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第七章 大魔導師ファティマ

 階段は、記録庫のさらに下へ続いていた。

 黒い石で作られた螺旋階段だった。壁には名前が刻まれている。人の名、町の名、種族の名、神殿の名、失われた水路の名、読もうとすると砂のように崩れる名。足元には黒いインクの光が細く流れ、階段の縁をなぞっている。まるで、下へ降りる者の足跡を記録しているようだった。

 白い猫の影は、二人の少し前を歩いていた。

 音はしない。

 ただ、金の首輪だけが時折淡く光る。紅と金の瞳が暗闇の中でちらりとこちらを振り返るたび、セイは胸の奥を掴まれるような気がした。

 ファティマに似ている。

 でも、ファティマではない。

 あの明るい声も、尻尾を膨らませて怒る癖も、食べ物への妙な執着も、怖い時ほど軽口を叩こうとするところも、そこにはない。

 あるのは、乾いた記録の気配だった。

 セイは〈ファティマの書〉を抱え直した。

 本はかすかに温かい。さっきよりは確かに生きているように感じる。けれど、少女の声はまだ戻らない。頁の奥で、何かが深い眠りに沈んでいる。

「ファティマ」

 小さく呼ぶ。

 返事はない。

 アズィーザが隣で黙っていた。

 いつもなら、ここで何か言うはずだった。怖いなら尻尾の代わりに本の角を撫でな、とか、名前は何度呼んでも減らないよ、とか。けれど彼女は、そうしなかった。首元の紐飾りを握り、階段の先を見つめている。

 ナジムの外套の切れ端を見つけてから、彼女の軽口は少し遠くなった。

 砂漠の怪盗はまだここにいる。足取りも乱れていない。短剣も、縄も、水袋も、全部いつでも使える位置にある。

 それでも、彼女の中の何かは、あの扉の前に置き去りにされたままなのだと、セイには分かった。

「大丈夫ですか」

 思わず尋ねると、アズィーザは横目でセイを見た。

「砂漠で大丈夫って言葉は、だいたい信用ならない」

「じゃあ、どう聞けばいいですか」

「歩けるか、だね」

「歩けますか」

 アズィーザは少しだけ笑った。

「歩けるよ。立ち止まったら、ナジムに笑われる」

「ナジムさんは笑うんですか」

「笑うね。あいつは、こっちが泣きそうな時ほど間の抜けた顔で笑う奴だった」

 彼女の声は柔らかかった。

 その柔らかさが、少し痛かった。

 階段の底に着くと、空間が広がった。

 そこは記録庫というより、記憶の劇場だった。

 円形の広間。天井は見えないほど高く、暗闇の中に無数の頁が浮かんでいる。白い頁、焼けた頁、金属板、硝子片、石碑の欠片。それらが星のように宙に浮かび、時折、互いに重なり、別の景色を映し出す。

 床は黒い鏡のようだった。

 セイが足を踏み入れると、水面のように波紋が広がり、その波紋の中に砂漠の夜が映った。黄金都市。湖畔の集落。ハナンの薔薇。ゼフィ=ラウの雲海。現代日本の雨の路地。いくつもの景色が重なり、すぐに消える。

 広間の中央には、ひとつの机があった。

 簡素な書記机だった。黄金でも、宝石でも飾られていない。黒い木と金属の脚、インク壺、乾いた魔導筆、砂時計型の護符、開かれたまま焼け焦げた本。

 その椅子に、誰かが座っていた。

 セイは息を止めた。

 女だった。

 砂漠の月光を思わせる白金の髪。長い砂色の衣。黒と生成りの布に、金糸で古代文字が縫い込まれている。首には金の飾り、指には記録具らしき細い指輪。片手には魔導筆。もう片方の手は、開いた本の上に置かれていた。

