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淡い残光  作者: 蒼狐


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第2章 響く声

 返信を送ってから三日が経っていた。


 楓は、朝の食卓で美咲の髪を軽く梳きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。夫の拓也は新聞を片手にトーストを頰張り、いつものように「行ってきます」と短く言って家を出た。ドアが閉まる音が響いた後、楓は小さく息をついた。いつもの朝なのに、胸の奥に小さな疼きのようなものがある。


 ——あのコメント、どうしているだろう。


 仕事部屋に入り、パソコンを立ち上げると、すぐにnoteの通知マークが光っていた。杉本悠真からの返信だった。


 〈安藤さんの書評を読んで、久しぶりに本を読み返したくなりました。あなたは、物語の「沈黙」の部分を丁寧にすくい上げてくれる。僕が建築で目指しているのも、もしかしたら似たようなことなのかもしれません。〉


 その後も、二人のやり取りは静かに続いた。


 最初は本の感想だけだった。村上春樹、川上未映子、海外ではカズオ・イシグロやアン・パッケット。互いの好みの重なりが意外と多く、楓は画面に向かって自然と微笑むことが増えていた。悠真の文章は飾り気がなく、しかし芯が通っていた。短い一文の中に、建築家らしい空間感覚のようなものが感じられた。


 ある夜、午前零時を少し回った頃。


 楓がベッドの中でスマホを眺めていると、メッセージが届いた。


 〈今、起きていますか? 突然すみません。どうしても、今この瞬間にあなたの感想を聞きたくなって。〉


 心臓が跳ねた。夫は隣で静かに寝息を立てている。美咲の部屋からは、かすかな寝返りの音が聞こえる。楓は布団の中で身を縮め、指を動かした。


 〈起きています。ちょうど読書中でした。〉


 それから、二人は初めて「リアルタイム」で会話をした。

 画面に次々と現れる文字は、まるで息づかいのように感じられた。


 三日後、悠真から提案があった。


 〈よかったら、電話で話してみませんか。文字だけだと、声の温度が伝わらない気がして。〉


 楓はしばらく画面を見つめていた。

 指が、肯定の返事を打つのに、三十秒以上かかった。


 初めての電話は、火曜日の午後二時だった。

 美咲が学校に行き、夫が会社にいる、静かな家の時間。


 着信音が鳴った瞬間、楓は喉が乾くのを感じた。深呼吸をして、通話ボタンを押す。


「……もしもし」


 低く、穏やかな声だった。

 予想通り、というより、予想以上にその声は楓の胸に響いた。少しだけ掠れたような、しかし芯のある響き。建築家らしい、言葉を丁寧に選ぶ話し方。


「安藤楓です。……突然で、驚きましたか?」


「いいえ……」楓は自分の声が上ずっていることに気づき、軽く咳払いをした。「私も、声で話してみたいと思っていました」


 最初はぎこちなかった。

 しかし五分、十分と話すうちに、奇妙な心地よさが広がっていった。悠真は自分の仕事の話、最近手がけている「光と影のバランスを重視した住宅」のことを静かに語った。楓も、書評を書くときに心がけている「作者の意図を超えた読者の自由」について話した。


 会話が途切れた瞬間、悠真が小さく笑った。


「不思議ですね。初めて声を聞いたのに、ずいぶん前から知っている人のように感じる」


 楓は胸が熱くなるのを感じた。

 そう。それはまさに、彼女がこの数週間感じていたことだった。夫の拓也とは、結婚して何年も経つのに、最近はこんな風に「心の奥」を話す機会がほとんどない。必要な会話はする。でも、魂が震えるような会話は、もう何年もしていなかった。


「私も……同じです」


 電話を切った後、楓はしばらくデスクに突っ伏していた。

 頰が熱い。耳の奥に、まだ悠真の声が残っている。心臓の音が、普段より大きく聞こえた。


 ——これは、ただの読書友達への好意だろうか。


 自分に問いかけるが、答えは出なかった。

 ただ、確かに何かが動き始めていることだけは、はっきりと感じていた。


 その夜、夫が帰宅したとき、楓はいつもより明るく「おかえり」と迎えた。

 拓也は少し驚いた顔をしたが、何も言わずに「ただいま」と微笑んだ。美咲が学校であった出来事を楽しそうに話すのを聞きながら、楓は胸の奥で小さな罪悪感が芽生えるのを感じていた。


 それは、まだとても小さな、針の先で突いたような痛みだった。


 しかし、楓は知っていた。

 この痛みは、これからゆっくりと、確かに大きくなっていくのだろうということを。


 そして、それでも——

 もう一度、あの声が聞きたいと、強く思っている自分を止められないことも。


(第2章 終わり)

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