第九章 光天の書の提案
金の首輪は、セイの手の中でまだ温かかった。
ほんの少しだけ。
それは命の温度というには弱く、記録の残り火というには痛ましい温度だった。指先で包めば消えてしまいそうで、握りしめれば壊してしまいそうで、セイはどう持てばいいのか分からなかった。
未完の中枢は、静かに回り続けている。
宙に浮いた頁が、ゆっくりと渦を描いていた。白い頁、焼けた頁、砂を含んだ頁、硝子のように透き通った頁。その一枚一枚に、誰かの名前や町の形や神話の断片が映っては消える。
ファティマは、そこへほどけていった。
消えたわけではない。
そう思いたかった。
でも、ここにいない。
セイの隣に、膝を抱えて文句を言う少女はいない。怖いときに「ご主人様」と呼び、怒ったときに尻尾を膨らませ、わざと明るい声で「大丈夫」と言おうとする相棒はいない。
床には、金の首輪だけが残っている。
セイはそれを両手で包み、動けずにいた。
アズィーザも黙っていた。
彼女は少し離れた場所に立ち、首元の紐飾りを握っている。ナジムの形見。いつもなら、沈黙をごまかすように軽口を叩くはずだった。だが今は、何も言わない。金の首輪を見つめる目は、弟の外套の切れ端を見つけた時と同じだった。
エムだけが、まっすぐ立っていた。
白銀の髪は乱れず、白い衣にも砂ひとつついていない。〈光天の書〉を抱えた姿は、未完の中枢の混沌の中で、ひどく整って見えた。
それが、かえって怖かった。
この場にあるものはすべて揺らいでいる。ファティマも、セイも、アズィーザも、記録も、名前も、世界そのものも。
なのに、エムだけが揺らがない。
いや、揺らいでいても、揺らぎを見せまいとしている。
「泣いている暇はない」
エムが言った。
冷たい声だった。
セイは顔を上げる。
「ファティマが……」
「知っておる」
「知ってるなら」
言いかけて、声が詰まった。
何を言えばいいのか分からない。
助けてください。戻してください。どうすればいいんですか。
どの言葉も、喉の奥で壊れてしまう。
エムは〈光天の書〉を開いた。
白い頁が、未完の中枢の中で眩しく光る。宙に浮かぶ破れた頁たちが、その光を避けるように少しだけ遠ざかった。
「見よ」
彼女がそう言うと、白い頁の上に、ひとつの輪郭が現れた。
ファティマだった。
ただし、少女の姿ではない。
記録としてのファティマ。
細い線で描かれた身体。猫耳、尾、金の首輪、左右異色の瞳。それらの横に、無数の注釈が浮かんでいる。
分類不能。
魔本精霊。
記録人格。
大魔導師ファティマ残響。
猫型使い魔構文との接続痕。
ノース地誌断片保持。
外部読者セイとの旅程記録。
自己名保持、不安定。
感情反応、魔本本来機能外。
セイは息を呑んだ。
それは、ファティマを解剖しているように見えた。
笑ったことも、怖がったことも、旅をしたことも、全部が項目に分けられて、白い頁の上に並べられている。
「やめてください」
「目を逸らすな」
エムの声は鋭かった。
「おまえは、彼女を救いたいのであろう。ならば、彼女がどれほど破損しているかを見よ」
白い頁がめくられる。
次に現れたのは、〈ファティマの書〉そのものの構造だった。
大魔導師ファティマ人格写本。
不完全。
記憶層、焼損。
ノース地誌、欠落多数。
種族記録、重複。
神格記録、矛盾。
魔導体系、未整理。
消失都市記録、断片化。
外部読者との旅程により、新規感情記録発生。
魔本本来機能外の人格成長を確認。
セイは、白い文字を見つめた。
新規感情記録。
それは、ファティマが笑ったことだろうか。怒ったことだろうか。怖がったことだろうか。セイを相棒として見たことだろうか。
魔本本来機能外。
その言葉が、ひどく冷たかった。
「本来機能外って……」
「魔本は記録し、導き、構文へ接続する器じゃ」
エムは淡々と答えた。
「笑う必要はない。恐れる必要もない。尻尾の焦げを気にして怒る必要も、読者の沈んだ顔を見て無理に軽口を叩く必要もない」
