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淡い残光  作者: 蒼狐


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第9章 決壊の予感

 美咲の言葉から三日後、楓の日常は完全に綻び始めた。


 朝、夫の拓也がいつもより早く起きて、キッチンでコーヒーを淹れていた。

 楓が「おはよう」と声をかけると、夫はゆっくりと振り返った。

 その眼差しは、静かだが、明らかに探るものだった。


「最近、楓は……幸せか?」


 突然の質問に、楓は一瞬言葉を失った。

 笑顔を貼り付け、なんとか答える。


「もちろんよ。どうしたの、急に」


 拓也はコーヒーカップを置いた。

 音が、いつもより大きく響いた。


「いや……ただ、最近のお前が、なんだか遠く感じるんだ。

 美咲も言ってたぞ。ママが夜中に誰かの名前を呼んでいたって」


 楓の背筋が凍った。

 心臓が激しく鳴り、指先が冷たくなる。

 夫はそれ以上追及せず、ただ「行ってくる」と言い残して家を出た。

 ドアが閉まる音が、楓の胸に重くのしかかった。


 その日の午後、悠真と会った。

 いつものホテルではなく、街外れの静かな喫茶店だった。

 人目につかない場所を選んだつもりだったが、楓は周囲の視線がすべて自分に向いている気がしてならなかった。


 悠真は楓の顔を見るなり、表情を曇らせた。


「顔色が悪い。……何かあったのか?」


 楓は震える声で、夫との会話を伝えた。

 悠真は黙って聞いていたが、手を伸ばして楓の指を強く握った。

 その温もりが、罪深く、愛おしかった。


「もう、限界だ。

 僕は妻と離婚する方向で話を進めるつもりだ。

 楓、君も……一緒に来てくれ」


 その言葉は、楓の心を激しく揺さぶった。

 逃げて、二人で新しい人生を始める。

 その誘惑は甘く、強烈だった。

 しかし、同時に、美咲の笑顔が頭に浮かんだ。

 11歳の娘を置いて、母親が家を出る。

 その未来を想像しただけで、胸が引き裂かれそうになった。


「……私には、美咲がいる。

 あの子を捨てて、あなたのところに行くなんて……できない」


 悠真の目が、痛そうに細められた。


「それでも、君は俺のそばにいたいと言ったはずだ」


「言ったわ。でも……母親であることも、私の一部なの」


 二人の間に、初めて明確な溝が生まれた。

 悠真は手を離さなかったが、その指の力は少し弱くなっていた。

 楓は涙を堪えながら、彼の横顔を見つめた。

 この人を愛している。

 この人と一緒にいたい。

 しかし、愛すれば愛するほど、すべてを失う恐怖が大きくなる。


 その夜、帰宅した楓を待っていたのは、夫の沈黙だった。

 夕食の席で、拓也はほとんど口を開かなかった。

 美咲が「パパとママ、喧嘩してるの?」と不安そうに聞いたとき、夫は無理に笑って「そんなことないよ」と言った。

 その笑顔が、楓には夫の痛みを映しているように見えた。


 深夜、楓は一人で仕事部屋にこもっていた。

 パソコンは起動したままだったが、原稿は一行も進まない。

 スマホには悠真からのメッセージが届いていた。


 〈君を失うくらいなら、すべてを捨ててもいい。

 でも、君が苦しむのを見るのは耐えられない。

 どうか、僕の気持ちに応えてくれ〉


 楓は画面を胸に押し当て、声を殺して泣いた。

 愛と罪、欲望と責任、女としての自分と母としての自分が、激しくぶつかり合っていた。


 窓の外では、夜の街灯が淡く光っている。

 あの光は、最初に悠真と出会ったときに見た残光と同じ色だった。

 しかし今は、その光が自分の人生を焼き尽くそうとしているように感じられた。


 楓はそっと呟いた。


「私は……誰を選べばいいの?」


 答えは、まだどこにもなかった。

 ただ、亀裂は確実に広がり、

 もうすぐ、すべてを飲み込む決壊が訪れようとしていた。

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