第四章 砂のワーム
月牙の泊まり場を出る朝、湖は薄い金色に光っていた。
夜のあいだ水面に揺れていた三日月はもうなく、東の空から昇る太陽が、湖を浅い火の皿のように染めている。旅人たちはまだ眠たげな顔で水袋を満たし、隊商の獣たちは長い首を揺らしながら低く鳴いた。砂漠神を祀る老人は、門のそばの顔のない神像へ最後の水を一滴落とし、地図売りは寝ぼけ眼の遺跡漁り相手に「朝一番の地図はよく当たる」と怪しい売り文句を並べている。
アズィーザは、宿の中庭の隅で三枚の地図断片を広げていた。
一枚は、彼女がもともと持っていた古い羊皮紙。端が焼け、中央には金色の砂で描かれたような線が走っている。
一枚は、前夜、地図売りから半ば脅すように値切ったもの。彼自身は偽物だと言っていたが、砂丘の形と星の位置だけは妙に詳しい。
最後の一枚は、片目の魔導書商人から買った焼け写本の裏表紙に貼りついていた薄い紙片だった。そこには、猫の横顔のような印と、読めない古代文字がわずかに残っている。
ファティマは、その猫の印をじっと見ていた。
丸い額。細い耳。尻尾を巻いた小さな姿。
ただの猫の絵のはずなのに、見ていると目を逸らせなくなる。
「これ、ボクを見てる気がする」
「印に見つめられるとは、人気者だねえ」
アズィーザは軽く言ったが、声には少し緊張が混じっていた。
セイは地図断片を覗き込む。
「この印が、大魔導師ファティマの?」
「伝承ではね」
アズィーザは金属製の細い棒で紙片を押さえた。
「砂漠の魔女は、猫の使い魔を記録鍵にしたと言われてる。猫の石像、猫の影、猫の鳴き声、猫の足跡。そういうものが出たら、アウロの庭の構文に近づいてる証拠だ」
ファティマが自分の耳を押さえる。
「猫猫言わないで。ボクは猫じゃない。猫耳少女であり魔本人格であり、今のところ砂漠で蒸れ気味の相棒です」
「説明が増えたね」
「自分でも整理中です」
セイは少し笑った。
しかし、ファティマの目元には眠れなかった疲れが残っていた。前夜、取り戻したい者たちの話をしたあと、彼女は眠ったように見えたが、何度か寝返りを打ち、知らない地名を小さく呟いていた。
アズィーザは三枚の地図を重ねる。
驚いたことに、ばらばらだった線が少しずつつながった。羊皮紙の金色の線、偽地図の星図、焼け写本の裏に残った猫の印。その三つを合わせると、月牙の泊まり場からさらに南西へ向かい、黒い岩山を越え、砂丘の谷を抜けた先に、小さな円が現れた。
円の中心には、古い文字がひとつ。
太陽にも、目にも、開いた本にも見える印。
「ここがアウロの庭?」
セイが尋ねる。
アズィーザは首を振った。
「たぶん、入口のひとつだ。黄金都市そのものは砂の下にある。けど、砂の下へ行く道は、いつも同じとは限らない。地図は場所を示すんじゃなく、条件を示すことがある」
「条件?」
「月の形、風の向き、砂嵐のあと、誰が持っているか、何を忘れていないか。砂漠の古い地図は、そういう面倒なものを含む」
「地図なのに」
「いい地図ほど面倒なのさ」
アズィーザは地図断片を慎重に畳んだ。
その時、ファティマがぼんやりと呟いた。
「猫が座る門。乾いた水路。太陽を食べた塔……」
セイはすぐに彼女を見る。
ファティマは自分の口を押さえた。
「今の、ボク?」
「うん」
「知らない。知らないけど……」
彼女の顔色が悪くなる。
アズィーザは地図をしまいながら言った。
「いい。覚えておく。追うのは地図、呑まれるな記憶。何度も言うけど、見えるもの全部に足を向けるな」
「うん」
ファティマは小さく頷いた。
けれど、その瞳はまだ揺れていた。
集落を出る時、砂漠神の老人が三人を見送った。
老人は顔のない神像のそばに座り、乾いた指で砂に円を描いていた。アズィーザが軽く手を上げると、彼はその円の中心に点を打った。
「金砂の娘。今日は風が沈む」
「それはいい風? 悪い風?」
「沈む風だ」
「相変わらず分かりにくいねえ」
老人はセイを見た。
そして、ファティマを見た。
「猫を追うな。猫に追われる時は、名を呼べ」
ファティマの耳が立つ。
「誰の名?」
「自分の名。隣の者の名。戻りたい場所の名。ただし、死者の名だけで杭を打つな。死者は優しい顔で、深い砂へ連れていく」
セイの胸が冷えた。
セシルの名が、心の奥で揺れる。
老人はそれ以上何も言わず、顔のない神像へ水を垂らした。
砂漠は、朝から暑かった。
月牙の泊まり場を離れると、水の匂いはすぐに薄れた。集落の煙も、獣の鈴の音も、旅人たちの声も、砂丘を二つ越えるころには消えてしまった。残るのは、風が砂を撫でる音と、三人分の足音だけだった。
アズィーザは先頭を歩く。
杖で砂を叩き、時々膝をついて地面を確かめる。
「ここは硬い。古い道が埋まってる」
「道?」
セイが足元を見る。砂しかない。
アズィーザは杖で浅く掘った。砂の下から、平たい石の端が現れる。そこには、かすかに模様が刻まれていた。太陽のようにも、花のようにも見える。
