第十二章 アズィーザの誘惑
最果てへ続く地平線は、まっすぐではなかった。
火、風、土、水、光、闇の六つの印を越えた先に開いた道は、砂漠の道にも、空中都市の回廊にも、ハナンの石畳にも似ていない。歩くたびに形を変える。ある一歩では白い砂。次の一歩では黒い頁。その次には、古い木の床、乾いた水路、雲の上に浮かぶ橋、誰かの家の廊下。
それらは、すべてノースのどこかにあった場所なのだろう。
あるいは、あったかもしれない場所。
書かれ、消され、もう一度書かれ、違う形で残った世界の外縁。
セイは胸元の金の首輪に手を当てながら歩いていた。首輪の内側には、六つの印が静かに息づいている。火の残り熱、風の小さな震え、土の重み、水の冷たさ、光のかすかな明滅、闇の柔らかい沈黙。
ファティマはまだ戻らない。
けれど、完全に消えてもいない。
名を呼ぶと、時々、首輪の奥でほんのわずかな温かさが返る。それが返事なのか、神格記録の反応なのか、セイには分からなかった。
分からないまま、呼び続ける。
それしかできなかった。
「セイ坊」
隣を歩いていたアズィーザが、急に足を止めた。
彼女の声は低い。
セイも立ち止まる。
前方の道が、砂色へ変わっていた。
ただの砂ではない。半透明の砂だった。砂粒の一つ一つに、小さな景色が閉じ込められている。町の門、旅人の背中、子どもの笑顔、空白の名札、破れた地図、折れた水筒、燃え残った頁。
その砂の向こうに、薄い光の幕が揺れている。
エムが〈光天の書〉を開いた。
白い頁が、その幕を照らす。
「外縁記録じゃ」
「外縁?」
セイが聞き返すと、エムは幕を見据えたまま答えた。
「正史に組み込まれなかった可能性、修正の際に切り落とされた世界版、記録から外れた者の残滓。〈創造の書〉へ至る道の周囲には、そうした断章が漂っておる」
アズィーザの指が、首元の紐飾りに触れた。
弟ナジムの形見。
砂漠石と金貨の欠片、小さな金属板。
彼女は、まだ何も言っていない。
けれど、セイには分かった。
この場所は、アズィーザを呼んでいる。
光の幕の奥で、誰かの声がした。
「姉さん」
アズィーザの肩が震えた。
風はない。
だが、彼女の外套の裾が揺れた。
「……やめな」
アズィーザは小さく言った。
誰に向けた言葉なのか、セイには分からなかった。幕の向こうの声にか。自分自身にか。それとも、この道を開いた〈創造の書〉にか。
声はもう一度響いた。
「姉さん、こっちだよ」
光の幕に、映像が浮かんだ。
砂漠の若者がいた。
セイは、それがナジムだとすぐに分かった。
アズィーザによく似た金色がかった瞳。少し癖のある砂色の髪。肩には地図筒。腰には水袋。笑った顔は、どこか間が抜けていて、人懐っこかった。
彼は砂丘の上に立っていた。
砂嵐はない。
血もない。
壊れた水筒も、焦げた地図筒もない。
ただ、明るい日差しの下で、こちらへ手を振っていた。
「ナジム……」
アズィーザの声が、ほとんど音にならなかった。
エムが頁を見下ろす。
「ナジムに紐づく記録断章。死亡記録、確定せず。消失記録、複数。外縁記録への接続痕あり」
アズィーザがエムを見る。
「どういう意味だい」
「彼は完全な死者として記録されておらぬ。少なくとも、この領域ではな」
エムは淡々と告げた。
「砂漠で消えたナジム。アウロの庭へ到達したナジム。到達せず引き返したナジム。姉に止められたナジム。地図を失くし、集落で笑われたナジム。複数の世界版が外縁に残っている」
光の幕が揺れた。
いくつものナジムが映る。
砂嵐に飲まれるナジム。
黄金都市の扉の前に立つナジム。
アズィーザに首根っこを掴まれて、情けない声を上げるナジム。
月牙の泊まり場で老人に叱られているナジム。
アズィーザと並んで朝日を見るナジム。
どれも、あり得たかもしれない姿だった。
アズィーザは一歩、幕へ近づいた。
セイは止めようとして、言葉に詰まった。
止めなければ。
そう思う。
でも、何と言えばいい。
ナジムを戻してはいけない。
そう言えるのか。
セイ自身、セシルを戻したい。夢の中で、崩れる前の聖堂へ戻れたらと願った。ファティマを失いたくない。首輪の温かさにすがっている。
取り戻したい願いを抱えたまま、アズィーザに「やめて」と言うことは、あまりにも難しかった。
「アズィーザ」
ようやく呼んだ声は弱かった。
彼女は振り向かない。
「分かってるよ」
