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第五章 黄金都市アウロの庭

 黄金都市は、砂の底で眠っていた。

 セイはしばらく、声を出すことができなかった。

 頭上には、空がない。あるのは、砂の海を下から支える透明な膜のような天蓋だった。膜の向こうでは、無数の砂粒がゆっくり流れている。昼の砂漠の光が、分厚い砂の層と見えない構文を通して濾され、都市全体へ鈍い金色の明かりを落としていた。まるで、世界そのものが巨大な琥珀になり、その中に古代の都市を閉じ込めてしまったようだった。

 天蓋には、細い金色の文字が幾筋も走っている。風で揺れるわけではない。水面のように波打つこともない。ただ時折、砂の圧力を受け止めるように淡く光り、低い音を鳴らした。

 都市は半ば廃墟だった。

 黄金の塔は、遠くから見ればまだまっすぐに立っているように見える。だが近づいて見れば、外壁のあちこちが崩れ、金板の下から黒い石材が覗いていた。塔の先端は折れ、天蓋に届かない位置で斜めに欠けている。その欠けた先から、焼けた頁のような黒い破片が何枚も垂れ下がっていた。

 中央には、太陽を模した神殿があった。

 丸い祭壇を中心に、放射状の回廊が広がっている。上から見れば、巨大な太陽の紋章に見えただろう。今は回廊のいくつかが崩れ、乾いた砂に埋もれ、神殿の壁には煤の跡が残っている。

 街路には水路があった。

 ただし水はない。

 かつて水が流れていたと思われる溝が、都市を縫うように走っている。水路の底には細かい砂が溜まり、ところどころに青い硝子片が光っていた。橋の欄干には猫の彫刻が並び、顔の半分を砂に削られながらも、どの猫も同じ方向を向いている。都市の奥、太陽神殿よりさらに深い場所を。

 そして、書庫があった。

 無数に。

 塔の下にも、神殿の脇にも、住宅らしき建物の奥にも、地下へ続く階段の入口にも、書庫の扉があった。扉は黄金と黒石で作られ、表面には本と猫と太陽の印が刻まれている。いくつかは閉じていた。いくつかは破られていた。破られた扉の向こうには、棚ごと焼け落ちた頁の山が見えた。

 紙の焦げた匂いがする。

 何百年も、あるいはもっと長い時間、砂の下に封じられていたはずなのに、その匂いはまだ生々しかった。

 セイは胸の前で〈ファティマの書〉を抱きしめた。

 本は冷たいままだった。

「ファティマ」

 呼ぶ。

 返事はない。

 いつもなら、少し不満そうな声が返ってくるはずだった。

 なに、セイ。

 ご主人様って呼んでいい?

 その持ち方、ボクの表紙が曲がる。

 砂が入るから気をつけて。

 そんなふうに、すぐそばで声がするはずだった。

 けれど、今は何もない。

 手元に〈ファティマの書〉はある。なのに、ファティマがいない。

 それが、セイをひどく不安にさせた。

 本はあるのだから大丈夫だと、自分に言い聞かせようとした。けれど違う。ファティマは本そのものではない。本の中の便利な案内役でも、魔法の説明をしてくれる声でもない。

 草原で出会って、尻尾を焦がして怒って、ハナンで一緒に震えて、空中都市でクラウディアの羽をかっこいいと言った、あの少女だ。

 セイが怖い時、隣で怖がってくれた相棒だ。

 その声が、ない。

「……ファティマ」

 もう一度呼ぶ。

 返事はなかった。

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

「坊や」

 アズィーザの声がした。

 セイは顔を上げる。

 彼女は少し離れた場所に立ち尽くしていた。砂まみれの外套をまとい、首元の紐飾りを握っている。

 いつもの軽口はなかった。

 金砂のアズィーザ。砂漠の怪盗。宝と珍品に目がない女。危険な遺跡へ平然と忍び込み、値段のつくものを見れば笑うはずの彼女が、今は黄金の都市を前にして、笑っていなかった。

