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淡い残光  作者: 蒼狐


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第13章 選び取る光

 その朝、楓は鏡の前に立って、自分の顔をじっと見つめた。


 三十七歳。

 目尻に細かい皺が刻まれ、頰は少しやつれている。

 しかし、瞳の奥には、これまでになく強い光が宿っているように感じた。


 夫の拓也は朝食の後、美咲を学校に送るついでに「今日は遅くなるかもしれない」と言って出かけた。

 家の中が静かになった瞬間、楓はスマホを手に取った。

 悠真の名前をタップし、短いメッセージを打つ。


 〈今日の午後、会える?

 大事な話があるの。〉


 返事はすぐに来た。

 〈どこでもいい。君の都合に合わせる。〉


 午後二時、二人は初めて出会ったあの小さなカフェで向かい合った。

 窓から差し込む光が、悠真の横顔を淡く照らしている。

 楓は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


「私……決めたわ」


 悠真の目が、わずかに緊張で強張った。

 楓は彼の視線をまっすぐに受け止めた。


「私は、あなたのところへは行かない。

 美咲を置いて、新しい人生を始める勇気は……私にはなかった。

 ごめんなさい」


 悠真は一瞬、息を止めた。

 その後、静かに目を伏せた。

 彼の指が、コーヒーカップの取っ手を強く握りしめているのが見えた。


「……そうか」


 声は低く、抑揚がなかった。

 しかし、その一言の中に、深い悲しみと、どこか納得したような響きがあった。


 楓は涙を堪えながら続けた。


「あなたと過ごした時間は、私の人生で一番輝いていた。

 忘れられない。

 きっと、一生忘れない。

 でも、私は母であることを、捨てられない。

 ……それが、私の選んだ光なの」


 悠真は長い間、黙っていた。

 やがて、穏やかな、けれども疲れた笑みを浮かべた。


「君らしい選択だ。

 俺は……君を恨まない。

 むしろ、ありがとう。

 君のおかげで、俺はもう一度、自分の人生と向き合えた」


 二人はカフェを出た後、駅まで一緒に歩いた。

 最後に、悠真がそっと楓の手を握った。

 その手は温かく、しかしもう、離れていくことを予感させる力強さだった。


「さよなら、楓。

 幸せになってくれ」


 楓は涙を零しながら、ただ頷いた。

 悠真の背中が、駅の階段を上っていくのを見送った後、彼女はそこでしばらく立ち尽くした。


 家に帰ると、拓也がすでに帰っていた。

 美咲と一緒に夕食の準備をしていた夫は、楓の赤い目を見て、何も聞かなかった。

 ただ、静かに言った。


「……今日は、家族三人で食事をしよう」


 その夜、楓は美咲を寝かしつけた後、夫と二人でリビングに座った。

 拓也が口を開いた。


「離婚は……考えなくていいのか?」


 楓は首を横に振った。


「もう一度、やり直したい。

 簡単にはいかないと思うけど……私、頑張ってみる」


 拓也は小さく頷いた。

 その目には、傷と、かすかな希望が混じっていた。


 ベッドに入った後、楓は夫の背中にそっと手を置いた。

 夫は動かなかったが、拒絶もしなかった。


 窓の外では、夜の街灯が淡く輝いていた。

 あの残光は、もう激しい炎ではなく、静かで優しい光に変わっていた。


 楓は目を閉じ、静かに息を吐いた。


 私は、失ったものも、守ったものも、

 すべてを抱えて生きていく。

 それが、私の選んだ道。


 淡い残光は、

 これからも、

 彼女の人生を、静かに照らし続けていくのだろう。

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