第3章 初めての輪郭
電話を重ねるたび、楓の世界は少しずつ色を変えていった。
最初は週に一度だった通話が、気がつけば三日に一度になっていた。夜更けの短い時間、夫が寝静まった後にイヤホンを耳に押し込み、布団の中で声を潜めて話す。悠真の声は毎回、楓の胸の奥に柔らかく染み込んだ。彼は自分の仕事の悩み——クライアントの要望と自分の美意識の狭間で揺れること——を、静かに、しかし率直に話した。楓もまた、書評を書くときに感じる「自分の言葉でいいのだろうか」という小さな自信の揺らぎを、初めて誰かに明かした。
言葉は、触れられない距離を、かえって濃密にしていた。
ある木曜の午後、悠真が言った。
「できれば、一度お会いしたい。……突然で申し訳ないですが、声だけではもう足りない気がして」
楓は返事に詰まった。
心臓が激しく鳴る。頭の中では「ダメ」と言う理性の声がした。しかし、口から出たのは別だった。
「……私も、同じです」
待ち合わせは、平日の午後三時。東京駅から少し離れた、静かなカフェだった。
楓は鏡の前で何度も着替えた。普段着ているシンプルなニットとスカートに、珍しく薄いピンクの口紅を引いた。夫には「取材で外出する」とだけ伝えてある。美咲は学校。誰も怪しんではいない。それなのに、手のひらが汗ばんでいた。
カフェの入り口をくぐった瞬間、窓際の席に座る男性と目が合った。
杉本悠真は、想像より少し瘦せ型で、髪にわずかに白いものが混じっていた。四十歳を過ぎた男の、落ち着いた疲れのようなものが、肩の線に表れていた。彼は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「安藤さん……楓さん、ですね」
声と顔が重なった瞬間、楓は奇妙な安堵を感じた。
声だけでは分からなかった、彼の眼差し。少し伏し目がちで、しかし真っ直ぐにこちらを見る目。建築家らしい、物を「見る」ことに慣れた眼差しだった。
「はじめまして。……電話では失礼しました」
二人は向かい合って座った。
最初はぎこちなかった。画面越しや電話では自然に出ていた言葉が、実際に顔を合わせると少し照れくさくなった。それでも、コーヒーが冷めていくにつれ、会話は再び滑り出した。
悠真は自分の設計哲学を、楓は最近読んだ本の話をした。
時折、互いの視線が絡み合う。楓は気づいた——彼も緊張している。指先がカップの取っ手を軽く叩く仕草、言葉を選ぶ間の短い沈黙。それらが、なぜか愛おしく感じられた。
「正直に言います」
悠真が少し声を落とした。「最初はただ、素晴らしい書評だと思っただけだった。でも今は……あなたと話す時間が、僕の日常で一番楽しみになっています」
楓の頰が熱くなった。
彼女はカップを両手で包み込み、小さく息を吐いた。
「私も……です。こんな気持ちになるなんて、思ってもみませんでした」
外はもう夕暮れに近かった。
カフェの窓ガラスに、街灯のオレンジ色の光が映り始めている。楓はその光をぼんやりと眺めながら、胸の内で言葉を反芻した。
これは、恋という名のものなのだろうか。
それとも、長い間凍えていた心が、ただ温かいものを求めているだけなのだろうか。
悠真が言った。
「また、会ってもいいですか?」
楓は迷わなかった。
ゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。
「ええ……ぜひ」
カフェを出た後、二人は駅まで並んで歩いた。
触れ合うことはなかった。距離は五十センチほど。なのに、楓はその空間に、熱のようなものを感じていた。悠真のコートの袖が風に揺れるのを見ながら、彼女は思った。
この人は、本物だ。
家に帰る電車の中で、楓は窓に映る自分の顔を見つめた。
頰がまだ赤い。目が、普段より輝いているように見えた。バッグの中でスマホが震えた。悠真からのメッセージだった。
〈今日はありがとう。あなたの笑顔が見られて、よかった。〉
楓は唇を噛んだ。
罪悪感が、ゆっくりと胸の底に沈んでいくのを感じながら、それでも——返信の文字を打つ指は、止まらなかった。
この瞬間、彼女の人生は確かに、静かに傾き始めていた。