「ここが……」

 声がかすれている。

「ナジムが追ってた場所だ」

 セイは何も言えなかった。

 アズィーザは一歩、前へ出る。

 足元の砂が小さく崩れた。

「本当に、あったんだね」

 彼女はそう呟いた。

 疑っていたわけではないのだろう。手がかりを追い、地図断片を集め、砂漠を歩き、弟の形見を持ち続けてきた。けれど、伝承が目の前に現れることと、それを信じて歩くことは違う。

 黄金都市アウロの庭。

 それは宝の名ではなかった。

 喪失の行き先だった。

 アズィーザは、首元の紐飾りを握りしめたまま、都市を見つめている。

「ナジム。あんた、本当にここまで来たのかい」

 返事はない。

 ただ、天蓋の向こうで砂が流れる音だけがした。

 セイは立ち上がろうとして、足元がふらついた。ワームに呑まれた時の衝撃が、まだ身体に残っている。肩も痛い。肘にも擦り傷がある。喉は砂でざらついていた。

 アズィーザはすぐに近づき、腕を取った。

「動けるかい」

「はい。たぶん」

「砂漠で“たぶん”は危ない」

「でも、動かないと」

「それはそうだね」

 アズィーザは自分の水袋を確認した。砂にまみれてはいるが、破れてはいない。彼女は慎重に栓を開け、ほんの少しだけ口を湿らせ、それからセイへ渡した。

「急に飲むな」

「分かってます」

「分かってる顔じゃない」

 いつもの言い方だった。

 セイは少しだけ安心した。アズィーザが完全に沈み込んでいないことに。けれど、彼女の声にはまだ硬さがある。

 水を少しだけ飲むと、喉の砂っぽさがましになった。

 セイは〈ファティマの書〉にも水をかけそうになって、手を止める。

「本に水はまずいか」

「そうだね。魔本だからって、水濡れ歓迎とは限らない」

 アズィーザは軽く言ったあと、セイの手元を見た。

「応答しない?」

「はい」

「人格が引っ込んでいるのか、外の本猫とつながってるのか、それともこの都市に引っ張られてるのか……」

「分かるんですか」

「分からないよ」

 アズィーザは正直に言った。

「分からないから、探す。砂漠ではそうする」

 セイは頷いた。

 ファティマを探す。

 外に残されたファティマの身体を探すのか。〈ファティマの書〉の中に沈んだ人格を探すのか。この都市のどこかに引きずられた記録を探すのか。分からない。

 でも、探すしかない。

 二人は、砂丘のように盛り上がった落下地点から、都市へ向かって歩き出した。

 最初の街路に入ると、足音が変わった。砂を踏む音から、石を踏む音へ。長い年月で砂に覆われてはいるが、その下には舗装された道が残っている。石材は黒く、ところどころに金の線が埋め込まれていた。線は街路に沿って走り、猫の足跡のように分岐し、書庫や水路や神殿へつながっている。

 家々は壊れていた。

 窓には硝子が残っていない。扉は朽ち、壁には砂が入り込んでいる。けれど、生活の跡はあった。倒れた椅子。割れた皿。壁にかけられたままの金属製の筆箱。乾いた水路に落ちた小さな靴。

