第8章 亀裂
その週の金曜日、異変は突然訪れた。
夕方、楓が原稿の締め切りを終えて一息ついていると、夫から珍しく昼間に電話がかかってきた。
「今日、早く帰れそうか?
三人で久しぶりに外食でもどうだ?」
声は穏やかだったが、どこか探るような響きがあった。
楓は胸がざわついた。悠真と会う約束を、すでにしていた。
「……ごめん、今日は打ち合わせが入っていて遅くなりそう。
美咲と二人で先に行ってて」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
拓也は「わかった」とだけ言い、切った。
その沈黙が、楓の胸に小さな棘のように刺さった。
ホテルに着いたとき、悠真はすでに部屋で待っていた。
楓を見ると、すぐに抱き寄せ、深くキスをした。
しかし、今日の楓はいつもより体が強張っていた。
「どうした?」
悠真が心配そうに顔を覗き込む。
楓は彼の胸に額を押しつけ、小さく首を振った。
「夫が……少しおかしいの。
最近、視線が違う。今日も急に外食に誘ってきた」
悠真の腕の力が強くなった。
彼は楓の髪を優しく撫でながら、静かに言った。
「僕も、妻に探られている気がする。
……このまま続けていくのは、限界が近いのかもしれない」
その言葉に、楓の心臓が痛く締め付けられた。
限界。
その響きが、恐ろしく現実的だった。
その日の情事は、切迫したものになった。
まるで時間が少ないことを知っているかのように、二人は激しく求め合った。
楓は悠真の背中に爪を立て、声を抑えながら何度も達した。
体が溶けるような快楽の中で、彼女は思った。
この人がいなければ、私はもう生きていけないかもしれない。
でも、この人を愛すれば愛するほど、家族を失っていく。
事後、二人はベッドに横たわり、互いの体温を分け合っていた。
悠真が天井を見つめながら、ぽつりと言った。
「もし……僕が離婚を選んだら、君は来てくれるか?」
楓は息を飲んだ。
その質問は、これまで二人とも口にしなかった一線だった。
彼女は長い間沈黙した後、震える声で答えた。
「……わからない。
美咲を置いて行くなんて、考えられない。
でも、あなたと離れることも、考えられない」
悠真は楓を強く抱きしめた。
その腕の中で、楓は初めて「逃げたい」という言葉を、心の底で認めた。
すべてを捨てて、この人と新しい人生を歩みたいという、甘く危険な誘惑。
家に帰ると、夫と美咲はすでに食事を終えていた。
拓也は無言で楓の分のおかずを電子レンジで温め、テーブルに置いた。
その動作が、いつもより機械的だった。
夜中、楓がトイレに起きたとき、リビングに夫の姿があった。
拓也はソファに座り、暗い部屋でスマホを眺めていた。
楓が近づくと、彼は慌てて画面を消した。
「どうしたの? まだ寝てないの?」
「……ああ、ちょっと仕事のメールが」
夫の声は平坦だった。
しかし、その目に宿る影は、以前より濃くなっていた。
楓は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
もしかして、夫は何か知っているのだろうか。
それとも、ただの被害妄想なのだろうか。
寝室に戻り、夫の背中にそっと腕を回した。
拓也は動かなかった。
その無反応が、楓には何より恐ろしかった。
翌朝、美咲が学校に行く準備をしているとき、ふと楓に言った。
「ママ、最近夢の中で誰かの名前呼んでたよ。
『ゆうま』って……誰?」
楓の心臓が、止まりかけた。
笑顔を必死に作って「ドラマの登場人物よ」と誤魔化したものの、手が小刻みに震えていた。
その日、楓は一人で仕事部屋に閉じこもり、膝を抱えた。
画面には、悠真からの新しいメッセージが届いていた。
〈君がいないと、すべてが灰色に見える。
愛している。どうか、僕を選んでくれ〉
楓はスマホを胸に押し当て、静かに泣いた。
光は、ますます強く輝いている。
しかし、その光が強ければ強いほど、
周囲の影もまた、深く黒く、彼女を包み込もうとしていた。