「必要かどうかじゃない」
セイは首輪を握った。
「それが、ファティマだったんです」
「だから壊れたのじゃ」
エムの言葉は刃のようだった。
セイの胸を、まっすぐ切った。
「未完成の記録人格が、己の機能を越えて感情を持った。読者と旅をし、欠落を隠すために明るく振る舞い、己の輪郭を“相棒”という曖昧な関係へ預けた。その結果、アウロの基幹記録と接触した瞬間、自己分類が崩壊した」
「分類なんて」
「分類は必要じゃ」
エムは即座に言った。
「名を持つとは、分類されることでもある。何者か分からぬものは、世界の中で場所を持てぬ。場所を持てぬものは、やがて消える」
セイは言い返せなかった。
場所を持てない苦しさを、知らないわけではない。現代日本で、自分がどこにも戻れないように感じていた日々。学校にも、家にも、病院にも、自分の居場所が曖昧だった時間。
でも、分類されることだけが居場所なのか。
そう聞きたかった。
しかし、声が出ない。
エムはさらに頁をめくった。
今度は、セイの前にいくつもの光景が並んだ。
ハナン。
聖堂。
セシル。
混沌へ沈む白い衣。
次に、砂漠の中の隊商。
若い青年が笑っている。アズィーザによく似た目をしていた。ナジムだと、すぐに分かった。
さらに、ゼフィ=ラウの広場。
黒い羽を隠したクラウディア。公の記録から消された第一皇女。
そして、ファティマ。
ばらばらにほどけた頁。
白い光は、それらをひとつずつ照らした。
「壊れた本を、正しく清書することはできる」
エムが言った。
その声は、誘惑のようには聞こえなかった。
むしろ、処置を告げる医師のようだった。だからこそ、怖かった。
「〈光天の書〉を用いれば、ファティマの欠落を補正できる。大魔導師ファティマの人格写本を照合し、欠損した地誌を補い、重複した種族記録を統合し、矛盾した神格記録を整え、セイとの旅で生じた過剰な感情記録を安定化する」
「過剰な……」
セイは呟いた。
エムは止まらない。
「そうすれば、ファティマは崩壊しない。おまえの前に戻る。明るく、よく喋り、セイと呼び、あるいはご主人様と呼び、旅を続けられる」
セイの手が震えた。
戻る。
ファティマが戻る。
その言葉は、あまりにも強かった。
目の前の白い頁に、少女ファティマの姿が映る。
いつものように頬を膨らませ、耳をぴんと立てている。
「セイ、遅いよ」
幻のような声がした。
セイの胸が壊れそうになった。
「やめて」
自分でも驚くほど弱い声だった。
「やめてください」
「見たくないのか」
「見たいから、やめてほしいんです」
エムは、少しだけ目を細めた。
白い頁のファティマが消える。
次に、セシルの姿が浮かんだ。
崩れる前の聖堂。盲いた司教。穏やかな微笑。
「セシル・ローズの記録も、整理できる」
セイの息が止まった。
「彼は善良な司教であり、禁書に触れて町を危機へ導いた罪人でもある。記録は矛盾している。だが、正史補正により、彼を“禁書に触れかけたが救済された司教”として再配置することは可能じゃ。ハナンの喪失は軽減され、町の記憶も安定する。おまえの罪悪感も薄れるだろう」
セシルの幻が、セイを見た。
もしやり直せるなら、あなたはどうしますか。
夢の中で聞いた問いが、また胸に響く。
戻したい。
できるなら、戻したい。
セシルが禁書に呑まれず、聖堂が崩れず、ハナンの人々が彼を忘れず、アリアが泣かず、セイが星の槍を撃たずに済むなら。
でも。
それは、セシルが間違えたことを消すことになる。
救いたかった願いが消去へ変わったことも、最後に覚えていてほしいと言ったことも、薔薇の聖印の重みも。
セイは鞄の中の聖印に触れた。
指先に、ひびの感触があった。
そのひびは、消せるのかもしれない。
でも、消していいのか。
エムは、今度はアズィーザへ視線を向けた。
白い頁に、ナジムの名が浮かぶ。
いや、最初は空白だった。
