第11章 ひとりの光
夫との会話から三日が経った。
拓也はそれ以来、ほとんど口を聞かなくなった。
必要な会話だけを淡々と交わし、視線を合わせようとしなかった。
美咲はそんな両親の空気を敏感に察知し、「何かあったの?」と何度も聞いてきた。楓は毎回笑顔を作って誤魔化したものの、胸が痛んだ。
木曜の午後、楓は久しぶりに一人で家を出た。
「取材に行く」と夫に伝えると、拓也は無言で頷いただけだった。
彼女は電車に乗り、行き先も決めずに都心から離れた。
降り立ったのは、学生時代によく訪れたという小さな湖のある町だった。
湖畔のベンチに座り、楓はぼんやりと水面を見つめた。
風が柔らかく頰を撫で、湖の表面に小さな波紋を広げていく。
ここ数ヶ月の記憶が、波のように次々と浮かんでは消えた。
悠真の声。
初めて触れた手の温もり。
ホテルで交わした激しい抱擁。
そして、画面越しに交わした、あの無数の言葉。
彼といるとき、自分は確かに輝いていた。
長年忘れていた「女」としての感覚を、鮮やかに思い出させてくれた。
しかし、今、こうして一人でいると、別の自分が顔を出す。
——私は、美咲の母親だ。
——私は、拓也の妻だった。
スマホを取り出し、悠真からのメッセージをもう一度読んだ。
〈君の決断を待っている。
僕はずっと、ここにいるよ。〉
胸が熱くなった。
愛している。
この気持ちは、偽りではない。
でも、同時に、家族を失った後の自分を想像すると、息が苦しくなる。
新しい人生を歩む勇気と、古い人生を守る責任。
二つの間で、楓は激しく引き裂かれていた。
湖のほとりをゆっくり歩きながら、楓は自分の人生を振り返った。
結婚した頃の自分。
編集者として働いていた頃の情熱。
美咲が生まれた喜び。
そして、年月とともに薄れていった「自分の色」。
悠真は、その色をもう一度、鮮やかに塗り直してくれた人だった。
しかし、色を塗り直すということは、かつての絵を壊すということでもあった。
夕暮れが近づき、湖面がオレンジ色に染まり始めた。
楓はベンチに戻り、そっと目を閉じた。
瞼の裏に、淡い残光のような光が浮かんだ。
それは、悠真と出会った瞬間に感じた、あの最初の光と同じだった。
——私は、この光を、どこまで受け入れるべきなのだろう。
帰りの電車の中で、楓は決意した。
もう少しだけ時間を置こう。
夫とも、悠真とも、すぐに結論を出さない。
自分自身と、ちゃんと向き合う時間が必要だった。
家に着くと、拓也が珍しく台所に立っていた。
簡単な夕食を作っている背中を見て、楓は胸が痛んだ。
美咲が駆け寄ってきて「ママ、おかえり!」と抱きついたとき、楓は娘の小さな体を強く抱きしめた。
その夜、楓は一人で仕事部屋の明かりを消し、暗闇の中で静かに考えた。
私は壊れかけている。
でも、もしかしたら——
この壊れ方は、再生のためのものかもしれない。
淡い残光は、まだ消えていない。
ただ、その光が、
これからどんな色に変わっていくのか、
楓自身にも、まだわからなかった。




