第10話 大納会
一九八九年十二月二十九日、金曜日。
東京証券取引所、年内最後の取引日。
冬休みに入った俺は、朝一番の列車で小樽に向かっていた。
車窓の日本海は、鉛色に荒れている。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
十二月二十五日。日銀は、今年三度目の利上げを発表した。
公定歩合は四・二五パーセント。記憶の通りだった。
それでも、株価は上がり続けている。
昨日の日経平均は、三万八千七百円に迫った。
――今日が、頂点だ。
記憶の通りなら。
祖父の家に着くと、居間はいつもと違っていた。
卓の上に、黒電話が二台並んでいる。祖父が、わざわざ回線を一本引いたのだ。
「来たか。座れ」
祖父は、紋付の羽織を着ていた。
正月でもないのに、と言いかけて、やめた。
「今日は、わしの最後の大納会だ」
祖父は、静かに言った。
「四十年、証券会社の人間として大納会を迎えた。辞めてからの十年は、一人でラジオを聞いていた。……今年は、張れる」
「最後って……」
「年寄りの感傷だ。気にするな」
祖父は、こほ、と小さく咳をした。
夏から、咳は治まっていない。病院には行ったと言っていた。「ただの気管支炎だ」と。
俺は、それ以上何も聞けなかった。
前場が始まった。
ラジオから、株価が刻々と読み上げられていく。
三万八千八百円。三万八千八百五十円。
黒電話が鳴る。
祖父の古い知り合いの、証券会社の男からだった。
『高野さん、本当に全部売るんですか。今日も上がってますよ。来年は四万円だって、うちの調査部は言ってます』
「売る。わしの判断だ」
『もったいない。あと少し持ってれば――』
「あと少し、と言っているうちに、人は崖から落ちる」
祖父は、受話器を置いた。
残っている株は、全体の半分。
十月から少しずつ売ってきた残りだ。その額、一億五千万円余り。
「後場の寄り付きで、半分を売る。残りは、大引けの直前だ」
「うん」
俺は、ラジオの前で膝を抱えていた。
手のひらが、汗でじっとりと湿っている。
――もし。
もし、今日が頂点でなかったら。
来年、まだ上がり続けたら。
俺は、祖父の財産の半分を、天井の手前で手放させたことになる。
いや、それならまだいい。
問題は、逆だ。
もし、俺の知らない何かが起きて、今日の午後に崩れ始めたら。
大引けを待っている間に、暴落が始まったら。
「蓮」
祖父の声。
「お前、また顔が青いぞ」
「……ごめん」
「謝ることはない。怖いのは、真剣だからだ」
祖父は、茶を一口すすった。
「ブラックマンデーの時、わしはお前を信じると言ったな」
「うん」
「今日も同じだ。お前が三万八千九百十五円と言った。わしは、それを信じる。……外れたら、その時はその時だ。わしの財産は、もともと年寄りが一人で抱えて死ぬだけの金だった」
祖父は、少しだけ笑った。
「この四年、楽しかったぞ。それだけで、十分に元は取れた」
午後。
後場の寄り付きで、祖父は残りの半分を売った。
ラジオは、上がり続ける株価を読み上げている。
三万八千九百円。
居間の柱時計が、二時を打った。
大引けは、三時。
残りの株を売る注文は、二時半に出すことになっていた。
俺は、時計の針を見つめ続けた。
一分が、一時間のように長い。
二時二十五分。
祖父が、受話器を取った。
「――高野だ。残り、全部を成り行きで売る。大引けまでに」
電話の向こうで、男が何か言いかけたのが聞こえた。
祖父は、それを遮った。
「いいから売れ。……それから、山岸」
『はい?』
「お前も、自分の持ち株は年明けまでに整理しておけ。わしの、最後の忠告だ」
祖父は、受話器を置いた。
午後三時。
ラジオが、大引けの値を告げた。
『――東京株式市場、本日の大納会。日経平均株価は、前日比二百二十三円高の、三万八千九百十五円八十七銭で取引を終えました。史上最高値を更新し――』
三万八千九百十五円。
俺は、ラジオの前で、ゆっくりと息を吐いた。
全身から力が抜けて、畳の上に仰向けに倒れた。
天井の木目が、ぼやけて見えた。
「……当たった」
声が、かすれていた。
「当たったよ、じいちゃん」
返事がない。
顔を横に向けると、祖父は縁側に座って、庭を見ていた。
夕暮れの光が、盆栽の松を赤く染めている。
祖父の背中が、小さく震えていた。
「……じいちゃん?」
「――四十年だ」
祖父は、振り返らずに言った。
「四十年、この世界にいて。一度も、天井で降りられたことはなかった。皆と一緒に踊って、皆と一緒に転んできた。……最後に一度だけ、崖の手前で、降りられた」
祖父の肩が、大きく上下した。
「富美子に、見せてやりたかった」
俺は、何も言わずに祖父の隣に座った。
二人で、暮れていく庭を見ていた。
港の方から、汽笛が聞こえた。
その夜。
祖父は、通帳と方眼紙を卓に広げた。
「最終的な数字だ」
四年前、二千万円で始めた。
その数字が、方眼紙の一番下に、几帳面な字で書かれていた。
三億二千四百万円。
「約束通り、半分はお前のものだ。お前が大人になったら渡す」
「……一億六千万」
「もう少し増やしてからな。この金は、まだ眠らせておくには早い」
祖父は、方眼紙をたたんだ。
「さて、蓮。これで、お前が言った崖の手前で、わしらは降りた」
「うん」
「だが、日本はまだ崖に向かって走っておる」
祖父の目が、相場師の目に戻っていた。
「来年からは、どうする」
俺は、背筋を伸ばした。
四年間、ずっと考えてきたことだった。
「来年の正月明けから、株は下がり始める。土地も、二年遅れで下がる。そのあと、銀行が不良債権を抱えて、何年も処理を先送りして、傷が広がっていく」
「……」
「崩壊は、たぶん止められない。でも、崩れ方は変えられると思う。急に締めすぎないこと。不良債権を、早く処理すること。銀行を潰すなら、連鎖しないように潰すこと」
祖父は、黙って聞いていた。
「そのためには、お金だけじゃ足りない。国を動かせる人に、話を聞いてもらわなきゃいけない」
「十三の子供の話を、国が聞くか」
「聞かない。だから――」
俺は、祖父の目をまっすぐに見た。
「じいちゃんの人脈を、貸してほしい」
祖父は、長いこと俺を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「やれやれ。年寄りを、まだ休ませてくれんのか」
祖父は立ち上がり、奥の書斎から古い名刺の束を持ってきた。
黄ばんだ名刺を一枚ずつめくり、やがて、その手が止まった。
「大蔵省に、一人だけ、話の通じそうな若いのがいる。わしが現役の頃に世話をした男の息子だ。頭は切れるが、上に盾突いてばかりで、出世が遅れておる」
祖父は、その名刺を卓に置いた。
『大蔵省 銀行局 黒崎隆道』
「会ってみるか」
「……うん」
窓の外で、雪が降り始めていた。
一九八九年が、終わろうとしている。
昭和の最後の年であり、平成の最初の年。
そして、日本が頂点に立った、最後の年。
――ここからが、本当の戦いだ。
俺は、名刺の文字を、強く心に刻んだ。
第1部「小学生投資家」、ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回から、第2部「崩壊を止める少年」が始まります。
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