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第六章 アウロの記録庫

 扉は、名を飲み込むように開いた。

 黄金の神殿の奥、猫の形をした鍵穴を中心に、細い光の線が幾重にも走った。線は太陽の紋に沿って広がり、扉一面に刻まれた名前の間を通り抜ける。知らない名。読めない名。地名か人名か、種族名か神名かも分からない名。それらがひとつずつ淡く光り、まるで眠っていた者たちが目を開けるように、扉の表面から浮かび上がった。

 セイは〈ファティマの書〉を胸に抱いたまま、息を詰めていた。

 本の表紙は、さっきよりわずかに温かい。けれど、ファティマの声はまだ戻らない。

 呼べば、いつもなら返ってくる。

 セイ、また顔が怖いよ。

 ご主人様、今のところはボクをもう少し丁寧に持って。

 そういう声がないだけで、周囲の空気が一段暗くなったように感じる。

 アズィーザも無言だった。

 彼女はナジムの外套の切れ端を胸元にしまい、代わりに首飾りの形見を指で押さえている。いつもの笑みはない。目は扉へ向いているが、その奥で弟の影を探しているのが分かった。

 扉が低く軋んだ。

 黄金の表面が左右へ割れる。

 中から吹いてきたのは、風ではなかった。

 乾いた紙の匂い。

 古い墨の匂い。

 焼けた頁の匂い。

 そして、長い時間閉じ込められていた名前たちが、一斉に息を吐いたような、言葉にならない気配だった。

「……記録庫」

 アズィーザが呟いた。

 声には、宝を見つけた時の高揚がなかった。

 むしろ、墓地の入口に立った時のような響きだった。

 セイは頷くことも忘れて、中へ足を踏み入れた。

 アウロの記録庫は、地下にさらに沈む巨大な空間だった。

 神殿の内部にあるはずなのに、外から見た神殿の大きさを明らかに超えている。天井は高く、暗い。その暗闇の奥に、星のような黄金の文字が浮かんでいた。壁は円形に広がり、書架が幾層にも積み重なっている。木の棚ではない。黒石と黄金の骨組みで作られた棚で、そこに巻物、石板、硝子管、金属板、焼け残った頁、封印された小箱、名札の束、骨に刻まれた文字、砂を封じた瓶が並んでいた。

 床には細い水路のような溝が走っている。だが水は流れていない。代わりに、黒いインクのような光がゆっくり流れていた。時折、その流れの中に文字が浮かぶ。浮かんでは沈み、別の文字と混ざり、また消える。

 中央には、巨大な記録卓があった。

 円形の机。机というより、都市の地図をそのまま台にしたようなもの。表面にはノースの地図が刻まれている。山脈、川、森、砂漠、湖、空中都市、花の都。けれど、その輪郭はセイの知っている地図と一致しなかった。大陸の形が何重にも重なっている。同じ場所に別の町名が刻まれ、その上から線で消され、さらに別の名が書き込まれている。