彼女は言った。
その声は、いつもの軽さを必死でかぶせようとして、かぶせきれていなかった。
「分かってる。これが餌だってことくらい、砂漠の狐でも分かる。分かってるんだよ、セイ坊」
それでも、彼女は幕から目を離せなかった。
幕の中のナジムが笑う。
「姉さん、間に合ったんだよ」
その一言で、アズィーザの顔が崩れた。
間に合った。
砂嵐の前に。
地図を取り上げる前に。
弟が消える前に。
彼女が何度も何度も考えただろう、あり得なかった時間。
もし、あの時、もう少し早く追いついていたら。
もし、地図を燃やしていたら。
もし、水袋を隠していたら。
もし、怒鳴ってでも止めていたら。
そのすべてが、幕の向こうで叶っている。
アズィーザは震える手で、背中の小さな本を取り出した。
〈名も無き魔導書〉。
薄く、表紙と背だけが妙に厚い、収納型の魔導書。彼女がこれまで軽やかに使ってきた道具。物を頁の中へ封じ、保存する本。
だが、今それはただの便利道具には見えなかった。
本へ入れること。
保存すること。
所有すること。
記録と封印の境目。
セイは息を呑んだ。
「アズィーザ、何を」
「一度だけだ」
アズィーザは言った。
「一度だけ、開く」
「それで、どうするんですか」
「盗む」
その言葉は、怪盗らしい。
けれど、今の声は軽くなかった。
「あの記録を、盗む。ナジムが生きている版を、この本に封じる。外縁から引き出せれば、形にできるかもしれない。少なくとも、消える前に掴める」
エムは止めなかった。
ただ、冷静に言った。
「理論上、不可能ではない。〈名も無き魔導書〉の二次元封入構文を外縁記録へ接続すれば、一時的に断章を保存できる可能性がある。ただし、それはナジム本人ではなく、ナジムに紐づく可能性記録の複写となる」
「複写でも」
アズィーザの声が震えた。
「複写でも、声がするなら。笑うなら。あたしの名前を呼ぶなら」
セイは胸が痛くなった。
「アズィーザ」
「止めるなら、強く止めな」
彼女はセイを見た。
涙が浮かんでいた。
でも、目だけは鋭い。
「セイ。あんたに止める権利がないとは言わない。あるよ。あんたも、セシルを戻したいんだろ。ファティマを戻したいんだろ。だから、分かるはずだ」
「分かります」
「なら、言ってみな。戻せるかもしれない弟を、取り戻すなって」
セイは口を開いた。
言葉が出ない。
戻せるかもしれない。
その誘惑を、セイも知っている。
セシルの聖印を握るたびに、あの人を戻せたらと思う。ファティマの首輪が温かいだけで、そこへすがる。
それなのに、アズィーザだけに「だめだ」とは言えなかった。
セイの沈黙を見て、アズィーザは悲しそうに笑った。
「優しいねえ、坊や。こういう時、優しさは役に立たない」
「僕は……」
「いいよ。分かってる。あたしだって、あんたがセシルを戻そうとしたら、たぶん殴る。だけど、殴る手が震える。そういうもんだ」
アズィーザは〈名も無き魔導書〉を開いた。
頁は白紙だった。
しかし、幕の向こうのナジムに向けると、頁の中へ砂色の線が走り始めた。地図の線。名前の線。血縁の線。記憶の線。
ナジムの姿が、少しだけこちらへ近づく。
「姉さん」
アズィーザの頬を涙が落ちた。
「馬鹿だね、あんた」
彼女は笑おうとした。
「ほんとに、馬鹿だよ。帰ってくる道くらい、ちゃんと持ってな」
〈名も無き魔導書〉の頁が光を増す。
ナジムの輪郭が、幕から少し浮き上がった。
セイは見ていられなかった。
でも、目を逸らしてはいけないと思った。
これは、セイがこれから選ばなければならないことの先触れだ。
取り戻したい願い。
作り直せるかもしれない誘惑。
その前で、人がどれほど弱くなるのか。
アズィーザは震えながら、頁へ手を伸ばした。
その瞬間、彼女の首元の形見が強く鳴った。
金属板が、澄んだ音を立てた。
鈴ではない。
砂漠石と金貨の欠片がぶつかっただけの、小さな音。
だが、その音で、〈名も無き魔導書〉の光が揺らいだ。
アズィーザの手が止まる。
形見から、砂色の小さな光がこぼれた。
そこに、別の記録が浮かび上がる。
幕の向こうの、きれいなナジムではない。
砂まみれで、汗をかき、地図筒を抱えて、疲れた顔で笑うナジムだった。
場所は月牙の泊まり場の外れ。
出発の前夜だろう。
彼はアズィーザの形見――今、彼女が持っている紐飾りを手にしていた。
