第5章 溶ける境界
三度目の逢瀬は、雨の降る午後だった。
悠真が指定したのは、渋谷から少し離れた静かなホテルだった。
「ただ、ゆっくり話したいだけ」と彼は言っていたが、二人はその言葉の先にあるものを、暗黙のうちに理解していた。楓は鏡の前で何度も深呼吸を繰り返し、夫には「出版社の打ち合わせが長引く」とだけ伝えて家を出た。嘘をつく自分の声が、他人事のように遠く聞こえた。
ロビーで悠真と落ち合った瞬間、彼の眼差しがいつもより熱を帯びていることに気づいた。
エレベーターの中で、二人は無言だった。指先が軽く触れ合うだけで、肌が粟立つ。
部屋に入ると、雨音がカーテンの向こうで静かに響いていた。
悠真がそっと楓を抱き寄せた。今度は、ためらいのない抱擁だった。
彼の胸の鼓動が、直接伝わってくる。楓は目を閉じ、その音に耳を澄ませた。
「本当に……いいんですか?」
悠真の声は低く、わずかに震えていた。
楓は答えの代わりに、彼の首に腕を回した。言葉にするのが怖かった。言葉にすれば、罪の重さがのしかかってきそうだった。
唇が重なった。
最初は優しく、探るように。やがて、抑えていたものが一気に溢れ出すように深くなった。楓は自分がこんなにも激しく誰かを求めていることに、驚きと羞恥を覚えた。悠真の手が背中を滑り、服のファスナーを下ろす。肌が露わになるたび、冷たい空気に触れて小さく震えた。
ベッドに倒れ込むように横たわったとき、楓の頭の中を一瞬、夫と娘の顔がよぎった。
——ごめんなさい。
しかし、次の瞬間、悠真の唇が首筋に触れた途端、その想いは白い波に飲み込まれた。
彼の指は、丁寧だった。
長年忘れていた自分の体の反応に、楓は何度も息を詰めた。三十七年の人生で、こんなにも深く、優しく、貪欲に愛されたことはなかった。悠真はただ楓の体を求めているだけでなく、彼女の心の奥底まで見つめようとしているようだった。
「楓……」
彼が名前を呼ぶ声が、耳元で掠れる。
その響きに、楓はとうとう涙を零した。快楽と罪悪感が、溶けるように混ざり合っていく。体が熱いのに、心のどこかが冷たい痛みを訴えていた。それでも、彼女は悠真の背中に爪を立て、彼を引き寄せた。
頂点に達した瞬間、楓は自分の内側で何かが大きく崩れるのを感じた。
長年、固く閉ざしていた蓋が、音を立てて開くような感覚。
波が引いた後、悠真の腕の中で、楓は静かに泣いた。
彼は一言も言わず、ただ背中を優しく撫で続けた。その手の温もりが、たまらなく愛おしく、たまらなく罪深かった。
シャワーを浴びた後、二人はベッドに並んで横たわっていた。
雨はまだ降り続いている。悠真が天井を見つめながら、ぽつりと言った。
「後悔してる?」
楓は首を横に振った。
しかし、すぐに小さな声で付け加えた。
「……後悔は、していない。でも、怖い。
この気持ちが本物なら、私はもう、元の自分には戻れない」
悠真が楓の手を握った。
強く、離さないように。
「僕も同じだ。君と出会うまで、自分の人生を『まあまあ満足』だと思っていた。
でも今は、君がいない人生が、色を失ったように感じる」
楓は彼の胸に顔を埋めた。
汗と石鹸の匂い、男の体臭。それが、なぜか安心する。
この瞬間だけは、すべてを忘れていられた。夫も、娘も、社会の目も。
ここにいるのは、ただ一人の女——安藤楓として、愛されている自分だけだった。
ホテルを出るとき、外は雨が上がっていた。
濡れたアスファルトに、街灯の光が淡く反射している。
悠真が傘を差し、楓の肩を抱いた。
その仕草が、まるで恋人同士のように自然で、楓はまた胸が締め付けられた。
家に帰るタクシーの中で、楓は窓に額を押し当てた。
体にはまだ悠真の感触が残っている。唇が腫れぼったく、首筋に薄い痕が残っていた。
化粧で隠さなければならない。
夫に、娘に、絶対に気づかれてはいけない。
玄関の鍵を開ける音が、異様に大きく響いた。
リビングでは、夫がテレビを見ながら「遅かったな」と声をかけた。
美咲はもう寝ていた。
楓は笑顔を作り、「打ち合わせが長引いてごめん」と答えた。
その声が、自分でも驚くほど自然に出たことに、ぞっとした。
夜中、布団の中で楓は目を開けたまま天井を見つめていた。
隣で寝息を立てる夫の背中が、今日ほど遠く感じたことはなかった。
私は今、どこにいるのだろう。
そして、これからどこへ向かおうとしているのだろう。
答えは出ないまま、楓はそっと目を閉じた。
瞼の裏に、雨上がりの淡い光と、悠真の熱がまだ残っていた。




