第十三章 創造の書への入口
最果てへ続く地平線は、近づくほど遠くなった。
砂色の道を歩いていたはずなのに、足元はいつの間にか白い頁になっている。白い頁だと思えば、次の瞬間には雨に濡れたアスファルトになり、また一歩進むと、ハナンの石畳になった。白薔薇と赤薔薇の花びらが踏みしめる前に消え、乾いた砂に変わり、さらに蒼い風を含んだ雲の橋へ変わる。
上には空があった。
だが、それは普通の空ではなかった。
開かれた頁のような空だった。
青ではなく、白い。雲ではなく、余白が流れている。空の端には文字が浮かび、読もうとすると別の景色へほどけた。ある文字はハナンの鐘楼になり、ある文字はゼフィ=ラウの風車塔になり、ある文字は砂漠の墓標になった。
世界が、頁になっている。
頁が、世界になっている。
セイは胸元の金の首輪に手を当てた。
ファティマの首輪には、六つの印が静かに宿っている。火の熱。風の震え。土の重み。水の冷たさ。光の明滅。闇の休息。神格巡礼で受け取ったそれらは、首輪を通じて、まだほどけたファティマへ届いているようだった。
少なくとも、セイはそう信じたかった。
首輪は温かい。
けれど、ファティマはまだ完全には戻っていない。
時折、頁のすき間からかすかな声がする。セイ、と呼んだような気がすることもある。耳が蒸れる、と文句を言いかけたように感じることもある。だが、振り返ってもそこに猫耳の少女はいない。
代わりに、セイの周囲を小さな頁が舞っている。
その一枚に、草原で笑ったファティマが映る。
別の一枚に、ハナンで震えたファティマ。
また別の一枚に、ゼフィ=ラウで黒い羽を見上げたファティマ。
砂漠で外套をかぶり、耳が蒸れると怒ったファティマ。
そして、その合間に、大魔導師ファティマの筆跡、猫型使い魔の足跡、ノースの地図、消された町の名、〈大きな神〉の修正履歴が混ざる。
ファティマは、まだ自分を集めきれていない。
それが分かるから、セイは何度も名前を呼びたくなった。
でも、呼び方を間違えてはいけない。
引き寄せるためではなく、帰る道があると知らせるために。
風界王ゼークの言葉が胸に残っていた。
呼び声は鎖ではない。戻るための音だ。
「……ファティマ」
セイは小さく呼んだ。
首輪が、ほんの少しだけ温かくなる。
その温かさを確かめてから、セイは前を向いた。
隣では、アズィーザが黙って歩いていた。
彼女はいつものように軽口を探しているようだったが、すぐには見つからないらしい。ナジムを作り直さないと決めた後、彼女は時々、首元の形見に触れている。泣き腫らした目はもう乾いていたが、その乾きは砂漠の強さではなく、泣いた後にしか残らない静けさだった。
エムは少し後ろを歩いている。
〈光天の書〉は閉じられていた。白銀の髪も、白い衣も、相変わらず乱れない。だが、歩く速度が以前より少し遅い。光神ヒリカに言われた「照らされたものがすべてではない」という言葉が、彼女の中でまだ響いているのだろう。
セイは、エムが揺れているのを感じた。
正史を信じ、欠けた記録を白紙化しようとしていた彼女が、今は白い頁を閉じている。
それは大きな変化ではない。
でも、何かが確かに動いていた。
「見えてきたよ」
アズィーザが言った。
前方の白い地平線が、少しずつ形を持ち始めていた。
扉がある。
ただし、扉と呼んでよいのか分からないものだった。
巨大な本の形をしているようにも見える。
世界の裂け目のようにも見える。
空の端が二つに開き、その間に白い光が満ちている。光の中には、無数の景色が重なっていた。
ハナンの薔薇。
白と赤の混じった一輪の薔薇が、崩れた聖堂跡に咲いている。
ゼフィ=ラウの風。