 セイはその靴を見て、足を止めた。

 子どものものだ。

 ここには、研究者や魔導師だけではなく、普通に暮らしていた人たちがいた。

 朝、扉を開けた人。

 水路のそばで話した人。

 書庫へ急いだ人。

 市場で青い布を買った人。

 ファティマが知らないはずなのに口にした、風の乾く前の市場。

 その言葉が、急に現実味を持った。

「セイ坊」

 アズィーザが呼ぶ。

「見つけたよ」

 彼女が立っていたのは、広場の入口だった。

 そこには、壁があった。

 長い壁。

 黄金の装飾はほとんど剥がれ、黒石の表面が見えている。その壁一面に、文字が刻まれていた。

 名前だった。

 ひとつひとつ、違う名。

 短い名。長い名。種族名のようなもの。地名のようなもの。人の名、町の名、家族の名、称号、呼び名、祈りの中で使われる古い言葉。

 読めるものも、読めないものもある。

 刻まれた文字の上から、さらに別の文字が重ねられている場所もあった。消えかけた名を、後から誰かがなぞったような跡もある。

 セイは息を忘れた。

 壁の端には、古代語で何かが刻まれている。

 読めない。

 けれど、〈ファティマの書〉がわずかに震えた。

 本は冷たいままだが、表紙の金具が一瞬だけ淡く光る。

 セイは本を開こうとした。

 頁は固い。

 いつものように自然にはめくれない。

 それでも、かすかに一枚だけ動いた。

 そこに、細い文字が浮かぶ。

 ――消された者の名を、砂に渡すな。

 すぐに消えた。

「今……」

 セイが呟く。

 アズィーザも見ていた。

「ファティマかい?」

「分かりません。でも、本が少し」

 セイは壁を見上げた。

 ここが、この都市の本当の宝なのだと、直感した。

 黄金の塔ではない。

 金の装飾でもない。

 宝石でも、古代の魔導具でもない。

 この壁だ。

 失われた名前。

 消されかけた記録。

 誰かが、忘れさせまいとして刻んだもの。

 アズィーザは壁へ近づき、指で文字をなぞった。

 彼女の表情が変わった。

 軽口を言おうとして、言えなかったような顔だった。

「すごいね」

 ようやく出た声は、それだけだった。

「金の壁より厄介だ。持ち出せない」

「盗めませんか」

 セイが聞くと、アズィーザは苦笑した。

「盗めないねえ。いや、石を剥がして持ち出すことはできるかもしれない。でも、それじゃ意味がない。名前は場所ごと残ってる。この都市の沈黙ごと、壁に刻まれてる」

 彼女は指を止めた。

「ナジムの名前があるかもしれない」

 声は小さかった。

 セイは胸が痛んだ。

「探しますか」

 アズィーザはしばらく壁を見ていた。

 探したい。

 それは明らかだった。

 だが、壁一面に刻まれた名は数え切れない。今すぐここで探し始めたら、きっと動けなくなる。

 彼女は深く息を吸い、手を離した。

「探す。でも、今じゃない」

 その声は震えていた。

 それでも、彼女は言った。

「今はファティマを探す。あたしの探し物は、その後でも逃げない。……逃げないでほしいね」

 最後だけ、少しだけ弱かった。

 セイは何も言わず頷いた。

 広場の中心には、猫型使い魔の石像が並んでいた。

 外の遺跡で見たものよりも保存状態がいい。大小さまざまな猫像が、円形に配置されている。首には金の輪。胸には本の印。目には紅と金の小さな石がはめ込まれているものもあった。