 瞳は左右で色が違った。

 片方は紅。

 片方は金。

 ファティマと同じ色。

 だが、少女ファティマの弾むような光はない。そこにあるのは、長い砂漠を歩き続けた者の静けさと、鋭さと、深い疲労だった。

 セイは名を呼んだ。

「大魔導師ファティマ……」

 女は顔を上げた。

 いや、そこに本当にいるのではない。

 輪郭が、わずかに透けている。椅子も机も、すべて残留記録によって再現された幻影だ。

 それでも、その視線がセイを捉えた時、背筋に冷たいものが走った。

「大魔導師と呼ばれるほど、わたしは賢くなかった」

 女は静かに言った。

「砂漠の魔女と呼ばれるほど、自由でもなかった。世界を救う者と呼ばれるほど、正しくもなかった」

 白い猫の影が、彼女の足元へ歩み寄った。

 大魔導師ファティマは、その猫へ一瞬だけ視線を落とす。猫は尾を巻いて座った。

「わたしは、記録者だった」

 その言葉と同時に、広間の頁が一斉にめくれた。

 光景が変わる。

 黄金都市アウロの庭。

 砂に沈む前の姿だった。

 乾いた水路には、まだ水が流れている。市場には青い布が吊るされ、人々が行き交い、猫型の使い魔たちが足元を走り回っている。塔の上では魔導書学者たちが議論し、書庫では若い写本師が笑いながら頁を運んでいた。太陽神殿の鐘が鳴り、黄金の壁が朝日を受けて眩しく輝いている。

 ファティマは、その中にいた。

 今より少し若い。まだ砂漠の魔女と呼ばれる前。黒いインクの染みた指で、いくつもの地図と写本を見比べている。彼女の周囲には、本が積まれていた。神殿記録、隊商名簿、種族史、古い地図、禁書の断片。

 彼女は休まない。

 夜になっても書き続ける。

 朝になっても読み続ける。

 ある日、彼女は一枚の地図に手を止めた。

 古い地図と新しい地図の大陸の輪郭が、まるで違っていた。

 別の日、彼女は神殿碑文を見ていた。神の名が削れている。削られた場所の周囲だけ、石が新しすぎる。

 さらに別の日、彼女は誰かと話していた。白髪の老人だった。老人は、かつて存在したはずの町について証言している。だが、話し終えるころには、自分が何を話していたのか忘れてしまう。

 ファティマは、その場で立ち尽くした。

 老人が去った後、彼女は自分の手帳を開く。

 そこには、さっきの町の名が書いてあった。

 けれど、文字が白く薄れていく。

 彼女は慌てて上からインクを重ねた。

 それでも、名は消えかけた。

 セイは、その光景を息を止めて見ていた。

 ハナンでセシルの名が薄れていった時の感覚がよみがえる。

 名前が消える。

 いたはずの人が、いたことごと薄れていく。

 大魔導師ファティマは、それをずっと見ていたのだ。

 女の声が重なる。

「最初は、誤記だと思った。伝承の揺らぎだと思った。書記の怠慢、神官の政治、王家の改竄。そういうものなら、まだ理解できた」

 頁がまためくれる。

 今度は、町が映った。

 同じ場所に、三つの町が重なっている。

 ひとつは石の町。

 ひとつは水路の町。

 ひとつは花に囲まれた町。

 それらが透けるように重なり、何度も入れ替わる。人々は自分たちがどの町に住んでいるのか疑わない。けれど建物の影には、別の町の階段が残っている。井戸の底には、別の町の鐘が沈んでいる。

「だが、空白が多すぎた。矛盾が深すぎた。神話が、地図が、種族の起源が、死者の記録が、同じ傷を持っていた」

 次に映ったのは、種族だった。

 羽を持つ者が空へ上げられる。地上に残された者たちが、空を見上げる。黒い羽の幼子が、記録から名前を消される。花から生まれた者たちが、別の種族の支配下で名を奪われる。水の中で歌う者たちの町が、いつの間にか地図から消える。

 セイは、クラウディアの黒い羽を思い出した。

 正史から外された名。

 ゼフィ=ラウの美しい空の下にあった空白。

 あれも、この傷のひとつだった。

「やがて、わたしは仮説を立てた」

 大魔導師ファティマの幻影は、机の上に一枚の白紙を広げた。

「ノースは、一度だけ創られた世界ではない」

 その言葉に、広間のすべての頁が震えた。

「幾度も創られ、幾度も破られ、幾度も修正された世界である」

 黒いインクが白紙に広がる。

 そこには、〈大きな神〉の創世神話が浮かんだ。

 外なる宇宙から来た大きな神。水に満ちた青い星を選び、生命の粉を蒔き、木々を、獣を、天人を、地人を、獣人を、植物由来の種族を創った神。やがて最果てへ去り、世界を見守っていると語られた神。