黒い羽が青い空へ広がり、未完成の飛行機械が地上へ向かう。
砂漠の湖。
三日月が水面に揺れ、ナジムの形見が小さく光る。
セイの部屋の雨音。
窓の外を流れる雨。濡れた道路。閉じたカーテン。段ボール箱の中で鳴いていた小さな猫の声。
それらが、同時にあった。
過去でも現在でもない。
記憶でも可能性でもない。
すべてが重なり、ひとつの入口になっている。
地面は文字でできた砂だった。
歩くたびに、砂粒が言葉へ変わる。セイ、ファティマ、アズィーザ、エム、セシル、ナジム、クラウディア、ナディール、ウィンディ、大魔導師ファティマ。知っている名も、知らない名も、足元で細かく砕けてまた砂になる。
遠くで鐘の音がした。
消された町の鐘の音。
どこの町かは分からない。だが、誰かがそこにいたことだけは分かる。
アズィーザが、思わず立ち止まった。
「これは……扉なのかい」
エムが答えた。
「〈創造の書〉への入口じゃ」
「本に入る扉って、もう少し本棚っぽいものかと思ってたよ」
「〈創造の書〉は本であり、世界であり、扉である。形は見る者によって揺らぐ」
エムの声は硬かった。
だが、以前のような確信だけではない。
「ここから先へ行けば、セイ。おまえは、読者ではいられない」
セイは白い入口を見上げた。
読者ではいられない。
その言葉は、思ったより静かに胸へ落ちた。
最初にノースへ来た時、セイは読者だった。
誰も知らない世界を冒険したかった。現実の自分を置き去りにして、物語の中でなら違う自分になれると思っていた。
だが、この世界は本の中の安全な冒険ではなかった。
ハナンでセシルを失った。
ゼフィ=ラウでクラウディアが自分の羽で飛ぶところを見た。
砂漠でアズィーザが弟を作り直さない選択をした。
ファティマが壊れ、自分の存在を問うた。
それらは、読者の外側で起こる出来事ではなかった。
セイはもう、読んでいるだけではいられない。
「世界を書く者になるか」
エムは言った。
「あるいは、閉じる者になる」
「閉じる者?」
「〈創造の書〉を開けば、ノースの構造へ触れられる。書けば、世界を修正できる。だが、閉じることもまた選択じゃ。書かずに閉じる。あるいは、誰かが書き換え続けてきた頁を止める」
アズィーザが苦い顔をする。
「どれも重いね。旅の初めに聞いてたら、あたしなら回れ右して宿に戻る」
「今なら?」
セイが尋ねると、アズィーザは首元の形見を握って、少しだけ笑った。
「今は、戻る宿が遠すぎる」
「確かに」
「それに、ここまで来て宝箱を開けない怪盗はいない。中身が呪いでもね」
「開けるんですか」
「開けるのはあんただよ、セイ坊」
アズィーザの目が、真剣になる。
「あたしは、ナジムを作り直さないって選んだ。でも、それはあんたの答えじゃない。セシルのことも、ファティマのことも、ノースのことも、あんたが自分で向き合うしかない」
セイは頷いた。
分かっている。
アズィーザの選択を真似るだけではだめだ。
クラウディアを見届けた時のように、誰かの答えを自分の答えにしてはいけない。
自分で立たなければならない。
その時、胸元の首輪が強く震えた。
セイははっとする。
首輪から、淡い金色の光がこぼれた。
光は空中で頁になり、頁は少女の輪郭を作る。
猫耳。
尾。
紅と金の瞳。
ファティマだった。
ただし、まだ完全ではない。
髪の端は文字へほどけ、足元は頁の端のように揺れ、肩の向こうには大魔導師ファティマの影と、白い猫の足跡が重なっている。彼女の身体の中には、ノースの地図の線が薄く走っていた。
それでも、ファティマだった。
セイは息を詰めた。
「ファティマ」
