第三話「天弓と呼ばれる男」
前日の夜、色々と不安はある。ジゼルの胸中には分厚い雲が掛かっていた。
「まだ寝てないのか」
ジゼルの部屋に足を踏み入れていたキースはベッドに横たわりながら目を伏せていないジゼルを見て、呟いた。普段から思っているが彼は一体何時に寝て、何時に起きているのだろうか。
「お前はちゃんと睡眠を取れ。人間の体は脆い」
「そういうキースだって…」
「俺の事は気にしなくて良い。さっさと寝ろ」
突き放すような言い方だがキースの言葉はどれもジゼルの体の事を心配しているから出るものばかりだ。彼なりにジゼルの事を気に掛けている。人によっては彼が冷徹に見える、確かに彼は他者とは一定の距離を保って接する。だが彼の優しさは決して人の眼には見えない。何故なら見えない場所で、見えない時に、そっと彼は優しさを他者に与えるからだ。ジゼルが散らかしたデスクが次の日の朝にはキレイになっているのも、洗わずに放置された食器が全ていつの間にか綺麗に洗われた上に元の場所に片付けられているのも誰が後片付けしたのか言わずもがな分かる。何をしてもジゼルよりも優れているが、キースは決して前に出ない。自分の功績は全てジゼルのものとして周囲に広めている。彼はあくまでも探偵ジゼルの助手であり続けるのだ。
眠れるジゼルの夢は何だったのだろうか。妙な気分のまま彼女は朝を迎えた。強制的に日の光を部屋の中に入れられた。
「朝だ、ジゼル」
「ん…」
寝ぼけているジゼルだが、ベッドから起き上がった。ついに今日は式典当日。ジゼルも大仕事を控えている。この式典、必ず何かが起こる。小競り合い程度では収まらない事件が起こるまで、後何時間だろうか。そんなことなど露知らず、人々は首都イーリスにあるパラス大広場へと集結している。そして広場には様々な出店も並んでおり、賑わいを助長する。広場に来たジゼルの視線は並ぶ出店に釘付けだ。天気は快晴、目を輝かせて出店の食べ物を眺めるジゼルに対して目深にフードを被り鬱陶しそうな表情を浮かべていた。
「キース、大丈夫?今日はまだまだ気温が上がるって」
「…はぁ…」
返事の代わりにキースからは溜息が返って来た。普段ならば伸ばされる背筋も今日は丸まっている。ジゼルが突然キースの近くから離れ、人混みの中に消えていく。普段なら追いかけるだろうが、今はその気力すら湧いてこない。完璧超人に見られがちなキースにも苦手な物がある。この眩い太陽の光を彼は嫌っている。命の危機に晒されるほどでは無いが、不快感が非常に強い。かなりの時間待ち続けている。ようやくジゼルが戻って来た。両手に何やら飲食物を抱え込んでいる。日陰になっているベンチに座り込んでいるキースの隣に来ると一つを彼に手渡した。
「?」
手渡されたのは冷たいジュース。リンゴ型のボトルに入ったドリンク。夜空のスパークアップルジュースと書かれていたらしい。底には魔法石が沈んでいる。安価で手に入る、子どもが好きそうな玩具と変わらないがこのジュースは人気らしい。この魔法石を収集するのにハマる人が多いとか。
「暑そうだったから、冷たいのが良いかなぁ…って。私は糖蜜飴を買ったんだ」
「…途中でチョコバナナ買って食ってただろ」
飴とジュースだけ買ったような言い草だが実際は他にも色々飲み食いしてから戻って来た。図星を突かれてギクッとするジゼルの反応を見れば分かる事だ。ベンチに座る二人に接触して来る人物がいる。服装を見ればすぐに軍人であると分かる制服。
「君が探偵ジゼル・オルメスと助手キース・プリムローズで合ってるかな?」
背丈に反して腰が低い男。彼もまた軍人の中では有名な人間だ。オスカー・ガリオン、天弓という異名を持つ射手、狙撃手である。そんな偉大な異名に反して彼は他よりも劣ると謙遜している。彼のデフォルトは困り眉らしく、すぐに彼は謙遜する。
「ゼノン君、剣聖だからあちこちで引っ張りだこでね。若いのに、大変だよね」
「そういう貴方も天弓って呼ばれる凄い人なんですよね?あちこちで引っ張りだこになりそうだけど…」
「え、僕?僕はそんな凄く無いよ。安全な場所から撃つだけだからね」
困ったような笑い方をする。オスカーは日陰で疲れた顔をするキースを見て、彼の正体を予想している。だがその予想を口には出さない。
「移動しよう。君たちも警備のお手伝いをしてくれるって聞いてるよ。建物の中なら涼しいしね」
オスカーは一本の日傘を差し出した。ジゼルはそれを開くと、少し高く持ち上げる。キースこそ日傘の中に入るべきとして配慮したのだが彼自身がそれを拒絶し、ジゼルだけがすっぽりと日傘の中に入っている。二人の短いやり取りを見ていれば初対面であるオスカーだって、二人の信頼性は分かる。女性と男性、ジゼルとキース、二人の姿に自分と妻とを重ねていた。妻はもう少し小柄でジゼルよりも気の強い女性だが…。オスカーが連れて来た場所は本来足を踏み入れるはずの無いような場所だった。何故ならそこには大統領がいるのだから。




