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第十四章 最果ての地

 白い入口を越えた瞬間、足元が消えた。

 落ちる、と思った。

 けれど、身体は落ちなかった。

 セイはただ、立っていた。

 立っている場所が、まだ決まっていないだけだった。

 足元には雨に濡れたアスファルトがあった。現代日本の住宅街。灰色の空、濡れた電信柱、紫陽花の葉に溜まる水滴、誰も通らない道。遠くで車が通る音がして、すぐに消える。セイの靴は砂漠の旅で汚れているはずなのに、アスファルトの水たまりには、昔の自分の靴が映っていた。まだノースへ来る前の、雨の日に外へ出た少年の靴。

 瞬きをすると、そこはハナンの聖堂跡になった。

 崩れた白い石。折れた柱。風に揺れる白と赤の薔薇。薔薇の香りは甘いのに、胸の奥へ刺さる。祭壇のあった場所には、薄い光が差し込んでいた。誰かが祈っているような気配がある。

 次の瞬間、足元は雲になった。

 ゼフィ=ラウの雲海。青い空。風車塔。遠くで蒼風石が淡く光り、未完成の飛行機械が風を切っている。黒い羽が空に広がったような影が見えた気がした。

 また瞬きをすると、砂漠の湖があった。

 三日月が水面に映り、月牙の泊まり場の灯りが遠く揺れている。乾いた風が頬を撫で、アズィーザの首元の形見が小さく鳴った。

 さらに次の瞬間、黄金都市アウロの庭。

 砂の下の天蓋、黄金の塔、乾いた水路、猫型使い魔の石像、焼けた書庫。

 そして、知らない町。

 石の橋を持つ町。

 水の中に沈む町。

 木々の根の間に家を作る種族の集落。

 火山の麓で陶器を焼く小さな村。

 空白の地図の上に、名前だけが浮かぶ町。

 次々に景色が変わる。

 どれも本物のようで、どれも足元が安定しない。

 セイは息を詰めた。

「ここは……」

 声を出すと、その言葉が白い砂になって散った。

 ファティマが隣で身を縮める。

 彼女の輪郭は、白い入口を越える前よりもまた揺らいでいた。猫耳の端が文字になり、尾の先が頁のように薄くなる。けれど、彼女は自分の足で立っていた。セイの手を握ってはいない。ただ、すぐ隣にいる。