 ハナンのあたりには、花の紋がいくつも重なっていた。

 ゼフィ=ラウのあたりには、空へ伸びる線と、地上へ落ちる線が絡んでいた。

 砂漠の中心には、黄金の丸い印。アウロの庭。

 セイは思わず近づいた。

 地図の上に、細い文字が浮かぶ。

 ハナン。

 その下に、別の名。

 さらにその下に、削られた名。

 読もうとすると、文字が揺れて見えなくなる。

「これ……」

 セイの声が掠れた。

 アズィーザも隣に来る。

「同じ場所に、何個も町がある」

「はい」

「いや、あった、のか」

 地図の上では、同じ地点に複数の町の記録が重なっている。花に囲まれた町。別の種族が住んでいたらしい石の町。水路の町。名前だけ残り、街路も建物も消えている町。

 その一つに、黒い線が引かれていた。

 そこだけ、インクが乾いていないように見える。

 セイは胸の奥が痛くなった。

 セシルが混沌へ沈んだ時、ハナンから彼の名が薄れていった。

 あれは、禁書の力だけではなかったのかもしれない。

 この世界は、もともと名前を消す癖を持っている。町を上書きし、人をなかったことにし、記録を整えるために、痛みを削る。

 セイは聖印の入った鞄へ手を当てた。

 消えかけた名前を、どうにか手の中に残しているような気がした。

 アズィーザは、別の棚へ近づいた。

 そこには、金属板の束が吊られている。板には系譜図が刻まれていた。家系、王族、神官団、隊商、種族の枝分かれ。だが、あちこちに空白がある。

 親がいて、子がいない。

 兄弟の数だけ線が引かれているのに、一人分だけ名がない。

 結婚の記録があるのに、相手の名が白く削れている。

 生まれていないはずの者の名が、死者欄にだけ残っている。

 アズィーザは、息を呑んだ。

「隊商名簿……」

 彼女が手を伸ばした先に、古い隊商の系譜板があった。砂漠文字で書かれているらしく、セイには読めない。アズィーザは震える指で、それをなぞる。

「この形式、月牙の泊まり場の隊商記録に似てる。古いけど、読める」

「ナジムさんの名前は?」

 セイが尋ねると、アズィーザはすぐには答えなかった。

 探している。

 けれど、目が何度も同じ場所で止まる。

 そこには、名前ではなく、空白があった。

 線だけが残っている。誰かがいた場所。

 弟だったかもしれない者の位置。

 名だけが、削れている。

 アズィーザは笑おうとして、失敗した。

「ひどいねえ」

 声が低い。

「名前を盗むなら、もっときれいに盗みなよ。これじゃ、いたことだけ残して名前だけ持っていくなんて、悪趣味にもほどがある」

 セイは何も言えなかった。

 アズィーザの指先が白くなるほど、金属板を握っている。

 しかし彼女は、板を引き剥がそうとはしなかった。

 ただ、長く息を吐いて、手を離した。

「今は、全部読まない」

「いいんですか」

「よくないよ」

 アズィーザは即答した。

「よくないけど、ここで座り込んだら動けなくなる。ナジムがいたかもしれない空白に食いついて、坊やも本猫も置いていくことになる。それは、あいつに怒られる」

 彼女は首飾りに触れた。

「後で読む。今は、奥へ行く」

 その声は震えていた。

 けれど、足は前を向いた。

 二人は記録庫の奥へ進んだ。

 そこには、消えた地名を集めた棚があった。

 瓶の中に砂が入っている。瓶の底には小さな札があり、ひとつずつ地名が書かれている。札の中には、文字が半分消えているものもある。瓶を覗くと、砂粒の間に小さな景色が見えた。町の門。橋。井戸。市場。雨の降る通り。雪の残る屋根。

 だが、次の瞬間にはただの砂に戻る。

 存在しなかったことにされた町。

 消えた地名。

 瓶に封じられた、かつての場所。

 その隣には、種族記録の棚があった。

 羽を持つ者、角を持つ者、水の中で歌う者、石の皮膚を持つ者、花から生まれた者、猫の目を持つ書記獣、名を持たない子どもたち。

 説明文の途中で白く抜けているものがある。

 起源不明。

 記録断絶。

 修正後、存続不明。

 存在しなかったものとして再分類。

 セイは、その言葉を見ただけで気分が悪くなった。

 再分類。

 それは、殺すより静かな言葉だった。

 けれど、ここではその言葉で、種族や町や人が消されている。

「ゼフィ=ラウも」

 セイは呟いた。

 アズィーザが振り返る。

「何か見つけた?」

「空中都市で、地上と空のセイレーンの歴史に空白がありました。黒い羽が不吉とされた理由も、誰が始めたのか分からなかった。蒼風石の構文も、不自然につぎはぎされていて」

 言いながら、セイは中央地図に浮かんだ風の線を思い出した。

 ナディールの正統な風歌だけでは届かなかった場所。クラウディアの黒翼構文が必要だった場所。

「それも、修正痕だったんだ」

 言葉にした瞬間、胸の奥でいくつもの出来事がつながった。

 セシルの名が薄れたこと。

 クラウディアが第一皇女でありながら正史から消されていたこと。

 ファティマが蒼風石の制御詩を知っていたのに、なぜ知っているのか分からなかったこと。

 ナジムが人々の記憶から薄れていったこと。

 それらは、それぞれ別の悲劇に見えていた。

 でも、違う。

 別々の傷ではある。

 けれど、同じ世界の肌に走った裂け目だった。

 ノースという世界そのものが、何度も書き換えられている。

 そのたびに、町が消え、名が抜け、種族の起源が曖昧になり、正史の外へ追いやられた者たちが砂の下へ落ちていった。

 大魔導師ファティマは、それを見たのだ。

 見てしまったのだ。

「こんなの」

 セイは思わず言った。

「一人で見続けたら、おかしくなります」

 アズィーザは静かに答えた。

「だから、世界を本に閉じ込めかけたのかもしれないね」

 その言葉は重かった。

 大魔導師ファティマは、忘れさせまいとした。

 消された者たちの名を残そうとした。

 それは尊い。

 でも、これほどの傷を見続けたら、すべてを一冊に集めたくなる気持ちも分かってしまう。どこにも置き去りにしないように。二度と消されないように。自分の手元に、全部を保存してしまいたくなる。

