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第十五章 〈大きな神〉

 白い道の先にいたものは、巨大ではなかった。

 神話で語られるような、山より大きな身体も、空を覆う手も、星を抱く翼もなかった。

 そこにいたのは、旅人だった。

 擦り切れた外套をまとい、足元に古い鞄を置き、白い地平線の果てに置かれた椅子へ腰かけている。顔はよく見えない。少年にも見える。老人にも見える。石の神像にも、頁をめくる読者にも、眠れない夜に机へ向かう創造主にも見える。見るたびに輪郭が変わる。

 けれど、そのどれもが疲れていた。

 長い長い旅の果てに、もう立ち上がる力もないのに、それでも目の前の頁から手を離せない者の疲れだった。

 セイは息を止めた。

 あれが、〈大きな神〉。

 ノースを創ったと語られてきた存在。外なる宇宙から来て、水に満ちた青い星を選び、生命の粉を蒔き、種族と神々と歴史を作ったとされる創造神。

 だが、目の前にいるものは、神というよりも、失敗した旅人に見えた。

 ファティマが隣で小さく震える。彼女の猫耳の先が細かな文字へほどけ、また戻る。首輪には六つの印が宿っているが、この白い地平では、その光すら頼りなく見えた。アズィーザは首元の形見を押さえ、エムは〈光天の書〉を胸に抱いている。誰もすぐには言葉を出せなかった。

 旅人は、ゆっくり顔を上げた。

 その顔には目があった。

 片方はセイと同じ黒い目に見えた。もう片方は、ノースの空のような青にも、古い頁の黄ばみにも見えた。

「来たんだね」

 声は、遠くから聞こえた。

 同時に、すぐ耳元で囁かれたようでもあった。

「ずいぶん遠回りをした」

 エムが一歩前に出た。

「〈大きな神〉」

 その名を呼んだ瞬間、白い地平線が揺れた。

 巨大な影が、空に映る。神話の中の姿だ。世界を抱くほど大きな手。海を掬う指。山脈を線のようになぞる爪。

 だが、その影はすぐに薄れ、椅子に座る疲れた旅人へ戻った。

「その名で呼ばれるのは、あまり好きではない」

「なら、何と呼べばよい」

 エムの声は硬い。

 旅人は少し考えるように、白い空を見上げた。

「昔は、名前があった気がする。でも、長く呼ばれなかった名は、世界の外で擦り切れる。神と呼ばれ続ければ、神の形へ寄ってしまう。創造主と呼ばれれば、創造主の責任だけが残る。読者と呼ばれれば、読んでいるだけだった頃を思い出す」

 彼は、セイを見た。

「君なら、分かるんじゃないかな」

 セイの胸が、ひやりとした。

 見透かされたようだった。

 読者。

 現実から逃げるように本を読み、誰も知らない世界へ行きたいと願っていた自分。

 セイは言葉を探したが、見つからなかった。

 旅人は、ゆっくり手を動かした。

 白い地平線の上に、一つの世界が浮かぶ。

 青い星だった。

 ノースではない。

 だが、どこか似ている。緑の森があり、光る川があり、小さな町があり、人々が暮らしている。風が吹き、誰かが笑い、誰かが歌っている。

 その世界を見た瞬間、旅人の顔がかすかにやわらいだ。

「私は、世界を愛した」

 静かな声だった。

「最初に出会った世界に、救われたんだ」

 景色が変わる。

 若い旅人がいる。

 今のセイとそう変わらない年頃にも見える。彼はどこからか流れ着き、知らない世界の草原に倒れている。そこへ、誰かが手を差し伸べる。異なる種族の少女。古い町の老人。小さな動物。誰だったのか、輪郭は曖昧だ。だが、彼がそこで笑ったことだけは分かった。

