第八章 ファティマの崩壊
黒い石と白い頁でできた扉は、静かに開いた。
その向こうにあったのは、部屋ではなかった。
書庫でも、神殿でも、研究室でもない。
そこは、記録の底だった。
天井はない。けれど空もない。上を見上げると、無数の頁が暗闇の中に浮かんでいた。白い頁、焼けた頁、破れた頁、石板、金属板、硝子片、砂粒ほど小さな文字の束。それらが渦を巻き、ゆっくりと回転している。床は黒い鏡のように滑らかで、足を置くたび、そこに知らない地図が浮かび上がった。
ハナン。
ゼフィ=ラウ。
月牙の泊まり場。
砂の下に沈んだ町。
消された神殿。
白い空白だけが残った系譜。
名のない墓標。
世界のすべてが、ばらばらにほどけたまま、ここへ流れ込んでいるようだった。
セイは〈ファティマの書〉を抱えて立ち尽くした。
先ほどまで頁に浮かんでいた、ファティマの小さな文字は消えている。
ボクは、ボク?
その問いだけが、まだ胸の中に残っていた。
「ここが、未完の中枢かい」
アズィーザが低く呟いた。
彼女の声は、普段より小さい。軽口を言おうにも、言葉が記録の渦に吸い込まれてしまうような場所だった。
白い猫の影は、黒い床の中央で止まった。
紅と金の瞳で、扉の向こうではなく、二人の背後を見ている。
セイも振り返った。
開いた扉の外、薄い白銀の光が差し込んでいた。
そこに、エムが立っていた。
白銀の髪。左右で色の違う瞳。腕には〈光天の書〉。その光はアウロの黄金とも、〈ファティマの書〉の柔らかい金色とも違う。もっと冷たく、整った、正史の光だった。
そして、彼女の隣に、ファティマがいた。
セイは息を呑んだ。
猫耳と尾を持つ少女。砂にまみれた外套。金の首輪。紅と金の左右異色の瞳。
ファティマだ。
ワームに呑まれる直前、砂の遺跡で動けなくなっていたファティマ。セイが何度も呼んだ相棒。
「ファティマ!」
セイは駆け寄ろうとした。
だが、エムが白い槍のような光で床を叩いた。
セイの足元に、光の線が走る。
「近づくな」
「どうして!」
「今のこの断章に、無造作に触れるな。おまえの呼び声で形を保っているが、同時に、おまえの願いに縛られかねぬ」
セイは止まった。
ファティマは立っている。けれど、その様子はおかしかった。
瞳の焦点が定まっていない。耳は動かず、尾も力なく垂れている。いつもならセイを見つけた瞬間、怖かったとか、遅いとか、砂まみれだとか、何かしら言うはずだった。
今は、何も言わない。
「エム、ファティマを……」
「保護した、と言えば聞こえはよいな」
エムは淡々と言った。
「砂の上に放置すれば、ワームの防衛構文と猫型使い魔の認証に分解されていた。妾の〈光天の書〉で外殻を固定し、記録経路をたどってここまで連れてきた」
「ありがとう」
セイは言った。
エムは少しだけ眉を動かした。
「礼を言うには早い。壊れた本が壊れた場所へ戻っただけじゃ」
ファティマの肩がぴくりと震えた。
セイはエムを見た。
「その言い方は」
「では、言い換えよう」
エムは〈光天の書〉を開いた。
白い頁が冷たい光を放つ。
「未完成の記録人格が、発生源に帰還した。ここから先、彼女の自己名保持は保証できぬ」
ファティマがゆっくり顔を上げた。
その瞳が、セイを見た。
瞬間、セイはほっとしそうになった。
だが、その目の奥にあるものは、いつものファティマではなかった。
紅と金の瞳の中で、いくつもの景色が流れている。
砂漠。
黄金都市。
白い猫。
燃える書庫。
花の都。
空中都市。
知らない町。
知らない種族。
消される地図。
白く塗り潰される名前。
大きな神の手。
ファティマの口が動いた。
「ここ、知ってる」
声は、ファティマのものだった。
けれど、すぐに別の声が重なる。
「ここは、わたしが閉じた場所」
大魔導師ファティマの声。
セイの背筋が冷たくなる。
ファティマは頭を押さえた。