 それが危ういのだと、セイはもう知っていた。

 救いたい気持ちは悪ではない。

 けれど、その願いは世界を歪めることがある。

 記録することと、閉じ込めることは違う。

 その境目は、砂の線のようにすぐ崩れる。

 記録庫のさらに奥には、神殿碑文の空白を集めた区画があった。

 石碑の欠片が棚に並んでいる。どれも神殿から剥がされたものらしく、祈りの言葉や神名が刻まれていた。だが、肝心な場所だけ白く抜けている。

 火界王アウロ。

 風界王ゼーク。

 土界王ディティア。

 水界王イズム。

 光神ヒリカ。

 闇神イーマ。

 それらの名の周囲にも、修正の跡があった。

 神の名すら、固定されていない。

 同じ神が別の時代では別の役割を持ち、別の神殿では矛盾した由来を持っている。祈りの文が途中で消え、別の文へつながっている。

 神話もまた、書き換えられている。

 セイは背筋が冷えた。

 〈大きな神〉の創世神話。

 外なる宇宙から来て、水に満ちた青い星を選び、生命の粉を蒔き、種族を作り、世界を見守るだけになった神。

 あの神話も、本当にそのままなのだろうか。

 見守っているだけではなく、今も修正し続けているのだとしたら。

 何度も世界を作り直しているのだとしたら。

 セイは、喉が乾くのを感じた。砂漠の乾きではない。世界の土台が揺らぐ乾きだった。

 その時、記録庫の奥で、鈴のような音がした。

 いや、鈴ではない。

 筆が硝子板を叩く音。

 細い金属の爪が、石の床を歩く音。

 セイとアズィーザは同時に振り返った。

 書架の間から、一匹の猫の影が現れた。

 白い猫。

 影なのに白い。

 毛並みは月光のように淡く、首には金の輪がある。瞳は左右で色が違った。片方は紅。片方は金。

 ファティマの瞳と同じ色。

 だが、その猫から感じる気配は少女ファティマではなかった。

 もっと古い。

 もっと乾いている。

 砂漠の夜に立つ魔女の影を、猫の形へ折り畳んだような存在だった。

 猫は、二人を見た。

 それから、机の上へ跳び乗る。

 着地の音はしなかった。

 中央の記録卓に、黒いインクが湧き上がる。

 インクは細い線となり、白い頁のような光の上へ文字を書き始めた。

 同時に、声が響いた。

 女の声。

 静かで、乾いた風のような声。

「この世界は、一度ではない」

 セイの身体が動かなくなった。

 ファティマが倒れた夜に聞いた声と同じだった。

 大魔導師ファティマ。

 彼女の残留記録。

 アズィーザも息を止めている。

 白い猫の影は、尾をゆっくり揺らしながら、記録卓の上を歩いた。足跡が黒い文字になる。

「幾度も記され、幾度も破られた」

 声は続く。

「町は建てられ、消され、別の町として上書きされた。

 種族は生まれ、役割を与えられ、気に入られず、起源を奪われた。

 神々は配置され、祈られ、歴史を与えられ、管理者であったことを忘れさせられた。

 死者の名は墓に残り、忘れられた者の名は墓ごと消えた」

 記録卓の地図が光る。

 ハナン。

 ゼフィ=ラウ。

 砂漠の湖。

 消えた町。

 存在しなかったことにされた種族。