「その世界は、私を拒まなかった。私は、そこにいていいのだと思えた。初めて、自分の居場所を得たような気がした」

 セイは何も言えなかった。

 それは、あまりにも自分の願いに似ていた。

 ノースへ来たばかりの頃、セイもそう思った。ここなら、自分は歩けるかもしれない。ここなら、誰かと話せるかもしれない。ここなら、自分を拒まないかもしれない。

 旅人は青い星を見つめ続ける。

「だが、その世界は失われた」

 景色が崩れた。

 理由は分からない。戦争かもしれない。災害かもしれない。神の失敗か、世界自身の寿命か、外宇宙の波かもしれない。ただ、町が沈み、森が白くなり、人々の名がほどけ、最後には世界そのものが開いた頁のように破れていく。

 旅人は手を伸ばした。

 届かなかった。

「もう一度、会いたかった」

 その一言には、神の威厳などなかった。

 ただの喪失だった。

「だから、作った」

 青い星の残骸の横に、別の世界が生まれる。

 水に満ちた星。森。獣。鳥。人。花から生まれる者。翼を持つ者。地に根を下ろす者。歌う者。祈る者。

 ノース。

 しかし、最初のノースはセイの知るノースとは違っていた。種族は少なく、神々の形も曖昧で、町もまだない。

「最初は、似せようとした。救われた世界へ。私を受け入れてくれた世界へ。けれど、同じにはならなかった」

 旅人は手を振る。

 ノースが変わる。

 種族が増える。町ができる。火界王アウロが置かれ、風界王ゼークが空を支え、土界王ディティアが大地を固め、水界王イズムが記憶の流れを作り、光神ヒリカが観測を照らし、闇神イーマが隠されたものを眠らせる。