「違う。ボクは知らない。知ってるけど、知らない。ここ、初めて。初めてなのに、道が分かる。机の場所も、猫の数も、どの棚が燃えたかも、誰が泣いたかも、全部――」
彼女の足元に、文字が浮かんだ。
黒い床に、白い文字。
アウロ外周水路。
南写本師街。
第七書庫。
猫型使い魔、第二群。
修正履歴、地形改稿。
存在抹消、町名未確定。
種族再分類。
神話補正。
ファティマは悲鳴を上げた。
その瞬間、未完の中枢全体が動いた。
宙に浮かぶ頁が一斉にめくれ、記録の渦がファティマへ流れ込む。
セイは見た。
それは光ではなかった。
文字だった。
無数の文字。地名。人名。種族名。神名。年月。消去命令。修正履歴。観測者記録。白く塗られた空白。焼け焦げた頁。世界の傷。
それらが、滝のようにファティマへ降り注いだ。
「やめろ!」
セイは叫んだ。
駆け寄ろうとする。
エムが腕を掴んだ。
「触れるなと言った」
「でも、ファティマが!」
「おまえが今抱きしめれば、彼女はおまえの呼ぶ形へ逃げ込む」
「それの何が悪いんですか!」
セイは思わず叫んだ。
「怖がってるんです! 苦しんでるんです! だったら、僕のところに戻ってきてくれれば――」
言いかけて、言葉が止まった。
僕のところに。
その言葉が、胸の中で重く響いた。
僕の相棒。
僕が拾った猫。
僕をノースへ連れてきたファティマ。
僕の隣で笑ってくれた少女。
そう思うことは、間違いではないはずだった。
それなのに、その言葉は今、鎖のようにも聞こえた。
ファティマが苦しみから逃げるためにセイの呼ぶ形へ戻る。
それは救いなのか。
それとも、ファティマを「セイの相棒」という形に閉じ込めることなのか。
ファティマは膝をついた。
髪が文字列のようにほどけ、尾の輪郭が頁の端のように揺れる。金の首輪が強く光り、そのコインに刻まれた文字が次々と変わっていく。
「ボクは誰?」
彼女は言った。
声が何重にも重なる。
「セイが拾った猫?」
足元に、雨の日の路地が浮かぶ。
段ボール箱。濡れた仔猫。紅と金の瞳。セイの手。
「〈ファティマの書〉?」
次に、黒い表紙と金具。開かれる頁。魔導構文。ライラの光。
「大魔導師ファティマ?」
砂漠の魔女の姿。燃える書庫。世界を書き写す筆。
「それとも、ノースそのもの?」
地図が広がる。町が消え、種族が置き換わり、神話が書き直され、大きな神の手が空白を押し広げる。
ファティマは両手で頭を抱えた。
「分からない。ボク、分からない。どれもボクみたいで、どれもボクじゃない。セイ、ボクは誰? ねえ、セイ、答えてよ」
セイは一歩踏み出した。
エムの手が離れた。止めるのをやめたわけではない。ただ、ここから先はセイが選ぶしかないと判断したのだろう。
セイはファティマの前に膝をついた。
触れたい。抱きしめたい。もう大丈夫だと言いたい。
けれど、何が大丈夫なのか分からない。
「ファティマ」
名前を呼ぶ。
ファティマの瞳が揺れた。
「それは、どのファティマ?」
セイは息を詰めた。
「僕と旅したファティマ」
言った瞬間、ファティマの顔が歪んだ。
「じゃあ、それ以外のボクは?」
「え……」
「大魔導師の残響は、いらない? ノースの記録は、いらない? 猫型使い魔の記憶は、いらない? 消された町の名前を覚えてるボクは、セイの相棒じゃない?」
「違う、そうじゃない」
「じゃあ何?」
ファティマは泣いていた。
涙が頬を伝い、落ちた場所で小さな文字になる。
草原。
ハナン。
ゼフィ=ラウ。
アウロ。
セイ。
ご主人様。
ファティマ。
それらが床の上でにじみ、混ざっていく。
「ボクが本なら、ボクが笑ったことも嘘なの?」
セイの胸が痛む。
設定資料の中の言葉ではなく、目の前の少女の声として、その問いが突き刺さった。
