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淡い残光  作者: 蒼狐


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第7章 揺らぐ仮面

 夫の視線が変わったのは、それから数日後のことだった。


 表面的には何も起きていない。拓也はいつも通り出勤し、帰宅すると美咲の宿題を見てやり、楓に「お疲れ」と声をかける。けれど、楓は感じていた。夫の目が、時折、ほんの少し長く自分に留まるようになったことを。朝の食卓で新聞を読みながら、ふと顔を上げる瞬間の、無言の探るような眼差し。


 楓は必死に普段通りの自分を演じた。

 笑顔の角度、声のトーン、夕食の献立。すべてを、これまでと同じように。

 しかし、演じれば演じるほど、自分が「仮面」を被っていることを痛感した。


 悠真との時間だけが、唯一の「本当」だった。


 その週の水曜日、二人は再びホテルで会った。

 部屋に入るなり、悠真は楓を抱きしめ、壁に押し付けるようにキスをした。

 これまでの優しさとは少し違う、切迫した熱があった。


「会えない時間が、長すぎる」


 彼の声は低く、喉の奥で震えていた。

 楓も同じだった。服を脱がせ合う手が、焦っていた。肌が触れ合う瞬間、溜め息のような声が漏れた。


 ベッドの中では、いつものように激しく、しかし今回はどこか必死だった。

 楓は悠真の背中に爪を立て、彼の名を繰り返し呼んだ。

 頂点に達したとき、彼女は涙を浮かべながら思った。


 この快楽は、罰なのか、救いなのか。


 事後、悠真が楓の裸の肩を抱きながら、ぽつりと呟いた。


「妻が、最近妙に敏感になっている。

 君のことを勘づいているわけではないと思うが……気をつけた方がいい」


 楓は天井を見つめたまま、静かに答えた。


「夫も……少し変わった気がする。

 でも、確信を持っているわけではないと思う。ただの、夫婦の勘のようなもの」


 二人はしばらく無言だった。

 雨の音が、遠くで聞こえる。

 この関係が、いつか破綻する予感が、初めて言葉として意識された瞬間だった。


 家に帰った夜、楓は風呂の中で自分の体を見下ろした。

 胸と首筋に薄い痕が残っている。化粧で隠したつもりだったが、夫の目が鋭ければ気づくかもしれない。

 湯船の中で、彼女は小さく身を縮めた。


 ——私は、なんてことをしているのだろう。


 美咲が寝る前に「ママ、最近遅いね」と言う。

 その言葉に、楓は笑顔で「仕事が忙しいの」と答えたが、心は痛んだ。

 娘の純粋な眼差しが、こんなにも重く感じる日が来るとは思わなかった。


 深夜、夫婦の寝室。

 拓也が突然、背後から楓を抱きしめてきた。

 驚いて体を強張らせると、夫が耳元で囁いた。


「最近、俺のこと……どう思ってる?」


 声は穏やかだったが、どこか探る響きがあった。

 楓は心臓が早鐘のように鳴るのを感じながら、なんとか平静を装った。


「どうしたの、急に。……もちろん、好きよ。これからもよろしくね」


 拓也はそれ以上何も言わず、楓の背中に顔を埋めた。

 その抱擁は、いつもの夫のものより少し強かった。

 楓は目を閉じ、罪悪感の波に飲み込まれそうになりながら、そっと夫の腕を撫でた。


 次の日、悠真からメッセージが来た。


 〈今週末、少し時間作れないか?

 君に会わないと、息が詰まりそうになる〉


 楓は指を止めた。

 返信しようとして、何度も消しては打ち直した。

 最終的に送ったのは、短い一文だった。


 〈……会いたい。でも、慎重にいきましょう〉


 送信ボタンを押した後、楓はデスクに突っ伏した。

 頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 愛しているのは本当だ。

 悠真と一緒にいるときだけ、自分が輝いている気がするのも本当だ。

 しかし、同時に、家族を傷つけているという事実は、ますます重くのしかかっていた。


 夜、美咲が寝静まった後、楓は一人でリビングのソファに座っていた。

 窓の外に広がる街の灯りをぼんやりと眺めながら、彼女は静かに呟いた。


「私は、どこへ向かっているの……?」


 答えは、どこにもなかった。

 ただ、淡い残光は、日に日に強さを増し、

 そして影もまた、確実に濃くなっていった。

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