第1章 残照の午後
安藤楓は、キッチンのシンクに立つと、いつものように指先が冷たい水に触れた。泡立つ洗剤の匂いが、午後の陽射しの中に淡く溶けていく。娘の美咲が学校から帰ってきて脱ぎ散らかした靴下を、機械的に拾い上げながら、楓はふと思った。
私は今、どこにいるのだろう。
三十七歳。結婚十二年目。夫の拓也は毎朝七時十五分に家を出て、夜は八時を過ぎなければ帰らない。美咲はもうすぐ十二歳になる。小学校高学年という微妙な年齢で、母である自分に甘えるのを少しずつ恥じるようになっていた。家族三人で過ごす夕食の時間は、決して悪くはない。むしろ穏やかだと言えるだろう。でも、その穏やかさの底に、いつからか薄い膜のようなものが張っていることに、楓は気づいていた。
それは、決して破ってはいけない膜だった。
洗い物を終え、楓は二階の仕事部屋に戻った。古い木製のデスクの上には、読み終えたばかりの本が何冊も積まれている。彼女の仕事は、ブックライターとして雑誌やウェブメディアに書評を寄稿することだった。かつて出版社に勤めていた頃の経験を生かし、今はフリーランスとして細々と続けている。収入は夫の年収に比べれば微々たるものだが、楓にとってはそれが「自分の領域」だった。
パソコンの画面を点け、メールソフトを開く。今日の締め切りはもう過ぎていたが、編集者からの返事はまだ来ていない。代わりに、彼女が先週noteに上げた長文の書評に、コメントがついていた。
いつも通り、丁寧な賛辞が並んでいる。
でも、その中に一つだけ、いつもと違う名前があった。
杉本悠真。
プロフィール画像はなかった。アイコンはシンプルな抽象画のような線画だけ。コメントは短く、しかし異様に深かった。
〈安藤さんの言葉は、ページの裏側まで光を当ててくれる。僕がこの小説から受け取った「静かな絶望」と「それでも生きなければならないという強制」を、こんなにも正確に言語化してくれる人がいるなんて、驚きです。〉
楓は無意識に背筋を伸ばした。
心臓が、ほんの少しだけ速くなったような気がした。
彼女はこれまで、何百というコメントを読んできた。良い言葉も、的外れな言葉も、時には攻撃的な言葉も。でも、この男の文章は違った。まるで、自分の胸の奥に直接指を突き刺して、そっとかき回しているような……そんな感触があった。
楓はマウスを動かし、杉本悠真のプロフィールを開いた。
公開されている情報は少ない。建築家、とだけ書かれている。フォローしているアカウントも、文学やデザイン、写真に偏っていた。四十前後だろうか。文章の落ち着いた響きから、そんな印象を受けた。
彼女はしばらく画面を見つめていた。
指が、キーボードの上に浮いたまま動かない。
——どうしてだろう。
ただの読者からのコメントなのに、胸の奥がざわついている。
楓は小さく息を吐き、椅子にもたれかかった。窓の外では、冬の終わりの陽が、ゆっくりと傾き始めていた。オレンジ色の光が、部屋の壁を淡く染める。その色は、まるで遠い記憶の中の、忘れかけていた何かを思い出させるようだった。
夫の拓也は、こういう光の美しさを、決して口にしない。
美咲はまだ、そんなことに気づく歳ではない。
そして自分は——楓は、ふと自問した——この光を、いつから「ただの夕暮れ」と思うようになったのだろう。
再び画面に視線を落とす。
杉本悠真のコメントが、そこに静かにあった。
楓は、ゆっくりと指を動かした。
返信ボタンを押す前に、ほんの数秒、迷う。
その数秒の間に、彼女はまだ知らなかった。
この小さな動作が、自分の人生に静かに、しかし確かに、亀裂を入れていくことになるということを。
楓は、そっと文字を打ち込んだ。
〈杉本さん、コメントありがとうございます。私の書いたものが、誰かの胸の奥に届いたのだとしたら、これ以上の喜びはありません。〉
送信ボタンを押した瞬間、
画面の向こうから、かすかな光が差し込んだような気がした。
それは、まだとても淡い、残照のようなものだった。
(第1章 終わり)