「最果て」

 ファティマは小さく言った。

 声が少しだけ重なっていた。少女ファティマの声と、大魔導師ファティマの残響と、どこか遠い白い猫の鳴き声。

「ノースの端。世界の縫い目。外宇宙に触れてる場所。地図には載らない。載せたら、地図の方がほどける」

 彼女は自分で言ってから、怖くなったように唇を噛んだ。

「今の、ボクが知ってたのかな」

「ファティマが言った」

 セイはそう答えた。

 彼女が何者の記録として知ったのかは分からない。

 でも、今ここでその言葉を言ったのはファティマだ。

 ファティマは少しだけ目を伏せた。

「うん。じゃあ、今はそれでいい」

 アズィーザが周囲を見回している。

 彼女はさすがに平然とはしていなかった。砂漠の怪盗は遺跡にも砂嵐にも慣れているが、景色そのものが一歩ごとに入れ替わる場所は、さすがに専門外らしい。

「地図が役に立たない場所は嫌いじゃないけど、足元まで役に立たないのは困るね」

 彼女はそう言いながら、首元の形見を握っていた。

 ナジムを作り直さないと決めた後も、その手つきは変わらない。むしろ、形見を握る意味が変わったのだろう。戻すためではなく、忘れないために。

 エムは〈光天の書〉を開いていた。

 だが、白い頁はまともに記録を映さない。文字が現れては崩れ、正史の線が走っては別の線に裂ける。エムの眉間に、今まで見たことがないほど深い皺が寄っていた。

「照合不能……いや、照合過多か。正史候補が多すぎる。どれも不完全で、どれも修正痕を持つ」

「白いお姫様でも分からないのかい」

 アズィーザが軽く言うと、エムは睨んだ。

「分からぬのではない。すべてが同時に正史の顔をしておるのじゃ」

 その言葉に、セイの背筋が冷えた。

 すべてが正史の顔をしている。

 あり得たノース。

 試されたノース。

 作られ、捨てられ、上書きされた世界版。

 セイたちは、その残骸の中に立っていた。

 最果ての地は、地理的な場所ではなかった。

 ノースの構文端。

 世界の外側へ触れる縁。

 〈大きな神〉が何度も世界へ手を伸ばした場所。

 そして、作り直しに失敗した世界版が沈殿する場所だった。

 白い地平線の向こうで、鐘が鳴った。

 ハナンの鐘に似ている。

 でも、少し違う。

 セイは、その音に引かれて歩き出した。

 足元が花の石畳になる。

 目の前に、花の都が広がった。

 ハナンだ。

 しかし、違う。

 町は美しい。花人たちが笑い、露店には白い花が並び、聖堂の塔はまっすぐ立っている。けれど、セイの胸には違和感があった。

 薔薇がない。

 白薔薇も、赤薔薇も。

 聖堂の前に、セシル・ローズの名を刻んだ碑もない。

 そもそも、セシルという名が町のどこにもない。

 セイは道行く花人へ声をかけようとした。

 だが、相手はセイを見ない。幻のように通り過ぎていく。

 ファティマが小さく言った。

「ハナンが、存在しない版」

「ここにあるじゃないか」

 アズィーザが言う。

 ファティマは首を振った。

「花の町はある。でも、ハナンじゃない。名前が違う。歴史が違う。花人とノエルの傷も、セシルの祈りも、あの聖堂の出来事もない」

 セイは聖堂を見た。

 美しい。

 何も壊れていない。

 けれど、その美しさは空っぽに見えた。

 ここには、セシルがいない。

 セシルが間違えたことも、救いたかったことも、混沌へ沈む前に「覚えていてください」と言ったこともない。

 町は無事だ。

 それなのに、セイは息苦しくなった。

 次の瞬間、景色が変わった。

 今度は、ハナンの聖堂が崩れる直前の姿だった。

 セシルが生きていた。

 白い衣をまとい、祭壇の前で祈っている。盲いた目は穏やかで、手には禁書を持っていない。

 セイの胸が大きく跳ねた。

「セシルさん……」

 足が勝手に前へ出そうになる。

 だが、アズィーザが腕を掴んだ。

「待ちな」

「でも」

「見ろ」

 アズィーザの声は硬かった。

 セイは、聖堂の外を見た。

 町の端で、黒い霧が上がっている。

 セシルは生きている。

 禁書に触れていない。

 だが、別の誰かが霧に呑まれている。

 アリアだった。

 怪盗の衣をまとい、赤い髪を揺らしながら、聖堂の扉の外で消えかけている。彼女の手には、割れた薔薇の聖印があった。

 セイは凍りついた。

 セシルを救った世界では、アリアが消えている。

 いや、そう単純な交換ではないかもしれない。けれど、世界はどこかを埋めるために、別の場所を削っていた。

「違う」

 セイは呟いた。

「こんなの、違う」

 聖堂の鐘が歪む。

 景色がまた崩れた。

 今度はゼフィ=ラウだった。

 雲海の上に都市が浮かんでいる。青い空。蒼風石。歌うセイレーンたち。

 だが、黒い羽がどこにもない。

 クラウディアがいない。

 王家の記録は整っている。ナディールは最初から唯一の皇女として立ち、誰も疑問に思わない。黒い羽を不吉とする言葉すら存在しない。

 美しい都市だった。

 差別はない。

 隠された姉もいない。

 でも、それはクラウディアが最初から生まれなかった都市だった。

 ナディールは穏やかに笑っている。