 美しい世界だった。

 けれど、次の瞬間、矛盾が生まれる。

 ある種族が増えすぎる。ある町が神話と食い違う。ある神格が祈られすぎて歪む。ある歴史が別の歴史と重なる。消したはずの名が砂の下から出てくる。

 旅人は、修正した。

 地形を変える。

 町を沈める。

 種族の起源を書き直す。

 神々の役割を入れ替える。

 不都合な記録を白くする。

 それでも、同じ世界は戻らない。

「何度も作った」

 旅人の声は淡々としていた。

 淡々としているからこそ、怖かった。

「何度も修正した。今度こそ、と思った。今度こそ、あの世界に近づくはずだと思った。けれど、違った。どうしても違う。少しずつ、別のものになる」

 白い地平に、無数のノースが浮かぶ。

 セイたちが見てきた世界版の残骸。

 ハナンがない世界。

 セシルが生きている代わりにアリアが消えた世界。

 クラウディアが生まれなかったゼフィ=ラウ。

 完全な魔本としてのファティマ。

 ナジムが生きている世界。

 セイが来なかった雨の部屋。

 それらの上に、旅人の手が何度も伸びる。修正し、消し、書き足し、塗り替える。

 悪意はなかった。

 それが、何より恐ろしかった。

 この存在は、誰かを苦しめようとしたのではない。

 救いたかった。

 取り戻したかった。

 もう一度、会いたかった。

 その願いで、世界を傷だらけにした。

 セイは吐き気をこらえた。

「あなたは……」

 声が震える。

「自分が何をしているのか、分かっていたんですか」

 旅人はセイを見た。

「最初は、分かっていなかった」

 正直な答えだった。

「途中からは、分かっていた。だが、やめられなかった。次こそは、と思った。あと少しで、あの世界が戻る気がした。次の修正で、次の創造で、次の頁で」

 アズィーザが低く言った。

「砂漠の蜃気楼みたいだね」

 旅人は、彼女を見た。

「君も見ただろう」

 アズィーザの表情が固まる。

「弟が戻る世界を」

「……ああ、見たよ」

「手を伸ばさなかった」

「伸ばしかけたさ」

 アズィーザの声は荒くなった。

「伸ばしかけて、泣きながら閉じた。あんたみたいになりたくなかったからね」

 旅人は怒らなかった。

 むしろ、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「強いね」

「強くない」

 アズィーザは即座に言った。

「強くないから、形見を握ってる。忘れたら、あたしもあんたと同じことをするかもしれないから」

 旅人はうなずいた。

「そうだ。忘れないものは重い。私は、その重さに耐えられなかった」

 セイは胸元に手を当てる。

 ファティマの首輪。

 鞄の中のセシルの聖印。

 それぞれが重い。

 重いから、手放したくなる。

 作り直したくなる。

 旅人はセイへ手を伸ばした。

 手のひらの上に、ひとつの本が現れる。

 本、というには大きすぎた。

 表紙はなかった。

 あるのは、開かれた世界そのものだった。頁の片側にはノースの地図、もう片側には白い余白。頁の端には海が流れ、文字の間から森が生え、句読点のように町の灯りが点る。

 〈創造の書〉。

 その名を、誰も口にしていないのに、全員が理解した。

 ファティマが震えた。

 彼女の輪郭が少しほどける。だが、すぐに首輪の六つの印が光り、彼女を支えた。エムの〈光天の書〉は、表紙の中で小さく鳴る。アズィーザの形見も、砂漠石の奥で低く響いた。

 旅人は言った。

「これを使えば、ノースを救える」

 白い余白に、いくつもの可能性が浮かぶ。

 ファティマが完全になる。

 苦しみも欠落もなく、大魔導師ファティマの残響に呑まれず、ノースの記録を抱えても壊れない。少女として笑い、本として知り、セイの隣を歩ける。

 セイの胸が強く揺れた。

 ファティマが、息を呑む。

 「ボク……」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 次に、セシルが現れる。

 崩れる前の聖堂。禁書に触れる前の彼。セイの言葉を聞き、踏みとどまるセシル。ハナンの人々は彼の名を忘れない。アリアは泣かない。白と赤の薔薇は、墓標ではなく祝福として咲く。

 セイは鞄の中の聖印へ手を伸ばしそうになった。

 次に、ナジム。

 砂漠から戻ってくる青年。アズィーザに殴られ、泣かれ、笑われ、形見ではなく本人がそこにいる。

 アズィーザの呼吸が止まる。

 彼女は歯を食いしばった。

 次に、クラウディア。

 黒い羽を隠さず生まれ、最初から第一皇女として記録される世界。ナディールは後悔しない。都市は姉を消さない。黒い羽は不吉ではなく、夜空の祝福として歌われる。

 次に、ハナン。

 花人とノエルの差別が最初から起こらない世界。奴隷の歴史も、受難の黙示も、復讐の記憶もない。

 次に、ゼフィ=ラウ。

 地上と空が最初から断絶しない都市。ウィンディの機械は命がけの避難路ではなく、祭りの日の遊覧機として飛んでいる。

 次に、砂漠。

 消えた町も、名前を忘れられた者も、外縁へ落ちた旅人もいない。

 それらは、美しかった。

 あまりにも美しく、セイは目を逸らせなかった。

「すべて修正できる」

 旅人の声は優しかった。

「苦しみを減らせる。矛盾を整えられる。救えなかった者を救える。傷ついた者を傷つかなかったことにできる。君が見てきた悲しみを、もっとよい形へ変えられる」

 セイは震えていた。

 ノースを愛している。

 そのことを、もう否定できなかった。

 草原の風も、ハナンの薔薇も、ゼフィ=ラウの空も、砂漠の夜も、アウロの黄金も、神々の不完全さも、アズィーザの軽口も、エムの硬さも、ファティマの笑いも。

 全部、愛してしまった。

 だからこそ、救いたい。

 傷のない世界にしたい。

 失った人を戻したい。

 ファティマを完全にしたい。

 その願いが、胸の奥から湧き上がってくる。

 旅人は、さらに言った。

「君自身も、ここで居場所を得られる」

 セイの身体が固まった。

 白い余白に、別のノースが映る。

 そこに、セイがいる。

 学校へ行けなくなった少年ではない。雨の日に外へ出て、人目を避ける少年でもない。ノースで必要とされ、名前を呼ばれ、旅の仲間に囲まれているセイ。ハナンでは司教に感謝され、ゼフィ=ラウでは皇女に招かれ、砂漠ではアズィーザが笑い、ファティマは隣で元気に尻尾を振っている。