 ファティマの瞳と同じ色。

 セイはぞっとした。

 猫像たちは、太陽神殿の方を見ている。

 あるいは、神殿のさらに奥、書庫群の深部を見ている。

 アズィーザが一体の猫像に近づいた。

「これ、ただの石像じゃないね」

「動くんですか」

「動いたら嫌だね」

「嫌です」

「でも、動きそうだ」

「言わないでください」

 アズィーザは像の台座を見た。

 そこにも文字がある。

 セイは読めない。だが、〈ファティマの書〉の頁がまた少し震えた。

 今度は開かない。

 しかし、セイの頭の中にかすかな声が響いた。

 ファティマの声ではない。

 大魔導師ファティマの声でもない。

 もっと小さな、たくさんの声。

 ――記録猫、第一群。

 ――欠落名回収。

 ――帰還路、閉鎖。

 ――所有禁止。閲覧条件未達。

 セイは頭を押さえた。

「セイ坊?」

「声がしました」

「本から?」

「たぶん。この都市の記録かもしれません」

 アズィーザは猫像から離れた。

「この街は眠ってるだけじゃないね。見られてる」

 セイも感じていた。

 都市全体が、静かにこちらを測っている。

 ワームが門番なら、猫像は記録係だ。

 ここに入った者が何を持ち、何を忘れ、何を取り戻したがっているのかを、じっと見ている。

 セイは〈ファティマの書〉を抱え直した。

「ファティマは、ここを知ってるんでしょうか」

「知ってるんじゃない」

 アズィーザは言った。

「ここが、ファティマを知ってるんだと思う」

 その言葉に、セイは何も返せなかった。

 太陽神殿へ向かう途中、二人は魔導研究施設らしき建物の前を通った。

 建物は半分崩れていたが、入口の上には焼け残った文字がある。

 世界構文解析室。

 アズィーザはそれを読めないようだった。だが、セイの手元の本がまた震え、意味だけが伝わってきた。

 中には、壊れた機械が並んでいた。水晶球の枠、黒いインクで満たされた乾いた水槽、金属の筆、歯車のついた書見台、天井から吊るされた無数の細い鎖。いくつもの机には、焼けた頁が散らばっている。

 セイは一枚を拾おうとして、触れる直前で止めた。

 頁には、人の名が書かれていた。

 途中で焼けている。

 名前の半分がない。

 でも、残った半分を見ただけで、胸が苦しくなった。

 これは、ただの研究資料ではない。

 誰かの存在そのものだったのかもしれない。

「大魔導師ファティマは、ここで何をしてたんでしょう」

 セイが呟く。

 アズィーザは、壊れた書見台を見ながら答えた。

「世界を救おうとしたんだろうね」

「救う?」

「消される名前を集めて、忘れられた町を記録して、神様の書き換えに逆らって。伝承が本当なら、だけど」

「それは、いいことに聞こえます」

「いいことだったんだろうさ。最初は」

 アズィーザの声は低い。

「でも、ここを見てると分かる。集めすぎたんだ。名前も、記録も、世界の傷も。救うつもりで集めて、守るつもりで閉じ込めて、そのうち世界ごと本に入れたくなったのかもしれない」

 セイは、ハナンでのセシルを思い出した。

 救いたかった。

 そして、消そうとした。

 大魔導師ファティマも、同じような場所へ行ったのだろうか。

 〈大きな神〉に世界を所有させないために、別の形で世界を所有しかけたのだろうか。

 セイは本を抱く手に力を込めた。

 もし、自分が〈創造の書〉に辿り着いたら。

 失われたものを戻せると言われたら。

 この都市の壁に刻まれた名前を全部救えると言われたら。

 自分は何をしてしまうのだろう。

「セイ坊」

 アズィーザが呼んだ。

「顔が、砂に沈みそうだよ」

「すみません」

「謝らなくていい。沈む前に気づけばいい」

 彼女は軽く笑おうとして、途中でやめた。

 壊れた窓から、太陽神殿の塔が見えている。

 塔の根元には、書庫へ続く大扉があった。扉の上には猫の印と太陽の印、そして開いた本の印が重なっている。

 アズィーザはその扉を見て、息を呑んだ。

「ナジムの地図にあった印だ」

「ここが、目的地?」

「たぶんね」

 彼女の声は、また硬くなった。

 二人は研究施設を出て、太陽神殿へ向かった。

 神殿の階段は長く、ところどころ崩れていた。金色の石材は砂をかぶり、足を置くたびに細かな砂が滑る。セイは何度か転びそうになり、アズィーザに支えられた。

「ファティマがいれば、今ごろ何か言ってますね」

「階段が長い、神殿なら昇降機をつけろ、とか?」

「言いそうです」

「あと、猫像が多すぎて圧を感じる、とかね」

「それも言いそうです」

 セイは少しだけ笑った。

 でも、笑った瞬間、いないことがもっとつらくなった。

 ファティマなら、きっと怖がりながらも文句を言った。猫像と目を合わせないようにしながら、でも興味に負けて台座を読もうとした。セイが暗い顔をしていたら、無理にでも突っ込んでくれたかもしれない。