「姉さんが怒るから、これは置いていく」
記録の中のナジムは、小声で言った。
誰に話しているのか分からない。自分にか、砂漠神にか、月にか。
「本当は、一緒に持って行きたい。でも、もし俺が戻らなかったら、姉さんが俺のことを全部なかったことにするのは嫌だから」
アズィーザの顔から血の気が引いた。
「ナジム……?」
「姉さんは怒る。きっと怒る。俺の地図を燃やして、馬鹿って言う。でも、俺は行きたい。アウロの庭が本当にあるなら、消された人たちの名前が眠ってるなら、見たい。俺の足で」
ナジムは笑った。
少し困ったように。
「姉さんに止められて行かなかった俺も、どこかにはいるかもしれない。でも、それは俺じゃない。俺は、行く俺だ」
アズィーザの唇が震えた。
「そんなこと、言うんじゃないよ」
記録のナジムには聞こえない。
彼は形見を布に包み、宿の主人に預けるような仕草をした。
「姉さんがこれを持ってたら、俺が本当に生きてた証になる。作り話じゃない。地図の中の若者じゃない。砂漠で消えた誰かじゃない。ナジムだって、分かる」
アズィーザは形見を握りしめた。
幕の向こうでは、別のナジムがまだ呼んでいる。
姉さん。
こっちなら間に合ったよ。
この世界なら、俺は消えてない。
この世界なら、姉さんは泣かなくていい。
しかし、形見の記録にいるナジムは違う。
彼は生きていた。
砂漠へ行きたがり、姉に怒られると分かっていて、それでも自分で選んだ。怖かったかもしれない。愚かだったかもしれない。帰ってこられなかったかもしれない。
それでも、彼は彼の足で歩いた。
アズィーザの手から、力が抜けた。
〈名も無き魔導書〉の頁が閉じかける。
彼女はまだ迷っていた。
セイには分かった。
今なら、まだ開ける。
ナジムが生きている版を盗めるかもしれない。
作り直された弟でも、声は似ている。笑う。姉さんと呼ぶ。
アズィーザは唇を噛んだ。
血が滲みそうなほど強く。
それから、泣きながら笑った。
「ひどい弟だねえ」
声が震えている。
「最後の最後まで、姉の手を止めるなんてさ」
形見の光が、少しだけ強くなった。
アズィーザは〈名も無き魔導書〉を閉じた。
鈍い音がした。
幕の向こうのナジムが、遠ざかる。
姉さん。
声が薄れていく。
アズィーザは顔を歪めた。
今にも、もう一度本を開きそうだった。
だが、開かなかった。
両手で形見を握りしめ、膝をついた。
「取り戻したいよ」
彼女は言った。
それは、叫びではなかった。
砂漠で長く乾いていた涙が、ようやく水になったような声だった。
「今でもね。戻せるなら戻したい。ナジムが砂漠へ行かなかった世界があるなら、そこへ飛び込みたい。あたしが間に合ったことにしたい。あいつの地図を奪って、首根っこ掴んで、馬鹿って怒鳴って、二度と行かせたくない」
涙が砂色の床に落ちた。
その場所に、小さな波紋が広がる。
「だから、取り戻したいって願いがどれだけ危ないか、あたしは知ってる」
セイは動けなかった。
アズィーザは、形見を胸に押し当てる。
「戻したいって気持ちは、悪くない。悪くないんだよ、セイ。あたしは、それを悪だなんて言えない。言えるわけがない」
彼女は顔を上げた。
涙で濡れた目が、まっすぐセイを見る。
「でも、作り直したナジムを抱いたら、この形見の重みは消える」
セイは息を呑んだ。
「砂漠へ行くって決めたナジム。怖かったかもしれないナジム。馬鹿だったナジム。戻らなかったナジム。あたしを怒らせて、泣かせて、それでも自分の足で行ったナジム。その重みが、消える」
アズィーザは〈名も無き魔導書〉を抱え直した。
「それは、あいつを救うことじゃない。あたしが、あたしの痛みを消すために、都合のいい弟を盗むことだ」
セイの胸が痛んだ。
都合のいい弟。
その言葉は、そのままセイにも返ってくる。
都合のいいセシル。
禁書に触れず、ハナンを傷つけず、穏やかな司教のまま生きているセシル。
都合のいいファティマ。
崩壊せず、苦しまず、セイの相棒として笑ってくれるファティマ。
それを望む気持ちはある。
でも、それは本当にその人を取り戻すことなのか。
それとも、自分が痛まない形へ作り直すことなのか。
セイは鞄の中の薔薇の聖印へ手を当てた。
ひびの入った形見。
そのひびが、急に重くなる。
エムは沈黙していた。
白い頁を開こうとも、閉じようともしない。