隊商名簿の系譜に、一本だけ残された線。名前のない場所。
その空白へ、白い光が注がれる。
文字が現れた。
ナジム。
アズィーザの身体が震えた。
「やめな」
声は鋭かった。
しかし、彼女の目は頁から離れない。
白い頁の中で、若い青年が振り返った。
砂色の髪。アズィーザによく似た笑い方。肩から地図筒を下げ、片手に水袋を持っている。
「姉さん」
幻の声がした。
アズィーザの唇が、かすかに開いた。
声は出なかった。
エムは静かに言う。
「ナジムの記録も、完全ではない。砂漠の消失記録、アウロへの接触痕、記憶からの欠落。だが、空白から復元できる可能性はある。少なくとも、彼が砂漠へ消えなかった歴史を正史として再配置することはできるかもしれぬ」
「黙れ」
アズィーザの声は震えていた。
「それ以上、あいつの声で話すな」
「妾は事実を示している」
「事実じゃない。餌だ」
アズィーザは笑おうとした。
失敗した。
手が首元の形見を握りつぶしそうなほど強くなっている。
セイは、彼女がどれほど揺れているか分かった。
ナジムを戻せるかもしれない。
弟が砂漠へ消えなかったことにできるかもしれない。
隊商の人々が彼を忘れなかった世界。アズィーザが形見を持って歩かなくていい世界。
それを見せられて、揺れないはずがない。
アズィーザはいつも強い。砂漠の歩き方を知り、死者は戻らないと語り、形見は忘れないための重りだと教えてくれた。
でも、それは揺れないから言えたのではない。
揺れ続けてきたから、言えたのだ。
エムはさらに頁をめくる。
クラウディアが現れる。
黒い羽を隠さず、空中都市の広場に立つ姿。
次に、別のクラウディア。
最初から第一皇女として記録され、黒い羽を不吉と呼ばれなかった世界。ナディールが幼いころから姉様と呼び、王家の嘘がなかった世界。ゼフィ=ラウが落ちかけることもなく、黒翼風術は正統な構文として受け入れられている世界。
それは、美しかった。
あまりにも美しかった。
クラウディアが傷つかなかった世界。
ナディールが罪悪感を抱えなかった世界。
ウィンディが未完成の避難路を命がけで開かなくて済んだ世界。
「クラウディアの正史も整えられる」
エムは言った。
「黒い羽を最初から正統へ組み込めば、差別の歴史は軽減される。ナディールの後悔も、都市の混乱も、地上と空の断絶も、別の形へ調整できる」
セイの脳裏に、クラウディアの言葉が響いた。
あなたは、私を救ったわけではありません。
でも、私が飛ぶところを見ていました。
それで十分です。
あの現実を消してしまうのか。
クラウディアが自分の黒い羽で飛んだこと。ナディールが公の場で姉様と呼んだこと。ウィンディが未完成の機械で道を作ったこと。
差別も痛みもなかった世界は美しい。
けれど、その美しさのために、彼女たちが選び取った現実を消してしまうのか。
セイは頭が痛くなった。
エムの提案は、悪意ではなかった。
だから、怖い。
ファティマを安定させる。
セシルを救済された司教にする。
ナジムを砂漠へ消えなかった者にする。
クラウディアを最初から認められていた皇女にする。
ハナンの喪失を軽減する。
空中都市の制度を整える。
砂漠の忘却を補正する。
どれも、誰かを苦しみから遠ざける提案に見える。
だが、そのために何が消されるのか。
エムは、セイの沈黙を見て言った。
「正しく補正するとは、欠けたものを埋めることじゃ」
白い頁の光が強くなる。
「埋められぬものは、正史から外す。矛盾する断章は整理する。重複した歴史は統合する。過剰な痛みは、世界の安定を損なわぬ形へ再配置する」
「それは」
セイの声は震えた。
「それは、消すことじゃないんですか」
「消去ではない。補正じゃ」
「言葉が違うだけです」
セイは、ようやくエムを見た。
「セシルさんの間違いを“救済された司教”にするなら、セシルさんが自分の罪を知ったことはどこへ行くんですか。アリアさんが泣いたことは。僕が形見を持っている意味は」
