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淡い残光  作者: 蒼狐


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第10章 静かな決壊

 夫の言葉から一週間が過ぎた。


 その間、楓はほとんど眠れなかった。

 夜中、布団の中で目を開けたまま、夫の寝息を聞きながら、天井の染みを数えていた。悠真からのメッセージは毎日届いたが、返事は短く、控えめにならざるを得なかった。


 決定的な出来事は、土曜の午後に起きた。


 拓也が美咲を連れて近所の公園に行った後、楓は一人で家に残っていた。

 洗濯物を畳んでいると、夫のスマホがリビングのテーブルで震えた。

 通知音に何気なく目を向けると、画面に短いメッセージが表示されていた。


 〈楓さんのことで話したいことがある。

 今夜、時間を作れるか?〉


 送信者は、夫の同僚の名前だった。

 楓は息が止まりそうになった。

 夫は、すでに調べ始めている——その確信が、胸を冷たく締め付けた。


 夕方、家族三人で食事をしているとき、拓也が突然言った。


「楓。

 今夜、少し話したいことがある。

 美咲が寝た後でいいか?」


 声は穏やかだった。

 しかし、その穏やかさが、かえって恐ろしかった。


 夜九時半。美咲が寝室に入った後、二人はリビングのソファに座った。

 拓也はしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。


「……誰なんだ?」


 楓の指が、膝の上で震えた。

 否定しようとしたが、声が出なかった。

 夫は目を逸らさず、静かに続けた。


「最近のお前は、別人みたいだ。

 笑ってるのに、目が笑っていない。

 夜中に名前を呼ぶ。

 スマホを常に持ち歩くようになった。

 ……俺は、馬鹿じゃないぞ」


 楓は唇を噛んだ。

 涙が、溢れそうになるのを必死に堪えた。

 長い沈黙の後、彼女は震える声でようやく言った。


「……ごめんなさい。

 私は……他の人に、恋をしてしまった」


 拓也の顔が、一瞬歪んだ。

 しかし、怒鳴りもせず、ただ静かに聞いた。


「それで?

 俺と美咲を捨てるつもりか?」


 その言葉が、楓の胸を深く抉った。

 彼女は首を横に振りながら、涙を零した。


「わからない……。

 私も、ずっと苦しんでるの。

 愛しているのに、離れられないの。

 でも、美咲を失うなんて、考えただけで死にそうになる……」


 拓也は無言で立ち上がり、窓の外を見つめた。

 背中が、ひどく寂しげに見えた。

 十二年間を共に過ごした夫の、その背中が、こんなにも遠く感じたことはなかった。


「今夜は……もういい。

 考えさせてくれ」


 夫が寝室に入った後、楓はソファに崩れ落ちた。

 嗚咽を殺しながら、スマホを握りしめた。

 悠真に連絡したい衝動に駆られたが、指が動かなかった。


 次の日の午後、楓は悠真と会った。

 いつものホテルではなく、公園のベンチだった。

 彼女はすべてを話した。夫との会話、美咲の言葉、そして自分の限界を。


 悠真は黙って聞いていたが、楓の手を強く握った。


「一緒に逃げよう。

 僕が全部、受け止める。

 新しい場所で、新しい人生を始めよう」


 その言葉は、甘く、救いのように聞こえた。

 しかし、楓はゆっくりと首を横に振った。


「……私は、まだ決められない。

 あなたを愛しているのは本当。

 でも、家族を捨てる勇気も、捨てない勇気も、今の私にはないの」


 悠真の目が、悲しげに細められた。

 二人は長い間、手を繋いだまま、沈黙した。

 春の風が、桜の若葉を揺らしていた。


 家に帰る道中、楓は一人で歩きながら思った。


 私は今、壊れかけている。

 この恋は、私を輝かせてくれた。

 でも、同時に、私の大切なものを、静かに蝕んでもいる。


 残光は、まだ消えていない。

 しかし、その光は、もうすぐ、

 大きな影を生み出そうとしていた。

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