 けれど、幻影の中で、その神話は歪んだ。

 神は一度去ったのではない。

 外から手を伸ばしている。

 種族を置き換える。

 地形を書き直す。

 気に入らない町を沈める。

 役割を失った神格を別の属性へ配置する。

 矛盾した歴史を上書きする。

 消したはずの者たちの名が残れば、記録ごと削る。

 それは、創造というより修正だった。

 修正というより、所有だった。

 セイは喉が乾いた。

 自分が読んできた冒険の世界が、誰かの書き直しの上に立っていた。

 花の都も、空中都市も、砂漠も。

 美しさの下に、消された名が積もっている。

 大魔導師ファティマは、静かに言った。

「神が世界を創ったのなら、神は世界を消してよいのか」

 その声には、怒りがあった。

 叫びではない。

 乾いた砂の奥で、長く熱を保ち続けた怒り。

「わたしは、それを認めなかった」

 アズィーザが低く息を吐いた。

「そこまでは、正しいように聞こえるね」

 大魔導師ファティマは、アズィーザを見た。

 幻影のはずなのに、その視線は鋭かった。

「正しい願いは、しばしば最も危険な扉になる」

 アズィーザは黙った。

 セイも、胸の奥が痛んだ。

 セシルが救いたかったこと。

 アズィーザがナジムを戻したいこと。

 自分がセシルを戻したいこと。

 ファティマを完全にしたいと思ってしまうこと。

 どれも、悪意ではない。

 だからこそ危うい。

 光景が変わった。

 大魔導師ファティマは、アウロの庭の書庫を歩いている。後ろには無数の猫型使い魔が従っている。白い猫、黒い猫、砂色の猫、硝子の目を持つ猫。その猫たちが世界中から持ち帰った名札や頁や砂瓶を、彼女はひとつずつ受け取り、記録していく。