 その笑みには、後悔がない。

 しかし、セイは知っている。

 クラウディアが自分の黒い羽で飛んだ夜空を。

 ナディールが公の場で「姉様」と呼んだ声を。

 ウィンディが未完成の機械で、地上と空をつないだことを。

 それらが、ここにはない。

 痛みがない代わりに、選び取った現実もない。

「正しく整えられた都市じゃ」

 エムが低く言った。

 その声には、以前なら混じらなかった苦味があった。

「矛盾は少ない。正史としては美しい」

「でも、クラウディアがいない」

 セイが言った。

 エムは白い頁を見つめた。

「その通りじゃ」

 たったそれだけの言葉だった。

 しかし、セイには分かった。

 エムも揺れている。

 正しい記録が、世界を救うとは限らない。

 彼女は、それをここで見ている。

 景色はさらに変わる。

 草原。

 セイが初めてノースへ来た草原。

 青空が広がり、遠くに山並みが見える。

 そこに、ファティマがいた。

 だが、彼女は少女ではなかった。

 黒い表紙と金具を持つ大きな魔本が、草原の上に浮かんでいる。紅と金の瞳をした猫型の紋章が表紙に刻まれているだけで、声はない。

 セイらしき少年が、その本を開いている。

 しかし、隣で笑うファティマはいない。

 本は必要な情報だけを表示する。地名、種族、魔導、危険度、翻訳。

 完璧な案内書。

 壊れない。

 迷わない。

 怖がらない。

 「ご主人様」とふざけて呼ばない。

 尻尾を焦がして怒らない。

 ハナンで震えない。

 ゼフィ=ラウで黒い羽をかっこいいと言わない。

 砂漠で耳が蒸れると文句を言わない。

 セイの隣で、笑わない。

 ファティマが、息を呑んだ。

 彼女は自分自身の別版を見ていた。

 完全な魔本。

 少女ではないファティマ。

 記録としては正しいのかもしれない。

 でも、セイが知るファティマではない。

「ボク……ああだったら、苦しくなかったのかな」

 ファティマが呟いた。

 セイは彼女を見る。

「分からない」

「便利そうだね」

「うん」

「壊れなさそう」

「うん」

「でも、笑わないね」

 ファティマは少しだけ笑った。

 泣きそうな笑いだった。

「それ、ちょっと寂しい」

「僕も」

 セイは言った。

 ファティマは彼を見た。

 セイは言葉を選びながら続ける。

「でも、あのファティマも、あれで存在しているんだと思う。僕の知らない版のファティマかもしれない。だから、否定はしたくない」

 ファティマは目を伏せる。

「うん。……でも、ボクはあれには戻りたくない」

「うん」

 その答えを聞いて、セイは少しだけ安心した。

 セイが決めたのではない。

 ファティマが言った。

 自分で。

 次に現れたのは、セイ自身だった。

 現代日本の雨の住宅街。

 セイの部屋。

 本棚。床に積まれた本。閉じたカーテン。雨音。

 そこに、少年がいる。

 セイだった。

 ノースへ来ていないセイ。

 段ボール箱を見つけず、仔猫と魔本を拾わず、雨の日の外出をただの散歩として終えたセイ。

 彼は部屋で本を読んでいる。

 静かだった。

 安全だった。

 ハナンの聖堂で泣くこともない。

 セシルを失うこともない。

 ゼフィ=ラウで落ちかける都市を見ることもない。

 ファティマが崩壊する姿を見ることもない。

 アズィーザが弟を作り直さないと泣く場面に立ち会うこともない。

 何も傷つかない。

 何も得ない。

 少年は本を閉じ、窓の外の雨を見た。

 その顔は、セイがよく知っている顔だった。

 世界に見捨てられたようで、でも助けてほしいとも言えない顔。

 セイは喉が詰まった。

 この自分なら、傷つかずに済んだのかもしれない。

 ノースを知らずに済んだ。

 誰かを救えなかった痛みも、誰かを所有しそうになる怖さも知らずに済んだ。

 でも、ファティマに会えなかった。

 セシルの名を覚えることも、クラウディアの羽を見ることも、アズィーザの涙を知ることも、エムの揺らぎを見ることもなかった。

 現実の自分が無傷だったとしても、その無傷は空っぽだった。

「セイ」

 ファティマが呼んだ。

 セイははっとする。

 彼女は隣に立っている。

 揺らいではいるが、ここにいる。

「大丈夫?」

「分からない」

「そっか」

 彼女は少しだけ首を傾げる。

「でも、ここにいるセイは、ボクと会ったセイだよ」

 その言葉で、セイの胸が熱くなった。

 ノースへ来なかったセイは、幻の中で雨を見ている。

 セイはその自分を否定しなかった。

 あれも、あり得た自分だ。

 でも、自分は今ここにいる。

 傷つき、迷い、答えられず、それでも歩いてきたセイとして。

 景色は、さらに激しく揺れ始めた。

 いくつものノースが重なる。

 ハナンが存在しないノース。

 セシルが生きているが、アリアが消えたノース。

 クラウディアが生まれなかったノース。

 ファティマが完全な魔本として笑わないノース。

 ナジムが生きていて、アズィーザが泣かなかったノース。

 セイが来なかったノース。

 ノースそのものが水の星のまま、種族も神々も生まれなかった版。