ただ、アズィーザを見ている。
正史なら、ナジムを整えられるかもしれない。
外縁記録から、消えなかった弟を再配置できるかもしれない。
それでも、アズィーザは選ばなかった。
その選択を、エムはどう記録するのか。
セイは、それを思った。
アズィーザは立ち上がった。
涙を乱暴に拭う。
いつものように笑おうとして、うまくいかず、もう一度拭いた。
「まったく。泣くと砂がくっつくから嫌なんだ」
「アズィーザ」
「同情した顔をしたら、金貨一枚取るよ」
「してません」
「してた」
「少しだけ」
「じゃあ半額だ」
声は震えていたが、軽口は戻ってきていた。
その軽さが、余計に胸を打った。
アズィーザは光の幕を見る。
ナジムの姿は、まだ薄く残っている。
彼女は長く見つめた。
そして、静かに言った。
「ナジム」
幕の向こうの青年が、笑ったように見えた。
「忘れないよ。作り直さない。でも、忘れない」
その言葉に応えるように、形見が淡く光った。
幕のナジムは、砂粒へほどけていく。
完全に消えたわけではない。
むしろ、外縁の奥へ眠り直したように見えた。
アズィーザは最後まで目を逸らさなかった。
光の幕が閉じる。
道が再び現れる。
最果てへ続く地平線。
セイは、胸元の首輪に触れた。
「僕も、たぶん揺れます」
アズィーザは振り返った。
「知ってるよ」
「セシルさんを戻せるって言われたら。ファティマを完全にできるって言われたら。僕は、手を伸ばしてしまうかもしれません」
「その時は、名前を呼びな」
「それで止まらなかったら?」
アズィーザは、泣き腫らした目で笑った。
「殴る」
「やっぱり」
「ただし、今度は本気でね」
「痛そうです」
「痛みで戻ってこられるなら安いもんだ」
セイは少しだけ笑った。
笑ってから、ファティマなら「暴力反対、でもセイが暴走したら尻尾で叩く」と言いそうだと思った。
首輪が、ほんの少し温かくなる。
セイは目を閉じた。
「ファティマ」
返事はない。
でも、温かい。
まだ、火種は残っている。
エムが静かに口を開いた。
「砂漠の女」
「何だい、白いお姫様」
「妾は、そなたの選択を完全には理解できぬ」
「だろうね」
「だが、記録する価値はある」
アズィーザは少し驚いた顔をした。
エムは〈光天の書〉を開き、白い頁に一行を記した。
――アズィーザは、ナジムを作り直さなかった。
――形見と名を持ち、歩くことを選んだ。
アズィーザはその文字を見て、しばらく黙っていた。
やがて、照れたように顔を背ける。
「変な記録だね。もうちょっと美人に書いておくれよ」
「外見記録ではない」
「融通が利かないねえ」
「正確であることは美徳じゃ」
「それで、あたしが美人だって正確に書く気は?」
「ない」
「けち」
そのやり取りは、少しだけいつもの空気を取り戻した。
けれど、戻ったわけではない。
アズィーザの目は赤い。
手はまだ形見を離さない。
それでいいのだと、セイは思った。
泣いたあとに、完全に平気な顔をする必要はない。
取り戻したい願いは消えない。
それを抱えたまま、歩く。
それがアズィーザの選択だった。
セイは、もう一度胸元の首輪と鞄の中の聖印に触れた。
セシルを戻したい。
ファティマを取り戻したい。
その願いは、なくならない。
なくならないまま、作り直さない選択ができるのか。
まだ分からない。
けれど、目の前で一人の大人が、泣きながらその選択をした。
それは、これから最果てでセイが立つ場所へ続く、確かな灯だった。
アズィーザは〈名も無き魔導書〉を背中に戻し、形見を首元へしまった。
「行こうか」
彼女は言った。
「砂漠は待ってくれないし、神様も本も、こっちの涙が乾くまで休んでくれるほど親切じゃない」
「歩けますか」
セイが聞くと、彼女は鼻で笑った。
「歩けるよ。倒れたら、ナジムに笑われる」
セイは頷いた。
エムが白い頁を閉じる。
最果てへ続く地平線が、また遠くに伸びた。
その先には、〈大きな神〉がいる。
失った世界を取り戻そうとして、創造と修正を繰り返した者。
きっと彼も、取り戻したかったのだ。
今のアズィーザのように。
今のセイのように。
だからこそ、恐ろしい。
セイは歩き出した。
戻したいという願いを否定しないまま。
けれど、作り直さない選択をしたアズィーザの背中を見ながら。
砂色の地平線の向こうで、頁が一枚、静かにめくれた。