 消えた地名。

 存在しなかったことにされた種族。

 同じ場所に重なる複数の町。

 神殿碑文の空白。

 誰かがいたはずなのに名前だけが欠けている系譜。

 〈大きな神〉の修正痕。

 それらが、彼女の机の上に積み上がっていく。

 彼女は書く。

 休まずに。

 何日も、何年も。

 やがて、机の上に一冊の本が置かれた。

 厚い表紙。金具。紅と金の印。

 〈ファティマの書〉。

 セイが抱えている本と同じ形だった。

 ただし、幻影の中の本はもっと大きく、もっと重く、まるで世界そのものを押し込めようとしているように見えた。

 大魔導師ファティマの声が響く。

「魔導書は魔導を記す。魔本は世界を記す。ならば、世界が記録ごと消される前に、世界を魔本へ写せばよい」

 セイは〈ファティマの書〉を見下ろした。

 手の中の本が、重くなる。

 これが、その試みの残り。

 大魔導師ファティマが自身の知識、人格、記憶、ノースの地誌、種族、魔導、神話、神々、消された歴史を写そうとした本。

 そして、少女ファティマが生まれた本。

 ファティマは、ただの案内役ではなかった。

 彼女は、この未完成の世界記録から生まれた人格だった。

 セイは胸が締めつけられた。

「じゃあ、ファティマは……」

 言葉が続かない。

 大魔導師ファティマの幻影は、静かに言った。

「彼女は、わたしではない」

 セイは顔を上げた。

 その一言は、予想していたより強く響いた。

「彼女は、わたしの写しでもない。完全な継承人格でもない。〈ファティマの書〉の欠けた場所から生まれた、未完成の記録人格だ」

「未完成……」

「そうだ。だから、彼女は知らないことを知っている。知っていることを思い出せない。世界の傷を抱えながら、自分の輪郭を保とうとしている」

 セイは本を抱きしめる。

 ファティマが、自分の知らない地名を口にして怯えていた姿が浮かぶ。

 ボクは誰。

 大魔導師ファティマなのか。

 セイが拾った猫なのか。

 魔本なのか。

 ノースそのものなのか。

 その問いは、ただの不安ではなかった。

 この本の未完成さそのものから生まれた痛みだった。

 大魔導師ファティマの幻影は、ふと机の上の本へ手を置いた。

「わたしは、すべてを書こうとした」

 光景が暗くなる。

 アウロの庭に警鐘が鳴っている。

 書庫が燃えている。

 猫型使い魔たちが走り回り、研究者たちが頁を抱えて逃げている。太陽神殿の塔に亀裂が入り、天蓋の構文が赤く染まる。

 誰かが叫んでいる。

 〈大きな神〉が見ている。

 神の手が、世界の外から伸びる。

 修正が始まる。

 名前が白く消えていく。

 壁に刻まれた名が、一つ、また一つと削れる。

 ファティマは走る。

 長衣の裾を焦がし、手に黒いインクを握りしめ、〈ファティマの書〉へ最後の記録を書き込もうとする。

 彼女の瞳には、怒りと恐怖と愛があった。

 世界を忘れさせまいとする愛。

 消された者たちの名を守ろうとする愛。

 そして、その愛がすべてを一冊へ閉じ込めようとする危うさ。

「わたしは恐れた」

 声が、幻影の中から響く。

「わたしが書かなければ、すべて消える。わたしが残さなければ、誰も覚えていない。わたしが閉じ込めなければ、世界はまた破られる」

 〈ファティマの書〉の頁がめくれる。

 地誌。種族。神話。魔導。神格。消された歴史。大魔導師ファティマの知識。人格。記憶。

 すべてが流れ込んでいく。

 本は膨らみ、光を放ち、まるで都市そのものを吸い込もうとしているように見えた。

 セイはぞっとした。

 これは救いだろうか。

 それとも、別の形の消去だろうか。

 世界を失わないために、世界を本へ固定する。

 変わることも、忘れることも、間違えることも、続きを作ることも許さず、完全な記録として保存する。

 それは、〈大きな神〉が世界を修正し続けることと、どれほど違うのか。

 大魔導師ファティマは、その問いに気づいていた。

 幻影の中で、彼女の筆が止まる。

 都市は燃えている。

 頁は白く消えかけている。

 外から修正の光が迫っている。

 それでも、彼女は最後の頁の前で筆を止めた。

「書けば、残る」

 彼女は呟く。

「だが、書ききれば、閉じる」

 白い猫が足元で鳴いた。

 ファティマはその猫を見た。

 次に、本を見た。

 最後に、燃える都市を見た。

 セイは、呼吸を忘れてその姿を見つめていた。

 筆を置くのか。

 書くのか。

 救うのか。

 閉じ込めるのか。

 大魔導師ファティマは震える手で、最後の頁へ筆を近づけた。

 だが、書かなかった。

 あるいは、書き終える前に倒れた。

 どちらなのか、幻影は曖昧だった。

 彼女の身体が崩れる。

 白い猫が本へ飛び込む。

 頁が閉じる。

 炎が上がる。

 黄金都市が揺れる。

 アウロの庭は、砂の下へ沈んでいく。

 その最後に、彼女の声だけが残った。

「この書は、未完に終わるだろう」

 声は、乾いていた。

 けれど、そこには絶望だけではなかった。

「未完であっても、空白よりはましだ。

 だが、完全であったなら、世界はこの書の中で止まっていた。

 いつかこの書を開く者がいるなら、願わくば、わたしよりも愚かでないことを」

 幻影が消えた。

 広間は、元の静けさに戻った。

 机と椅子は残っている。白い猫の影もいる。

 だが、大魔導師ファティマの姿は薄れていた。

 セイはしばらく動けなかった。

 大魔導師ファティマは、英雄だった。

 消された名を残そうとした。

 〈大きな神〉の修正に気づき、神が世界を所有することに抗った。

 それは尊い。

 でも、彼女は危うかった。

 世界を忘れさせまいとして、世界を本に閉じ込めかけた。

 世界を愛した。

 愛したからこそ、所有しかけた。

 セイは〈ファティマの書〉を抱いた。

 ファティマ。

 未完成だったから生まれた少女。

 未完成だったから、笑い、怖がり、怒り、セイと旅をした存在。

 もしこの本が完全だったら、彼女は生まれなかったのかもしれない。

 あるいは、大魔導師ファティマの完全な写しとして、セイの知らない誰かになっていたのかもしれない。

 セイは、ぞっとした。

 完全にすることが、必ずしも救いではない。

 ファティマを直したい。

 でも、何を直すのか。

 どこまで直せば、彼女は彼女でなくなるのか。

 アズィーザが低く言った。

「ひどい話だね」

 セイは彼女を見る。

 アズィーザは机の上に残った焼けた本を見ていた。

「世界を救おうとして、世界を箱に詰めかけた。神様を止めようとして、神様に似た。笑えないね」

「アズィーザは、大魔導師ファティマをどう思いますか」

「嫌いにはなれない」

 彼女は即答した。

 それから、少し悔しそうに笑う。

「消された名を残したいって気持ちは、分かる。忘れられた奴らの名前を壁に刻んだことも、あたしは責められない。ナジムの名が消えかけてるなら、あたしだって壁でも骨でも空でも、どこにでも刻む」