「ご主人様と旅したことも、ただの記録なの? セイが怖い時に、ボクも怖かったことも、尻尾が焦げて怒ったことも、クラウディアの羽をかっこいいって思ったことも、砂漠で耳が蒸れて嫌だったことも、全部、世界の記録がそう振る舞っただけ?」
「違う」
セイは反射的に言った。
ファティマの顔が少しだけ上がる。
だが、セイはそこで止まった。
違うと言いたい。
けれど、どう違うのか。
彼女が本であることは、たぶん本当だ。
彼女が記録人格であることも、本当だ。
大魔導師ファティマの残響を抱えていることも、ノースの外部記憶であることも、本当かもしれない。
なら、笑ったことだけを本ではないと言えるのか。
セイが大事にしたい彼女だけを切り出して、「これが本物」と言うことはできるのか。
それは、ファティマの他の部分を消すことではないのか。
答えられなかった。
セイの沈黙を見て、ファティマは笑った。
泣きながら、笑った。
「ほら。答えられない」
「ファティマ、僕は」
「答えられないなら、抱きしめないで」
セイの手が止まった。
いつの間にか、彼は手を伸ばしていた。
ファティマはその手を見て、首を振った。
「今、抱きしめられたら、たぶん安心する。セイの相棒でいいって思える。ご主人様の本でいいって思える。セイが呼んでくれるなら、ボクはそこに戻れる。戻りたい。戻りたいよ」
声が震える。
「でも、それって、ボクを閉じ込めることじゃないの?」
セイは動けなかった。
エムが遠くで〈光天の書〉を閉じた音がした。
アズィーザも黙っている。普段なら何か言うはずの彼女が、今は一言も挟まない。ナジムを取り戻したい願いを抱える彼女には、ファティマの問いが他人事ではないのだろう。
ファティマは、震える手で自分の首輪に触れた。
「ボクはご主人様のものだよ。……そう言ったら、ご主人様は安心する?」
セイの胸が締めつけられた。
その言葉は、昔なら冗談になったかもしれない。
草原で、町で、空の都で、ファティマが照れ隠しのように言えば、セイは「やめて」と困った顔をしただろう。
でも今は違う。
ご主人様。
それはもう、ただの呼び方ではなかった。
拾った者と拾われた者。開いた者と開かれた本。読む者と読まれる者。所有する者と所有される者。
セイは、言わなければならないと思った。
君は僕のものじゃない。
そう言えばいい。
けれど、それを言うことも怖かった。
君は僕のものじゃない、と言えば、手放すことになるのではないか。ファティマが遠くへ行ってしまうのではないか。自分の隣から、相棒が消えてしまうのではないか。
失いたくない。
その気持ちは、喉元までせり上がった。
ファティマを失いたくない。
ファティマがいなければ、ノースでの自分は空っぽになる。
草原で自分を呼んだ声。
ハナンで隣にいたぬくもり。
ゼフィ=ラウで一緒に怖がった記憶。
砂漠で耳が蒸れると文句を言った声。
それらを失いたくない。
でも、失いたくないからといって、彼女を自分の形へ縛っていいのか。
セイの手は、空中で震えたまま止まった。
「セイ」
ファティマが言った。
ご主人様ではなかった。
「ボクを閉じ込めないで」
その言葉で、セイの目に涙が浮かんだ。
ファティマは立ち上がろうとした。
しかし、記録の渦がまた彼女へ流れ込む。
大魔導師ファティマの声。
猫型使い魔の記憶。
ノースの地図。
消された町。
知らない人々の名前。
〈大きな神〉の修正履歴。
それらが一気に彼女の中で重なった。
「第一修正、地形再配置」
ファティマの口が勝手に言葉を紡ぐ。
「第二修正、種族役割再定義。第三修正、神格配置調整。第四修正、失敗都市封鎖。第五修正、記憶補正。第六――」
「やめて」
彼女自身の声が割り込む。
「やめて、読まないで、ボクの口で読まないで!」
床に浮かぶ地図が広がる。
セイの足元に、花の都の記録が現れた。
ハナン。
その上に別の町名。さらに別の町名。白く削れた跡。セシル・ローズの名が一瞬浮かび、消えかける。