彼女は両手で自分の胸を押さえ、白い入口を見つめていた。
怯えている。
その顔を見ただけで、セイには分かった。
「……ここ、こわい」
ファティマの声は、まだ少し揺れていた。
でも、確かに彼女の声だった。
「扉が、ボクを読んでる。ボクの中の記録が、ほどける。草原も、ハナンも、ゼフィ=ラウも、アウロも、知らない町も、消された名前も、全部、開こうとしてる」
ファティマは一歩下がった。
すると、彼女の輪郭が少しほどける。
セイは反射的に手を伸ばしかけた。
だが、そこで止めた。
つかんで引き寄せたい。
消えないように抱きしめたい。
セイの相棒として、ここに留めたい。
その気持ちは強い。
けれど、ファティマは前に言った。
ボクを閉じ込めないで。
セイは手を伸ばしたまま、指を開いた。
つかむためではなく、差し出すために。
「ファティマ」
彼女がセイを見る。
目には涙が浮かんでいた。
「一緒に来る?」
それだけを言った。
命令ではない。
お願いでも、所有の言葉でもない。
来てほしい、という願いはある。
でも、引きずる言葉にはしない。
ファティマが来ないと言えば、それを受け止めなければならない。そう思った瞬間、胸が裂けそうに痛んだ。
それでも、セイは言い直さなかった。
ファティマは、しばらくセイの手を見ていた。
つかまれていない手。
開かれた手。
彼女は小さく息を吸った。
「ご主人様じゃなくて」
声が震えていた。
「セイが、そう言うなら」
セイの胸が熱くなった。
ファティマは少しだけ笑った。
泣きそうで、怖がっていて、まだ輪郭は揺れていて、それでも彼女らしい笑い方だった。
「ボク、行く。怖いけど。自分が何なのか、まだ分からないけど。セイが“来い”じゃなくて、“来る?”って聞いてくれたから」
彼女は手を伸ばした。
セイの手に、そっと触れる。
握るというより、確かめるように。
その瞬間、首輪の六つの印が光った。
火が、ファティマのほどけかけた輪郭を温める。
風が、彼女の髪に絡んだ余分な文字を散らしすぎないよう流す。
土が、彼女の足元に形を与える。
水が、混ざりすぎた記憶をゆっくり流す。
光が、彼女の姿を照らす。
闇が、まだ言葉にならない部分を休ませる。
ファティマの身体が、少しだけ安定した。
完全ではない。
以前と同じでもない。
けれど、そこにいる。
アズィーザが鼻をすすった。
「いいねえ。若いねえ。こういう時に軽口を入れると怒られるかい」
ファティマが少しだけ眉を寄せた。
「怒る元気は少しある」
「戻ってきたね、本猫」
「ファティマ」
「はいはい、ファティマ」
アズィーザは笑った。
その笑いは、少しだけ涙を含んでいた。
エムは黙って二人を見ていた。
白い頁を開こうとはしない。
セイとファティマの手が触れているのを、ただ観測している。
やがて、彼女は静かに言った。
「所有ではない接続」
「え?」
「妾の書では、まだ分類が難しい」
エムは少しだけ目を伏せた。
「だが、記録する価値はある」
ファティマが小さく笑った。
「エム、それ、褒めてる?」
「半分じゃ」
「半分!」
その反応に、セイは泣きそうになった。
ファティマが「半分」と言える。
それだけで、ここまで来た意味が少しだけあったように思えた。
白い入口の向こうから、雨音がした。
セイの部屋の雨音。
同時に、ハナンの鐘が鳴り、ゼフィ=ラウの風車が回り、砂漠の砂が流れ、遠いどこかで誰かが名前を呼んだ。
ファティマの手が、少し震えた。
セイは握り返したくなった。
強く。
でも、強くは握らなかった。
ただ、触れている。
ファティマも、逃げなかった。
「セイ」
「うん」
「ボクが途中でほどけそうになったら、名前を呼んで」