エムは答えない。
「ナジムさんが砂漠へ消えなかったことにしたら、アズィーザが形見を持って歩いてきた時間はどうなるんですか。クラウディアが最初から傷つかなかったことにしたら、クラウディアが自分の羽で飛ぶと決めたことは、どこへ行くんですか」
白い頁が、わずかに揺れる。
セイは首輪を握った。
「ファティマを安定した記録人格にするなら、怖がって、分からなくなって、それでも“嘘じゃないって言って”って叫んだファティマは、どこへ行くんですか」
エムは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「不安定な断章として、奥へ退く」
「それを、消すって言うんじゃないですか」
声が震えた。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からなかった。
エムの瞳が冷たく光る。
「では問う、セイ」
初めて、彼女は名前を呼んだ。
その声には、試験者の厳しさがあった。
「おまえは、ファティマをこのまま崩壊させるのか」
セイは息を呑む。
「セシルの形見を握りしめ、戻したいと願いながら、戻せるかもしれぬ道を拒むのか。アズィーザが弟の名を取り戻せる可能性を、見ぬふりするのか。クラウディアが傷つかなかった世界を、痛みがあったから尊いなどと言って切り捨てるのか」
「切り捨てるんじゃない」
「ならば、何じゃ」
エムの声が強くなる。
「欠けた記録を残せば、世界は歪む。痛みをそのまま残せば、誰かはまた傷つく。矛盾を抱えれば、次の崩壊を招く。妾の書は、それを整えることができる」
彼女は白い頁を掲げた。
「壊れた本を、正しく清書することはできる」
未完の中枢が静まり返った。
頁の渦も、猫型使い魔の影も、大魔導師ファティマの残留記録も、みな沈黙しているように見えた。
セイは何も答えられない。
ファティマを救いたい。
それは本当だ。
セシルを救いたかった。
それも本当だ。
ナジムが戻れば、アズィーザは救われるかもしれない。
クラウディアが傷つかなかった世界は、美しい。
ハナンの喪失も、空中都市の制度も、砂漠の忘却も、全部整えられるなら。
その誘惑は、あまりにも大きかった。
セイは首輪を握る。
温かさは、さらに弱くなっていた。
このままではファティマが消えるかもしれない。
なら、エムの提案を受け入れるべきなのか。
白く清書されたファティマ。
安定したファティマ。
苦しまないファティマ。
セイと旅を続けられるファティマ。
それを望んでしまう自分がいた。
同時に、そのファティマが最後に叫んだ「嘘じゃないって、いつか、ちゃんと言って」という言葉を、なかったことにしてしまう気がした。
アズィーザが、突然笑った。
乾いた笑いだった。
「きついねえ」
彼女はナジムの幻が浮かぶ頁を見つめている。
指が震えていた。
「その頁、ずるいよ。あいつの声まで似せるなんて、ずるすぎる」
「似せたのではない。残留記録から再現した」
「もっと悪い」
アズィーザは一歩、頁へ近づいた。
ナジムの幻が笑う。
姉さん。
ただそれだけの声で、アズィーザの顔が崩れそうになった。
「戻せるのかい」
彼女は聞いた。
セイは息を止める。
エムは答えた。
「完全ではない。だが、ナジムという名に紐づく記録を照合し、空白を補い、砂漠で消えなかった可能性を正史として再配置することはできる」
「つまり、本物かどうかは分からない」
「本物とは何を指す」
「嫌な返しだね」
アズィーザは笑った。
涙が浮かんでいた。
「戻るなら、戻したいよ。あたしは強くない。あいつが戻るなら、砂漠で消えなかったことになるなら、あたしは……」
彼女の声が詰まる。
セイは何も言えなかった。
アズィーザはずっと、死者は戻らないと言ってきた。形見は忘れないための重りだと教えてくれた。