セイは思わず聖印に手を当てた。
次に、空中都市が浮かぶ。
ゼフィ=ラウ。
クラウディアの名が、一度白く消され、ナディールの声で再び刻まれる。
さらに砂漠。
ナジムの名が、線だけを残して空白になる。アズィーザが息を呑む。
すべてが、ファティマの中を通っていた。
世界の傷が、彼女の身体を通って読まれている。
ファティマの輪郭が薄くなる。
髪は文字へほどけ、手の指先が頁の端のようにめくれ、尾が砂色の光に変わる。
セイは耐えられなくなった。
「ファティマ!」
今度こそ、抱きしめようとした。
だが、ファティマは両手で彼の胸を押した。
力は弱い。
それでも、拒絶だった。
「来ないで!」
セイは止まった。
ファティマは泣きながら首を振る。
「今のボク、セイを使っちゃう。セイの中の“相棒”って場所へ逃げちゃう。そしたら、きっと楽になる。でも、それじゃ、ボクは自分で自分を選べない」
「でも、苦しんでる」
「苦しいよ!」
ファティマは叫んだ。
「苦しい! 怖い! ボク、消えそう! でも、セイのものになって助かるのも怖い!」
その叫びは、未完の中枢全体を震わせた。
宙の頁がばらばらに散り、猫型使い魔の影が壁を走り、大魔導師ファティマの残留記録が一瞬だけ揺らいだ。
エムが低く言った。
「自己名崩壊が始まっておる」
「止める方法は!」
セイが叫ぶ。
エムは即答しなかった。
その沈黙が怖かった。
やがて、彼女は言った。
「正史補正をかければ、安定はする」
セイは顔を上げる。
エムの〈光天の書〉が白く輝く。
「〈ファティマの書〉から欠落と矛盾を切り離し、安定した記録人格へ再編する。大魔導師ファティマの残響を制限し、ノースの破損記録を封じ、セイとの旅の記憶を表層人格として保存する」
「それは、ファティマを助けることですか」
「助ける、という語は曖昧じゃ」
エムの声は硬い。
「安定はする。彼女は笑えるだろう。おまえの相棒として旅も続けられる。だが、消された町の名、〈大きな神〉の修正履歴、大魔導師ファティマの未完は奥へ封じられる」
ファティマが震えた。
セイは理解した。
それは、ファティマを「セイと旅する明るい相棒」に整えることだ。
苦しみは減るかもしれない。
しかし、ファティマが抱えていた世界の傷は切り離される。
彼女は楽になるかもしれない。
でも、それは彼女を救うことなのか。
それとも、セイが失いたくないファティマだけを残すことなのか。
アズィーザが低く呟いた。
「都合のいい復元だね」
エムは彼女を見た。
「否定はせぬ。だが、崩壊を止める手段ではある」
「ナジムを、元気だった頃の弟として戻せるって言われたら、あたしは揺れる」
アズィーザは形見を握った。
「でも、砂漠で消えたナジムを切り離した弟は、あたしが探してるナジムなのかね」
セイはファティマを見た。
ファティマは、エムの白い光を見ていた。
その目には、恐怖と、かすかな誘惑があった。
安定できる。
苦しくなくなる。
知らない名前に押し潰されなくなる。
セイの相棒として、もう一度笑える。
ファティマは泣きながら笑った。
「それ、ちょっといいね」
セイの胸が痛んだ。
「怖くなくなるんだよね。ボクが誰か、悩まなくていいんだよね。セイと旅したボクだけ残るんだよね。ご主人様って呼んで、怒られて、笑って、尻尾を焦がして、そういうボクでいられるんだよね」
エムは答えない。
ファティマはセイを見る。
「セイは、それがいい?」
セイは、答えられなかった。
それが一番残酷だった。
ファティマは、セイに決めてほしがっているのかもしれない。
同時に、決めてほしくないのかもしれない。
セイが「それがいい」と言えば、ファティマはきっと楽になれる。
でも、それはセイがファティマの形を決めることになる。
セイが「だめだ」と言えば、彼女はこの苦しみを抱え続けることになる。
どちらも、セイが選んでいいことなのか。