 現代日本の部屋は遠い。

 病院も、学校も、閉じたカーテンも、雨の日にしか外へ出られなかった自分も、全部遠い。

 ノースが、セイを受け入れている。

 誰も拒まない。

 誰も置いていかない。

 誰も「来なくていい」と言わない。

 旅人は、静かに告げた。

「君なら分かるはずだ」

 その声は、刃のように優しかった。

「拒まれた世界より、自分を受け入れる世界が欲しいと願ったことがあるだろう」

 セイの胸が、深く裂けた。

 そこを突かれたら、立っていられない。

 ノースへ来る前の自分。

 この世界に見捨てられたと思っていた自分。

 誰も知らない世界なら、自分にも役割があるかもしれないと願った自分。

 それは、消えていない。

 旅をして、傷ついて、誰かを見届けることを覚えても、その願いはまだ心の底にあった。

 自分を受け入れてくれる世界が欲しい。

 そう願ったことがある。

 何度もある。

 セイは息ができなかった。

 ファティマが、隣でセイを見ている。

 何も言わない。

 来いとも、やめてとも言わない。

 ただ、見ている。

 セイが自分で選ぶしかないのだと、知っているから。

 アズィーザも黙っていた。

 彼女は形見を握っている。ナジムを作り直さなかった手で、ただ立っている。

 エムは〈光天の書〉を抱いている。白い頁は開かれていない。

 旅人は、責めない。

 急かさない。

 ただ、〈創造の書〉を差し出している。

「私は、君を止めない」

 彼は言った。

「むしろ、君になら託せるかもしれないと思っている」

「僕に……?」

「君は痛みを見た。喪失を知った。名前を消されることを恐れた。誰かを所有しそうになる怖さも知っている。だから、私よりうまくできるかもしれない」

 その言葉は、また別の形の誘惑だった。

 自分なら、〈大きな神〉よりうまくやれるかもしれない。

 もっと優しく、もっと慎重に、もっと誰も傷つけずに。

 ファティマを完全にし、セシルを救い、ナジムを戻し、クラウディアを傷つけず、ハナンとゼフィ=ラウと砂漠を整え、なおかつ誰も消さずに済む方法を見つけられるかもしれない。

 そう思いたくなる。

 旅人は、セイの迷いを見ていた。

 自分もかつて同じように迷ったからだろう。

「開け、創造の書を」

 声が、白い地平線に響いた。

「君の望むノースを書けばよい」

 〈創造の書〉の頁が開く。

 白い余白が、セイの前へ差し出される。

 そこにはまだ何も書かれていない。

 だから、何でも書けそうだった。

 セイの手が、わずかに動いた。

 ファティマが息を呑む。

 アズィーザが一歩踏み出しかけ、止まる。

 エムの指が〈光天の書〉の表紙を強く押さえる。

 セイは自分の手を見た。

 震えている。

 この手で、セシルを救えるかもしれない。

 ファティマを完全にできるかもしれない。

 アズィーザの涙を消せるかもしれない。

 クラウディアが傷つかなかった都市を作れるかもしれない。

 自分が拒まれない世界を、作れるかもしれない。

 その誘惑は、あまりにも甘く、あまりにも優しかった。

 だからこそ、恐ろしかった。

 セイはまだ答えを持っていない。

 ただ、目の前の疲れ果てた旅人が、決して遠い怪物ではないことだけは分かった。

 彼は、自分の未来かもしれない。

 ノースを愛し、失ったものを戻したいと願い、世界を自分の手で救えると思ったセイの、ひとつの行き先。

 白い余白が、セイを待っている。

 世界が、頁として開かれている。

 〈大きな神〉は、静かに言った。

「さあ、セイ。君は何を書く?」

 その問いが、最果ての地に落ちた。

 誰も、まだ動けなかった。

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