第6章 隠せない影
あの雨の日の後、楓の世界は二層に分かれた。
表の層は、これまで通りの日常だった。
朝六時半に起き、美咲の朝食と弁当を作り、夫の拓也に「おはよう」と微笑みかける。学校の連絡帳にサインをし、洗濯物を干し、午後からは原稿に向かう。誰が見ても、変わらぬ安藤楓の姿だった。
しかし、裏の層では、すべてが激しく揺れていた。
悠真との関係は、火が点いた後も静かに、しかし確実に燃え続けていた。
週に一度、時には二度、短い時間を見つけてはホテルで会った。
彼の腕の中で、楓は自分が長年忘れていた「女」としての声を、激しく上げた。悠真はいつも優しく、しかし時に獰猛だった。二人の体は、回を重ねるごとに互いの形を記憶していった。
ある夜、ホテルのベッドで、悠真が楓の髪を指で梳きながら言った。
「君といると、時間が溶けるみたいだ。
設計図を描いているときも、君の息遣いが頭から離れない」
楓は彼の胸に頰を寄せ、目を閉じた。
快楽の余韻がまだ体に残っている。肌が敏感で、軽く撫でられただけで震えてしまう。
「私も……同じ。
あなたに触れられると、自分が初めて『自分』になる気がする」
しかし、至福の時間はいつも短かった。
ホテルを出ると、現実が容赦なく戻ってくる。
特に罪悪感が強くなったのは、娘の美咲に対してだった。
ある夕方、美咲が学校から帰ってきて、楓に抱きついた。
「ママ、最近なんか綺麗だね。
なんか、キラキラしてる」
その無邪気な言葉に、楓は胸が締め付けられた。
笑顔を保ったまま「ありがとう」と答えたが、夜、布団の中で涙が止まらなかった。
私はこの子を裏切っている。
この笑顔を守るべき母親が、夫以外の男に体を許し、心を奪われている。
夫の拓也に対しても、奇妙な優しさが芽生えていた。
罪悪感の裏返しだった。帰宅が遅くなった日は特に、食事に気を遣い、話を聞く耳を以前より傾けるようになった。拓也はそれを「最近優しいな」と喜んだが、その言葉が楓には棘のように刺さった。
悠真もまた、葛藤を抱えていた。
ある逢瀬の後、彼は珍しく重い口を開いた。
「妻とは、もう何年も心が通っていない。
でも、離婚するのは簡単じゃない。……君を苦しめたくない」
楓は彼の唇に指を当て、静かに首を振った。
「今は、何も決めなくていい。
ただ……この時間が、私には必要なんです」
本当は、分かっていた。
この関係は、いつまでも続けられるものではない。
いずれ、誰かの目にとまる。あるいは、自分自身が耐えられなくなる日が来る。
その予感は、ある夜、現実の気配となって忍び寄った。
夫が珍しく早く帰宅した日、楓がシャワーを浴びている間に、スマホに悠真からのメッセージが届いていた。
〈今日の君は、特に綺麗だった。
また早く会いたい。愛してる。〉
拓也がリビングでスマホを充電しようとしたとき、たまたま楓の端末が鳴った。
ロックはかかっていたが、通知のプレビューに短い文章が浮かんでいた。
拓也は何気なく画面を見たが、すぐに目を逸らした。しかし、その一瞬の間に「愛してる」という文字が視界に入っていたかどうかは、楓には分からなかった。
その夜、拓也はいつもより寡黙だった。
楓が「どうしたの?」と聞くと、彼はただ「疲れてるだけだ」と答えた。
しかし、楓は夫の視線に、微かな影を感じた。
それは、これまで感じたことのない、冷たい予感だった。
ベッドの中で、楓は悠真のことを思い浮かべながら、そっと息を吐いた。
この恋は、淡い残光のように美しい。
しかし、光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。
私は今、影の中に立っているのだろうか。
それとも、まだ光の側にいるのだろうか。
答えは、出なかった。
ただ、胸の奥で、静かな波が、確実に大きくなっていることだけを感じていた。