 白く抜けた神殿碑文。

 空白の系譜。

 すべてが、同時に浮かび上がった。

 セイは震える声で尋ねた。

「あなたは……大魔導師ファティマですか」

 白い猫は、セイを見た。

 その目は、少女ファティマに似ていた。

 似ているのに、まったく違った。

「わたしは、残った記録にすぎない」

 声が答えた。

「大魔導師ファティマの全てではない。彼女が残そうとしたものの一部。彼女が残せなかったものの輪郭。彼女が消える前に、猫型使い魔へ託した影」

「ファティマはどこですか」

 セイは一歩前へ出た。

「僕のファティマは。少女のファティマは、どこにいるんですか」

 白い猫は瞬きをした。

 インクが新しい文字を作る。

 〈ファティマの書〉、応答不全。

 記録人格、深層接続中。

 アウロ基幹記録と同期。

 自己名保持、不安定。

 セイの胸が冷たくなる。

「自己名保持、不安定……?」

「彼女は自分が何者かを問われている」

 残留記録は言った。

「猫か。少女か。魔本か。大魔導師の残響か。ノースの自己記録か。いずれでもあり、いずれでもない。未完成の人格は、強い記録圧に触れると、自己の輪郭を保てなくなる」

「どうすれば戻せますか」

 セイは急いで聞いた。

「戻す?」

 白い猫の影が、首を傾げた。

「どの形へ」

 その問いに、セイは言葉を失った。

 どの形へ戻すのか。

 〈ファティマの書〉の案内人格へ。

 セイと旅した猫耳少女へ。

 大魔導師ファティマの正しい写しへ。

 欠ける前の完全な記録へ。

 どれを戻すと言うのか。

 アズィーザが横から低く言った。

「意地の悪い聞き方だね」

「正確な問いだ」

 残留記録は答えた。

「取り戻したい者は、しばしば何を取り戻すのかを知らない。死者か。記憶か。罪を犯す前の相手か。喪失を知らない自分か」

 アズィーザの顔が強張った。

 ナジムのことを言われているのだと、セイにも分かった。

 白い猫はアズィーザへ視線を向ける。

「砂漠の娘。そなたも、名を持って来た」

 アズィーザは形見を握った。

「ナジムを知ってるのかい」

「名は記録庫に触れた。形見は扉を通った。だが、全てを語るには条件が足りない」

「条件ってのは、いつも人の足元を見るね」

「記録は慈悲ではない。照合だ」

「嫌なところで正直だ」

 アズィーザは歯を食いしばった。

 セイは、彼女が今にも問い詰めたくてたまらないのを感じた。ナジムは生きているのか。死んだのか。記録から消えたのか。ここへ来たのか。扉の向こうへ進んだのか。

 けれど、アズィーザは一歩で踏みとどまった。

 今はファティマ。

 そう自分に言い聞かせているのが分かった。

 残留記録は、中央の地図へ戻った。

「この記録庫は、失われた名を保存するために作られた。だが、保存は救済ではない。閉じられた名は腐らない。だが、育たない」

 白い猫の足跡が、黒い文字を増やす。

「大魔導師ファティマは、世界を忘れさせまいとした。消された町を記した。存在しなかったことにされた種族を記した。神殿碑文の空白を写した。〈大きな神〉の修正痕を集めた」

