第4章 深まる波紋
初対面から一週間が過ぎた。
楓の日常は、表面上は何も変わっていなかった。朝、美咲の弁当を作り、夫のワイシャツにアイロンをかけ、午後には仕事の原稿を進める。けれど、内側は明らかに違っていた。スマホをチェックする回数が自然と増え、悠真からのメッセージを待つ時間が、静かな甘い緊張に変わっていた。
彼とのやり取りは、日に日に密度を増していった。
朝の挨拶、夜の短い電話、読んだ本の感想、仕事の愚痴。時には、ただの「今、何を考えていますか?」というシンプルな質問。悠真は決して押しが強くなく、しかし確実に、楓の心の隙間に自分の存在を刻み込んでいった。
二度目の対面は、代官山の小さなギャラリーだった。
悠真が設計に関わったという、写真展の会場だった。平日の昼間、人が少ない時間を選んでいた。
楓が会場に入ると、悠真はすでに来ていた。黒のニットにグレーのコートという、シンプルだが洗練された装い。楓を見つけると、柔らかく微笑んだ。その笑顔に、楓の胸が小さく跳ねた。
「来てくれて、ありがとう」
二人はゆっくりと展示を回った。
写真はどれも、日常の光と影を丁寧に切り取ったものだった。悠真は時折、作品の前に立ち、静かに解説した。声は低く、穏やかで、楓はその響きを全身で浴びるように聞いた。
一枚の写真の前で、二人は立ち止まった。
薄暗い部屋に、窓から差し込む一筋の光だけが、床に淡い四角形を描いている。
「こういう瞬間を、僕はいつも待っているんです」悠真が言った。「何もない空間に、突然訪れる『意味』のような光を」
楓は横顔を見上げた。
彼の横顔は、意外に繊細だった。眼鏡の奥の瞳が、真剣に光を捉えている。
「……私も、今、そんな瞬間の中にいる気がします」
言葉が自然に出た。
悠真がゆっくりとこちらを向いた。二人の視線が絡み合う。ギャラリーの静けさの中で、互いの息遣いがはっきりと聞こえるような気がした。
展覧会を出た後、二人は近くの公園を歩いた。
桜の季節は終わっていたが、木々は柔らかい若葉を付け始めていた。ベンチに並んで座ったとき、悠真がそっと手を伸ばした。
指先が触れ合う。
一瞬、楓は体を強張らせたが、すぐにその温もりに身を委ねた。大きな、節くれだった手だった。建築家らしい、手仕事の痕跡を感じさせる手。
「怖いですか?」悠真が小声で聞いた。
「……怖いです。でも、離したくない」
その言葉を口にした瞬間、楓は自分が泣きそうになるのを感じた。
十二年間、夫以外の男の手を握ったことなどなかった。罪悪感が、波のように押し寄せてくる。それでも、悠真の指の力強さが、その波を優しく押し返していた。
「楓さん」
悠真が初めて、名前を呼び捨てにした。「僕は、あなたと出会ってから、自分の人生をもう一度見つめ直している。……こんな気持ちは、長い間忘れていた」
楓は目を伏せた。
胸の奥が熱い。夫の顔、美咲の笑顔が、頭の片隅に浮かんでは消える。
私は今、なんてことをしているのだろう。
しかし、同時に、こんなにも「生きている」と感じたのは、何年ぶりだろう。
別れ際、悠真がそっと楓を抱き寄せた。
短い、しかし確かな抱擁。コートの生地越しに伝わる彼の体温に、楓は息を詰めた。唇が触れ合う寸前で、二人は互いに離れた。まだ、そこまでは越えられない——その暗黙の了解が、かえって甘く疼いた。
家に帰る電車の中で、楓は窓に額を押し当てた。
握った手の感触が、まだ残っている。罪悪感と、言い知れぬ悦びが、交互に胸を締め付けた。
夜、夫と美咲と三人で夕食のテーブルを囲んだとき、楓はいつもより多く笑った。
拓也が「今日は機嫌がいいな」と微笑む。美咲が「ママ、今日可愛いね」と言う。
その言葉が、楓の胸に小さな棘のように刺さった。
ベッドに入ってからも、眠りは浅かった。
隣で寝息を立てる夫の背中に、そっと手を伸ばしかけて、途中で止める。
代わりに、スマホの画面を薄暗い部屋で眺めた。悠真からのメッセージが一つ。
〈今日はありがとう。あなたの温もりが、まだ残っている。〉
楓は目を閉じた。
心の中で、静かに波が立っていた。
この波は、いつか大きなうねりとなって、自分をどこかへ連れていくのだろう。
そして、そのとき——
自分は、きっともう、元の場所には戻れないのだという予感が、淡く、しかし確かに彼女の胸に灯っていた。