「僕は……」
言葉が出ない。
ハナンの聖堂で、セシルを戻したいと思った。
ゼフィ=ラウで、クラウディアが自分の羽で飛ぶのを見た。
砂漠で、アズィーザがナジムを戻したいと認めた。
大魔導師ファティマが、世界を愛して本に閉じ込めかけた。
それら全部が、今この場に重なっている。
ファティマを救いたい。
でも、救うという名で彼女を自分の望む形にしてはいけない。
分かっているのに、失いたくない。
セイは、涙をこらえきれなかった。
「分からない」
ようやく出た声は、ひどく弱かった。
「ごめん。ファティマ、ごめん。僕は、君を失いたくない。君に苦しんでほしくない。君に戻ってきてほしい。でも、どの形で戻ってほしいのかを、僕が決めていいのか分からない」
ファティマは、セイを見ていた。
「分からないんだ」
「うん」
「助けてくれないの?」
その言葉は、小さく、鋭かった。
セイは息を呑む。
ファティマの顔に、幼い怒りと絶望が浮かんでいた。
「セイなら、呼んでくれると思った。ボクを選んでくれると思った。ボクが分からなくなっても、セイが“こっちだよ”って言ってくれると思った」
「言いたい」
「じゃあ言ってよ!」
「言ったら、君を閉じ込めるかもしれない!」
「閉じ込められてもいいって、思っちゃうくらい怖いんだよ!」
ファティマの叫びが、セイの胸を引き裂いた。
彼女は本当に怖がっている。
哲学でも、記録論でも、所有の問題でもない。
目の前の少女が、自分が自分でなくなる恐怖に震えている。
セイは、近づきたかった。
でも、ファティマは拒んだ。
セイの足は止まったままだ。
その距離が、二人の間に初めて生まれた大きな裂け目のように見えた。
ファティマの身体から、頁が一枚はがれた。
紙片のような光が宙に舞う。そこに、草原で笑うファティマが映っていた。
次の頁には、ハナンで震えるファティマ。
次の頁には、ゼフィ=ラウで黒い羽を見上げるファティマ。
次の頁には、砂漠で耳が蒸れると文句を言うファティマ。
その周りに、消された町の名が流れ込む。
知らない人々の名前が、彼女の記憶に混ざっていく。
ファティマは自分の頭を抱えた。
「やだ。やだ、混ざる。ボクの記憶が、ボクじゃない記録に埋まる。セイとの旅が、世界の記録に飲まれる。ボク、ボク、ボクは――」
彼女の声が途切れる。
代わりに、深層の声が響いた。
「記録人格、自己境界崩壊。ノース全域破損履歴へ接続」
セイは叫んだ。
「ファティマ!」
ファティマの瞳が、最後にセイを見た。
そこに、いつもの紅と金が一瞬だけ戻った。
「セイ」
小さな声。
「ボクが本でも、笑ったこと、嘘じゃないって……いつか、ちゃんと言って」
その言葉を残して、彼女の身体は光の頁となってほどけた。
完全に消えたわけではない。
ばらばらの頁が未完の中枢の中へ舞い上がり、記録の渦に絡め取られていく。
金の首輪だけが床に落ちた。
小さな音がした。
セイは、その場に崩れ落ちた。
手を伸ばす。
指先が、金の首輪に触れる。
温かい。
まだ、ほんの少し温かい。
だが、ファティマの声はない。
エムは黙っていた。
アズィーザも。
白い猫の影だけが、記録の渦を見上げていた。
セイは首輪を握りしめた。
胸の中で、ファティマの最後の言葉が何度も響く。
嘘じゃないって、いつか、ちゃんと言って。
答えられなかった。
抱きしめられなかった。
救えなかった。
けれど、問いは残った。
ファティマは本なのか。少女なのか。大魔導師の残響なのか。ノースの記録なのか。
その全部を抱えた彼女を、どう呼べばいいのか。
セイはまだ知らない。
ただ、金の首輪を握りながら、震える声で名前を呼んだ。
「ファティマ」
記録の渦の奥で、かすかに頁が一枚だけ震えた。
それが返事なのか、ただの残響なのか、セイには分からなかった。
未完の中枢は、静かに回り続けていた。