 声が、少しだけ沈む。

「そして、恐れた。

 自分が忘れれば、本当に消えてしまう。

 自分が記録しなければ、誰も残せない。

 ならば、全てを記録しなければならない。

 ならば、世界そのものを本へ写さなければならない」

 セイは、その言葉の先を聞くのが怖かった。

 でも、逃げられない。

 残留記録は続けた。

「それは、〈大きな神〉と同じ道へ近づくことだった」

 記録庫の光が揺れた。

 棚に並ぶ名札が一斉に震える。

 世界を愛するあまり、世界を所有しかけた者。

 大魔導師ファティマ。

 セイは、まだ会ったことのないその人に、遠い恐怖と、遠い共感を覚えた。

 消された名を見れば、残したくなる。

 失われた町を見れば、戻したくなる。

 ファティマが壊れかけているなら、完全にしたくなる。

 セシルが死んだなら、やり直したくなる。

 その願いは、悪ではない。

 でも、その願いがすべてを自分の本の中へ閉じ込め始めたら。

 セイは、鞄の中の聖印に触れた。

 ひびの入った薔薇の形見。

 作り直せば、そのひびは消える。

 でも、そのひびがなければ、セシルが間違え、生き、死に、救いたかったことの重みも消える。

 白い猫がセイを見た。

「外より来た者」

「……はい」

「そなたは、読む者として来た。今は、記録する者へ近づいている。やがて、書く者へ誘われる」

「創造の書、ですか」

 セイの声は震えた。

 白い猫は尾を揺らした。

「その名を、ここで軽く呼ぶな。あれは本ではない。世界が自分を書き換えるための裂け目だ」

 アズィーザが低く息を吐く。

「伝承より物騒だね」

「伝承は、物騒なものを聞きやすくするためにある」

「なるほど。嫌な納得だ」

 その時、〈ファティマの書〉が強く震えた。

 セイは慌てて本を開く。

 今度は頁がめくれた。

 白紙の頁に、黒いインクが滲む。

 文字ではない。

 最初は、猫の足跡。

 次に、少女の手書きのような丸い文字。

 その上に、大魔導師ファティマの細く鋭い文字が重なる。

 セイ。

 たった二文字。

 それだけが、かすかに浮かんだ。

「ファティマ!」

 セイは本を抱え込む。

 頁の文字は震え、すぐに崩れかけた。

 白い猫が記録卓の上で身を低くする。

「自己名保持、低下。外部名呼称に反応」

「どういうことですか」

「呼び続けよ」

 残留記録は言った。

「彼女が自分を見失うなら、外から名を呼べ。だが、所有するな。そなたの相棒としてだけ固定すれば、彼女は別の形で閉じ込められる」

 セイは息を呑んだ。

 ファティマを呼びたい。

 戻ってきてほしい。

 でも、自分だけの相棒として閉じ込めてはいけない。

 それは、クラウディアを救うことで自分を救いたくなった時と同じ危うさだった。

 それでも、呼ぶことはできる。

 所有するためではなく、ここに戻るための杭として。

「ファティマ」

 セイは本へ向かって言った。

「ファティマ。僕はここにいる。アズィーザもいる。君が何者なのか、僕はまだ全部分からない。でも、君が僕と旅したことは覚えてる。草原で会ったことも、ハナンで怖がったことも、ゼフィ=ラウでクラウディアの羽を見てかっこいいって言ったことも、尻尾を焦がして怒ったことも、砂漠で耳が蒸れるって文句を言ったことも」

 頁の文字が震える。

 アズィーザが少しだけ笑った。

「そこ、尻尾のくだりも大事なんだね」

「大事です」

「そうかい。なら記録しておこう」

 アズィーザも本へ向かって言った。

「本猫。あんたがいないと、坊やの顔が暗すぎる。戻ってきたら、砂まみれになったあたしを笑っていい。だから、変な記録の海で迷ってるなら、耳を立ててこっちへ来な」

 頁の端が、ほんの少し温かくなる。

 だが、声は戻らない。

 白い猫は静かに目を細めた。

「まだ深い。彼女は記録庫の奥へ引かれている。大魔導師ファティマの未完の中枢へ」

「そこへ行けば、ファティマを戻せますか」

「戻せるかは分からぬ」

「じゃあ、何があるんですか」

「真実がある」

 白い猫は、記録庫のさらに奥を向いた。

 そこには、円形の階段が下へ続いていた。黒い石の階段。壁には名が刻まれ、足元には黒いインクの光が流れている。

「大魔導師ファティマが最後に記そうとして、記しきれなかったもの」

「それは」

「ノースが、なぜ何度も破られたのか」

 記録庫の空気が重くなる。

 天蓋の向こうで砂が流れる音がした。

 遠い地上で、砂嵐がまた起きているのかもしれない。

 アズィーザは短剣を確かめ、首元の形見を握った。

「行くしかないね」

 セイは頷いた。

 怖い。

 ファティマが戻る保証はない。

 ナジムの記録を見つけたら、アズィーザがどう揺れるかも分からない。

 この先には、〈創造の書〉へ続く危うさがある。

 それでも、行くしかない。

 セイは〈ファティマの書〉を胸に抱き、階段の前へ立った。

 白い猫の影が、記録卓から降りて先導する。足跡が黒い文字となり、すぐに消える。

 階段の入口で、残留記録はもう一度言った。

「この世界は、一度ではない。幾度も記され、幾度も破られた」

 セイはその言葉を胸に刻んだ。

 それは、ファティマが倒れた夜に聞いた声と同じだった。

 だが今は、ただの謎ではない。

 ハナンの薔薇。

 ゼフィ=ラウの黒い羽。

 砂漠の湖。

 ナジムの空白。

 ファティマの欠落。

 すべてが、その言葉の中につながっている。

 セイは階段を下り始めた。

 世界の傷の、さらに奥へ。

 ファティマの名を、手放さないまま。

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