 火界王アウロが配置されなかった版。

 風界王ゼークが空を支え損ねた版。

 土界王ディティアの大地が割れた版。

 水界王イズムの記憶が腐った版。

 光神ヒリカの光が強すぎてすべてを白く塗りつぶした版。

 闇神イーマの闇がすべてを隠しきって、誰も見つけられなくなった版。

 それらが、同時にセイの周囲を回った。

 耳の奥で、無数の声が鳴る。

 救えた。

 救えなかった。

 消した。

 戻した。

 やり直した。

 違う。

 もう一度。

 これではない。

 もう一度。

 同じ世界は戻らない。

 もう一度。

 セイは吐き気を覚えた。

 膝が崩れそうになる。

 アズィーザが肩を支えた。

「セイ坊!」

 セイは口元を押さえた。

 吐くものはない。

 それでも、胃の底から世界そのものが逆流してくるようだった。

 作り直すとは、こういうことなのだ。

 救えなかったものを救うたびに、別の何かが消える。

 望んだ世界へ近づけるたびに、そこに生きていた者の現実が上書きされる。

 セシルを救えば、アリアが消えるかもしれない。

 クラウディアが傷つかなかった世界を作れば、クラウディアそのものが生まれないかもしれない。

 ファティマを完全な本にすれば、笑った少女がいなくなるかもしれない。

 自分がノースへ来なければ、誰も傷つけずに済んだ代わりに、誰とも出会わない。

 どれかを選ぶことは、他の現実を捨てることだった。

 それを、〈大きな神〉は何度もやったのだ。

 愛した世界を取り戻したくて。

 失ったものを戻したくて。

 自分の望む世界に近づけたくて。

 何度も、何度も。

 ノースは、その繰り返しの残骸の上にある。

「こんなの……」

 セイは震える声で言った。

「こんなの、救いじゃない」

 エムが白い頁を見つめている。

 そこには、無数の正史候補が走っていた。

 だが、彼女はもう「正しいものを選べ」とは言わなかった。

 ただ、震える声で呟いた。

「妾の書なら、どれかを正史として固定できる」

 セイは彼女を見た。

 エムの顔は白かった。

「だが、固定した瞬間、他は断章になる。欠けた記録、偽史、未成立の可能性として外へ押し出される。妾は……これを、正しい補正と呼んできたのか」

 その声には、初めて明確な恐れがあった。

 ファティマが、エムを見た。

「エム」

 エムは答えない。

 〈光天の書〉の白い頁に、ハナンが存在しない世界が映る。

 次に、クラウディアが生まれなかった世界。

 次に、完全な魔本としてのファティマ。

 次に、ナジムが生きているが、アズィーザの形見が存在しない世界。

 エムは本を閉じた。

 強く。

 白い光が途切れる。

「正史とは、誰のための記録なのじゃ」

 彼女は小さく言った。

 その問いに、誰も答えなかった。

 最果ての地は、さらに白くなっていく。

 景色が崩れ、世界版の残骸が遠ざかる。

 その中心に、ひとつの道が現れた。

 道の先には、椅子があった。

 いや、椅子のように見えるもの。

 世界の外側に置かれた観測点。

 そこに、誰かが座っている影が見えた。

 巨大ではない。

 神話に語られるような、山ほどもある大きな神ではない。

 人の形をした影だった。

 セイは直感した。

 あれが、〈大きな神〉だ。

 世界を作り直し続けた者。

 失った世界を取り戻したかった者。

 セイと同じように、どこかから来たのかもしれない者。

 セイの最悪の未来像。

 ファティマが震えた。

 彼女の輪郭が、また少しほどける。

 だが、今回は自分で首輪を押さえた。

「大丈夫じゃない」

 彼女は言った。

「でも、立ってる」

 セイは頷いた。

「僕も」

 アズィーザが、涙の乾いた目で前を見た。

「行くんだね」

「はい」

「吐きそうでも?」

「吐きそうです」

「いいね。神様に会うには、ちょうどいい顔だ」

 セイは少しだけ笑った。

 笑えたことに、自分で驚いた。

 首輪が、ほんの少し温かくなる。

 ファティマも、少しだけ笑った。

 エムは〈光天の書〉を胸に抱えた。

「妾も行く。正史だけでは見えぬものを、照合するために」

 その言葉に、ファティマが小さく言った。

「壊れた断章も、必要?」

 エムは、しばらく黙っていた。

 そして、視線を逸らさずに答えた。

「必要じゃ」

 それは短い言葉だった。

 けれど、ファティマの瞳が少し揺れた。

 セイは白い道の先を見た。

 最果ての地は、もう景色を変えない。

 雨の住宅街も、ハナンの聖堂も、ゼフィ=ラウの雲海も、砂漠の湖も、アウロの庭も、知らない町も、消された種族の墓所も、選ばれなかった自分も、すべて背後で静かに重なっている。

 それらは、消えたわけではない。

 ここにある。

 残骸として。

 記録として。

 痛みとして。

 問いとして。

 セイは一歩を踏み出した。

 世界を作り直すことの代償を、吐き気とともに胸へ刻んだまま。

 白い道の向こうで、人の形をした神の影が、ゆっくりと顔を上げた。

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