行局の、黒崎です」
黒崎隆道。
祖父の話では、祖父が現役の頃に世話をした男の息子。頭は切れるが、上に盾突いてばかりで、出世が遅れている。
「父がよく、高野さんの話をしていました。『あの人だけは、相場の怖さを知っている』と」
「お父上は、息災か」
「三年前に亡くなりました」
「……そうか」
短い沈黙。
黒崎は、新しい煙草に火をつけた。
「それで、ご用件は。わざわざ北海道から、孫を連れて世間話をしに来たわけではないでしょう」
祖父は、鞄から一枚の方眼紙を取り出した。
手書きのグラフ。日経平均と、地価と、銀行の貸出残高。
「単刀直入に言う。今の相場は、崩れる。もう崩れ始めておる」
黒崎の眉が、わずかに動いた。
「年明けからの下げは、ご祝儀相場の反動だと言われていますが」
「本気でそう思っておるのか」
「……いいえ」
黒崎は、煙を細く吐いた。
「思っていません。省内にも、同じ考えの人間は何人かいる。ですが、声の大きい人間ほど『日本経済は盤石だ』と言っている」
「そこでだ。崩れるのは止められん。だが、崩れ方は選べる」
祖父は、方眼紙の上に指を置いた。
「急に締めすぎるな。土地への融資を一度に止めれば、地価は崖から落ちる。銀行は担保を失い、貸し渋りが始まり、まともな会社まで巻き込まれる」
黒崎は、黙ってグラフを見つめていた。
灰皿の上で、煙草の灰が長く伸びていく。
「――遅いですよ、高野さん」
ぽつりと、黒崎が言った。
「上は、もう決めています。不動産向けの融資に、総量規制をかける。三月の末には通達が出るでしょう」
「……やはりか」
「そして、その通達の下書きを書いているのは、私です」
俺は、思わず黒崎の顔を見た。
総量規制。
前世の歴史で、バブル崩壊を決定づけたと言われる政策の一つ。
それを、この男が書いている。
「私は、正しいと思っています」
黒崎は、まっすぐに祖父を見た。
「膨らみすぎたものは、潰すしかない。今止めなければ、地価はもっと上がる。普通の勤め人が、一生働いても家を買えない国になる。それを放っておけと言うんですか」
「放っておけとは言っておらん。急ブレーキを踏むなと言っておる」
「ブレーキを緩めれば、また誰かがアクセルを踏む。この国の銀行は、そういう連中ばかりです」
黒崎の声には、怒りがにじんでいた。
この男は、本気で国を案じている。だからこそ、急ブレーキを踏もうとしている。
――間違っていない。でも、正しくもない。
俺は、膝の上で手を握りしめた。
「あの」
気づいたら、口を開いていた。
祖父が、ちらりとこちらを見た。止めはしなかった。
「黒崎さん。ブレーキを踏むのは、いいと思います。でも、そのあとのことは考えてますか」
「……そのあと?」
「土地が下がると、銀行が貸したお金が返ってこなくなります。不良債権です。それを、銀行はたぶん隠します。何年も、何年も。隠しているあいだに、傷はどんどん広がる」
黒崎は、煙草を口から離した。
「止めるのと同じくらい、そのあとに傷を早く見つけて、早く治すことが大事だと思うんです。ブレーキを踏む人が、救急車も用意しておかないと」
喫茶店の中が、静かになった。
カウンターの奥で、マスターがカップを拭く音だけが聞こえる。
「……君、いくつだ」
「十三です」
「十三で、不良債権という言葉を知っているのか」
「じいちゃんに教わりました」
嘘ではない。
ただ、全部が本当でもない。
黒崎は、しばらく俺を見つめていた。
それから、祖父に視線を移した。
「高野さん。この子に、何を教えているんですか」
「相場だ。それと、人間だ」
「……とんでもない孫ですね」
黒崎は、初めて少しだけ笑った。
疲れた、皮肉っぽい笑いだった。
「通達は止められません。もう、局長の判子が押される寸前です。ですが――」
黒崎は、灰皿に煙草を押しつけた。
「救急車、ですか。覚えておきます」
帰りの飛行機の中で、祖父は窓の外を見ていた。
行きとは違って、肘掛けを握ってはいなかった。
「歴史は、簡単には曲がらんな」
「……うん」
「だが、あの男の頭には、お前の言葉が残った。それだけでも、今日の旅には意味があった」
祖父は、また咳をした。
上野の博物館には、結局行けなかった。
祖父の咳がひどくなって、早めに空港へ向かうことにしたのだ。
飛行機の窓から、夕焼けに染まる雲が見えた。
その雲の上の、もっと上の空を、俺は見つめていた。
――急がないと。
何もかも、時間が足りない。
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