でも、戻せるかもしれない頁を前にすれば、彼女も震える。
それでいいのだと思った。
揺れないことが強さではない。
揺れていることを認めながら、何を選ぶか。
たぶん、そこが大事なのだ。
だが、今はまだ誰も選べない。
エムは〈光天の書〉を閉じなかった。
白い光は、セイとアズィーザと、金の首輪と、ナジムの形見を照らし続けている。
「選べ」
エムは言った。
「正しく整えられた記録を拒むのか。欠けたまま崩れていく世界を抱くのか」
セイは首輪を見た。
その輪の内側に、小さな傷があった。
草原で出会った時からあった傷か。ハナンでついた傷か。ゼフィ=ラウで尻尾を焦がした騒動の時にぶつけたのか。分からない。
でも、その傷もファティマの一部だった。
消したくない。
苦しみも、全部そのまま残せばいいとは思わない。
でも、きれいに整えるために、誰かが泣いた跡を削るのは違う。
セイは、まだ答えられなかった。
だが、ひとつだけ分かった。
エムの光は、〈大きな神〉の修正と同じ方向を向いている。
悪意ではない。
美しく整えようとしている。
だからこそ、世界のひびを白く塗りつぶしてしまう。
「今は、選べません」
セイは言った。
エムの瞳が細くなる。
「逃げるのか」
「分からないまま選ぶ方が怖い」
「ファティマは崩れている」
「分かっています」
「時間はない」
「それでも」
セイは首輪を胸に当てた。
「ファティマが苦しんだことを、ファティマのためだと言って消す選択を、僕一人ではできません」
白い頁の光が強くなる。
エムは怒ったようには見えなかった。
ただ、セイを観測している。
未熟な観測者を。
迷い、答えられず、正しい提案すら受け取れない読者を。
だが、彼女はすぐに罰しなかった。
「ならば、進め」
「え?」
「この先に、四界王と陰陽神の痕跡がある。ノースの属性構文を管理した者たちの記録。神々が何者であったかを知れば、正史補正の意味も、欠けた記録の危うさも、より深く見えるだろう」
エムは白い頁を閉じた。
ファティマの幻、セシルの幻、ナジムの幻、クラウディアの別の可能性が消える。
アズィーザが短く息を吐いた。
だが、彼女の手はまだ震えていた。
「次の試験ってわけかい」
「試験ではない。必要な照合じゃ」
「言葉を変えるのが好きだね」
「そなたらほど曖昧にはしておらぬ」
アズィーザは苦笑した。
完全には戻っていない。
でも、軽口を返せる程度には立っている。
セイは彼女を見た。
「アズィーザ」
「大丈夫かって聞くなら、歩けるよ」
「歩けますか」
「歩ける」
彼女はナジムの形見を握り、幻が消えた白い空間を見た。
「ただ、今のは効いた。かなりね」
「僕もです」
「だろうね」
アズィーザはセイの手の中の首輪を見た。
「坊や。あんたが揺れたら、あたしも止める。あたしが揺れたら、あんたも止めな」
「止められるか、分かりません」
「分からないなら、名前を呼びな」
彼女は少しだけ笑った。
「それで足りない時は、尻尾で叩く役がいないから、あたしが殴る」
セイは、ほんの少しだけ笑った。
笑った瞬間、ファティマがいないことがまた痛くなった。
でも、その痛みは消したくなかった。
痛いから、彼女がいたことを覚えていられる。
エムは未完の中枢の奥へ向き直った。
白い光が道を作る。
火の印。
風の印。
土の印。
水の印。
光の印。
闇の印。
六つの印が、暗い空間に浮かび上がる。
「行くぞ、セイ」
エムは言った。
「おまえが正史を拒むなら、欠けた記録が何を抱えているのかを最後まで見よ」
セイは頷いた。
首輪を鞄の中ではなく、胸元に結びつけた。
形見としてではなく、戻るための杭として。
「ファティマ」
小さく呼ぶ。
記録の渦のどこかで、頁が一枚だけ震えた。
それが返事なのか、ただの残響なのか、まだ分からない。
分からないまま、セイは歩き出した。
白く整える光ではなく、欠けたまま残る痛みを抱えて。