 彼女は首飾りを握った。

「でも、全部を自分の本に入れようとしたら、それはもう盗みじゃない。監禁だ」

「監禁」

「怪盗が言うのも変だけどね。盗むってのは、持ち出すことだ。でも、彼女がしようとしたのは、世界から動く力を奪って保管することだったのかもしれない」

 セイは、ウィンディの言葉を思い出した。

 記録を書き換えるんじゃなくて、続きを作ればいい。

 大魔導師ファティマは、続きを作る前に、すべてを保存しようとした。

 保存しなければ消えるほど、世界は傷ついていた。

 でも、保存しきれば、世界は止まる。

 白い猫の影が、机から降りた。

 そして、セイの前に立つ。

 紅と金の瞳が、彼を見上げた。

「外より来た者」

 大魔導師ファティマの残留記録が言った。

「そなたは、わたしを英雄として記すな」

 セイは息を呑んだ。

「わたしを悪しき魔女としても記すな。いずれも簡単すぎる」

「じゃあ、どう記せば」

「未完の先達として」

 白い猫は答えた。

「世界を愛し、世界を守ろうとし、世界を所有しかけた者として。最後に迷い、完成しなかった者として」

 セイはゆっくり頷いた。

 それは、美しい答えではなかった。

 でも、正しいと思った。

 大魔導師ファティマは、正解ではない。

 彼女の失敗は、ただの敗北ではない。

 未完だったから、まだ世界は閉じていない。

 未完だったから、少女ファティマは生まれた。

 未完だったから、セイはここに呼ばれた。

 その時、〈ファティマの書〉が震えた。

 今度は強く。

 セイは慌てて本を開く。

 頁に、丸い文字が浮かんだ。

 滲んで、途切れ途切れで、今にも消えそうな文字。

 セイ。

 こわい。

 ボク、いる?

 セイの胸が熱くなった。

「いる!」

 思わず叫んだ。

 アズィーザも身を乗り出す。

 セイは本を両手で支え、頁へ向かって言った。

「ファティマ、いる。君はいる。僕は読んでる。聞こえる。君は、僕と旅したファティマだ。でも、それだけじゃなくてもいい。怖くても、分からなくても、ここに戻ってきて」

 文字が震える。

 さらに一行が浮かんだ。

 ボクは、ボク?

 セイはすぐに答えられなかった。

 答えたい。

 君は君だと、言い切りたい。

 けれど、ファティマの中には大魔導師の残響がある。〈ファティマの書〉の人格でもある。ノースの記録でもある。

 それでも。

「僕は、君をファティマって呼ぶ」

 セイは言った。

「でも、君が何者なのかを、僕だけで決めない。君が自分で答えを探すなら、隣で呼ぶ。何度でも」

 頁の文字が、しばらく揺れた。

 そして、消えずに残った。

 アズィーザが小さく息を吐く。

「少し戻ったかね」

「分かりません。でも、返事がありました」

「なら十分。今はね」

 白い猫の影は、じっとその頁を見ていた。

 その瞳に、ほんのわずかに柔らかい光が宿った気がした。

「未完成の記録人格は、外部呼称により自己名を保持しつつある」

「難しい言い方をしないでください」

 セイが思わず言うと、アズィーザが少し笑った。

「つまり、坊やの呼び声が効いたってことさ」

 白い猫は否定しなかった。

 広間の奥で、新たな扉が現れた。

 それは黄金ではなく、黒い石と白い頁でできた扉だった。扉の中央には、六つの印が並んでいる。火、風、土、水、光、闇。

 白い猫がそちらへ歩き出す。

「次に進め」

「まだあるんですか」

 セイが尋ねると、猫は振り返った。

「世界を記録しようとした者が、なぜ失敗したのか。神々が何者だったのか。〈大きな神〉が何を修正してきたのか。そなたが知るべきものは、まだ終わっていない」

 アズィーザは短剣の柄を確かめた。

「休憩なしとは、古代の記録は働き者だね」

「休むか」

 白い猫が尋ねる。

 アズィーザは少し考え、首を振った。

「休んだら、考えすぎる。今は歩く」

 セイも頷いた。

 ファティマの文字は、頁にまだ残っている。

 ボクは、ボク?

 その問いを抱えたまま、彼らは進むしかない。

 答えを急がずに。

 誰かの正解で上書きせずに。

 セイは〈ファティマの書〉を閉じなかった。開いたまま、胸の前に抱いた。

「行こう、ファティマ」

 声に出す。

 頁の端が、ほんの少し温かくなった。

 それだけで、セイは足を踏み出せた。

 大魔導師ファティマは、世界を愛した。

 世界を守ろうとした。

 消された名を残そうとした。

 そして、世界を本に閉じ込めかけた。

 その未完の先へ、セイたちは進んでいく。

 黒い石と白い頁の扉が、静かに開いた。

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