 彼女は、ただの本の声ではない。

 ただの案内役ではない。

 セイがこの世界で出会った、最初の相棒だった。

「ファティマを取り戻したいです」

 セイは思わず言った。

 アズィーザは足を止めなかった。

「そうだね」

「でも、取り戻すって言葉が怖いです」

「怖がったままでいい」

「はい」

「ただし、取り戻すって言うなら、何を取り戻すのか見失うな。魔本の人格か。猫耳の相棒か。大魔導師の残響か。あの子自身が望む名前か」

 セイは胸を押さえた。

「ファティマ自身」

 口にしてから、その難しさに気づく。

 ファティマ自身とは何なのか。

 欠けた記録を持つ彼女。

 大魔導師の残響を抱く彼女。

 〈ファティマの書〉の人格である彼女。

 それでも、笑ったり怒ったり怖がったりする彼女。

 どれか一つだけを取り出すことはできない。

「それを探すんだろう」

 アズィーザは言った。

「この黄金都市で」

 神殿の扉の前に着いた。

 扉は巨大だった。人の背丈の何倍もあり、黄金の表面には無数の名前が細かく刻まれている。中央には、猫の形をした鍵穴があった。

 その前に、何かが落ちていた。

 布切れ。

 砂にまみれた古い布。

 アズィーザが一瞬で動きを止めた。

 セイは彼女を見る。

 アズィーザの顔から血の気が引いている。

 彼女はゆっくり膝をつき、その布切れを拾った。

 布には、薄い刺繍が残っていた。

 星と砂猫の印。

「ナジムの外套……」

 声が、ほとんど音になっていなかった。

 アズィーザは布を握りしめる。

 いつもの軽口も、笑みも、何もない。

 金目の物なら目を輝かせる怪盗が、黄金の神殿の前で、ただ古い布切れを抱えていた。

 この都市に来たのだ。

 ナジムは。

 少なくとも、この扉の前までは。

 セイは何も言わなかった。

 言葉をかければ、何かを壊してしまいそうだった。

 アズィーザはしばらく布切れを見つめていた。

 やがて、震える息を吐く。

「宝だらけだね、この街は」

 その声は、笑おうとしていた。

 でも、笑えていなかった。

「金の塔。神殿。古代魔導具。焼け残った写本。きっと外へ持ち出せば、どれも値がつく」

 彼女は布切れを胸元に当てた。

「でも、あたしが今一番盗みたいのは、これが何を見たのかって記録だ」

 セイは静かに頷いた。

 この都市の宝は金ではない。

 失われた名と記録だ。

 誰がここへ来たのか。

 誰が消えたのか。

 何を守ろうとして、何を閉じ込めたのか。

 その答えこそが、この黄金都市の本当の宝だった。

 その時、セイの腕の中で〈ファティマの書〉が震えた。

 今までより強く。

 冷たかった表紙に、ほんのわずかな熱が戻る。

 頁が、自ら一枚めくれた。

 そこには、古い文字が浮かび上がっていた。

 ――名を持つ者は、扉の前で問われる。

 ――取り戻したいものを述べよ。

 ――ただし、返されたものが同じ形とは限らない。

 セイとアズィーザは、同時に扉を見上げた。

 猫型の鍵穴の奥で、紅と金の小さな光が瞬いた。

 ファティマの瞳と同じ色。

 セイは本を抱きしめる。

「ファティマ」

 今度は、ほんのかすかに返事があった。

 声ではない。

 頁の震え。

 温度。

 それでも、確かに何かが応えた。

 セイの胸に、少しだけ力が戻る。

 アズィーザはナジムの布切れをしまい、短剣ではなく、首元の形見に触れた。

「行くよ、セイ坊」

「はい」

「この扉の向こうに、金より高いものがある」

 彼女の目に、いつもの光が少し戻っていた。

 ただし、それは宝石を狙う怪盗の光ではない。

 失われた名を追う者の光だった。

 セイは頷き、〈ファティマの書〉を扉の前へ差し出した。

 黄金都市アウロの庭は、砂の下で長く眠っていた。

 その眠りの中心で、名を刻んだ扉が、静かに開こうとしていた。

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