「呼ぶ」
「でも、引っ張らないで」
「うん」
「それでも、もしボクが助けてって言ったら?」
セイは少し考えた。
「その時は、どう助けてほしいか聞く」
ファティマは目を丸くした。
それから、少し困ったように笑った。
「めんどくさい相棒になったね、セイ」
「ファティマほどじゃないと思う」
「言ったな」
そのやり取りは、以前と似ていた。
でも、同じではない。
似ているから偽物ではない。
変わったから失われたわけでもない。
セイは、そのことを胸に刻んだ。
エムが前へ進む。
白い入口の前で立ち止まり、〈光天の書〉を一度だけ開いた。
白い頁には、何も書かれていない。
彼女はその白紙を見つめ、やがて閉じた。
「ここから先では、妾の正史も完全ではない」
その言葉に、アズィーザが眉を上げる。
「白いお姫様が弱気だね」
「弱気ではない。事実を述べた」
「事実を述べる時の声が少し柔らかい」
「気のせいじゃ」
「そういうことにしておくよ」
エムは扉を見た。
「創造の書は、読む者の願いを映す。セイ。おまえが何を戻したいか、何を消したいか、何を自分のものにしたいか、すべて突きつけられる」
「分かっています」
「分かっておらぬ」
エムは即座に言った。
セイは少しだけ苦笑した。
「たぶん、そうですね」
「だが、分かっていないと知っているなら、まだよい」
それは、エムなりの譲歩なのかもしれなかった。
セイは頷いた。
ファティマの手が、そっと離れる。
セイは驚いて彼女を見る。
ファティマは、怖がっていた。
それでも、自分の足で立っていた。
「手、離すの?」
セイが聞くと、ファティマは頷いた。
「うん。隣を歩く。つかまれてるんじゃなくて」
セイの胸に、温かい痛みが広がった。
「分かった」
ファティマは、ほんの少し誇らしげに笑った。
まだ輪郭は揺れている。
けれど、彼女は自分で立っている。
セイの横に。
セイの後ろでも、腕の中でもなく。
隣に。
白い地平線が開く。
開かれた頁のような空が、さらに大きく広がった。
そこには、文字でできた砂が舞っている。
ハナンの薔薇の香りがした。
ゼフィ=ラウの風が頬を撫でた。
砂漠の湖の冷たさが足元を通った。
現代日本の雨音が、遠くで聞こえた。
セシルの聖印が、鞄の中で静かに重くなる。
アズィーザの形見が小さく鳴る。
エムの白い頁が、閉じたまま淡く光る。
ファティマの首輪が、胸元ではなく、彼女自身の首へ戻っていた。
いつの間にか、そうなっていた。
セイが驚くと、ファティマは首輪に触れて、小さく言った。
「これは、ボクの杭」
「うん」
「でも、セイが結んでくれたことは覚えてる」
「うん」
ファティマは前を向いた。
その目には恐怖がある。
でも、恐怖だけではない。
知りたいという意志があった。
自分が何者なのか。
ノースが何だったのか。
〈大きな神〉が何をしたのか。
そして、自分がこれから何を選ぶのか。
セイは深く息を吸った。
もう読者ではいられない。
世界を書く者になるのか、閉じる者になるのか。
それすらまだ分からない。
けれど、今は進む。
進んで、見る。
誰かの代わりに答えを出すためではなく、誰かを自分の物語へ閉じ込めるためでもなく。
世界が、何を抱えてここまで来たのかを見届けるために。
セイは白い入口へ足を踏み出した。
隣で、ファティマも歩き出す。
アズィーザがその後ろに続き、エムが最後に白い頁を抱えて進む。
〈創造の書〉への入口は、彼らを飲み込むのではなく、静かに開いて待っていた。
開かれた頁の空の下、文字でできた砂が舞い上がる。
その砂の中で、セイは確かに聞いた。
誰かが、世界の外から頁をめくる音を。