「昔の巡礼路か、都市へ物資を運ぶ道か。アウロの庭は、ただの伝説じゃない。かつては人が行き来してた」
「こんな場所に都市があったんですね」
「砂漠は昔から砂漠とは限らない。水路があり、市場があり、学者がいて、魔導書を抱えた連中が喧嘩してたかもしれない」
ファティマが小さく反応した。
「写本師の通り……」
「ファティマ?」
「ううん。何でもない」
彼女はすぐに首を振った。
セイは問い詰めなかった。
だが、その言葉も覚えた。
写本師の通り。
砂丘の谷を進むにつれ、風が強くなった。
最初は足元の砂が流れる程度だった。次に、細かい砂粒が外套を叩き始める。やがて、前方の空が薄茶色に濁り、太陽がぼやけた。
アズィーザがすぐに振り返る。
「砂嵐が来る。布を締めな。目と口を守れ」
「急に?」
「砂嵐は招待状を出さない」
アズィーザは慣れた手つきでセイの頭布を締め直し、ファティマの耳を覆う布も固定した。
「耳がつぶれる!」
「耳が砂で埋まるよりいい」
「それは嫌!」
「なら我慢」
風が音を奪っていく。
三人は低い岩陰へ向かった。だが、そこまでの距離が遠く感じた。砂が横から叩きつけ、視界はどんどん狭くなる。数歩先のアズィーザの背中すら、揺れる布の塊にしか見えない。
セイはファティマの手を握った。
ファティマは一瞬驚いたが、すぐに握り返した。
「離れないで」
セイが言うと、ファティマは布の下でくぐもった声を返す。
「セイも」
砂嵐の中で、何かが見えた。
最初は岩だと思った。
黒い影が、砂の向こうに並んでいる。だが近づくと、それは柱だった。半分埋もれた列柱。倒れた門。乾いた水路の縁。
遺跡だ。
砂嵐に隠れていたのか、それとも砂嵐が砂を剥いで見せたのか。
アズィーザが風の中で叫んだ。
「こっちだ! 遺跡の影に入る!」
三人は倒れた壁の陰へ滑り込んだ。
壁は黒い石でできていたが、表面には金色の薄い線が残っている。砂に削られてほとんど消えているものの、その線は猫の足跡のように見えた。
ファティマが震える手で壁に触れた。
「ここ……」
「知ってる?」
セイが尋ねる。
「知らない。でも、怖い」
風が唸る。
砂粒が壁を叩き、乾いた音を立てる。
遺跡の奥には、小さな石像が並んでいた。
猫の形をした石像。
何体も。
砂に半分埋まり、首が欠けたもの、耳が折れたもの、金の塗料が残るもの。どれも同じ方向を見ている。
砂嵐の向こう、さらに奥。
アズィーザの顔から軽い笑みが消えた。
「猫の門だ」
「門?」
「アウロの庭に近づいた証拠だ。地図断片にあった印と同じ」
ファティマは石像へ近づいた。
セイは止めようとして、思い直す。
彼女は追いかけているわけではない。確かめようとしている。
ファティマは、一番大きな猫像の前で膝をついた。
石像の首には、金色の輪が刻まれている。首輪だ。輪の中央には、小さな本の印。
ファティマは息を呑んだ。
「ボクの首輪と……似てる」
彼女の首には、金の首輪と小さなコインがある。
セイも見比べた。確かに似ていた。模様の細部は違うが、輪の中心に本を示す印がある。
アズィーザは石像の台座を覗き込んだ。
「文字がある。読みにくいね」
セイも見る。
古代文字は砂に削られている。だが、一部だけファティマが声に出した。
「記録猫……戻り道を……忘れた者を……門へ……」
自分で読み上げてから、ファティマは青ざめた。
「読めた」
「読めたね」
アズィーザは静かに言った。
「大魔導師ファティマの印に反応してる」
「ボク、こんな文字、習ってない」
「知ってるんじゃない。記録が引き出されてるんだろうね」
ファティマは両手で自分の胸を押さえた。
「嫌だ。勝手に出てくるの、嫌だ」
セイは彼女の隣にしゃがんだ。
「ファティマ」
名前を呼ぶ。
ファティマは震えながら、セイを見た。
「ボク、ファティマ」
「うん」
「大魔導師じゃない。猫の石像でもない。ボクは、セイと旅してるファティマ」
「うん」
ファティマは何度か呼吸をした。
その間にも、砂嵐は強くなっていく。遺跡の壁が震え、猫像の耳に積もった砂が流れ落ちた。
その時、風の音が消えた。
完全に。
砂嵐のただ中で、音だけが抜き取られた。
アズィーザが瞬時に身を低くした。
「動くな」
声は小さい。
けれど、命令だった。
セイは息を止める。
ファティマも震えながら身を縮めた。
音が消えた砂漠。
アズィーザが教えてくれた。
音が消えたら止まる。
何かが、砂の下を通っている。
足元の砂が、かすかに盛り上がった。
遺跡の外、砂丘の斜面が波打つ。
次の瞬間、百メートルはある巨大な影が、砂の下でうねった。
セイは一瞬、それを地面そのものが動いたのだと思った。
違った。
生き物だった。
砂の海を泳ぐ、巨大なワーム。
頭部は砂の下に隠れているが、背の一部だけでも家ほどの高さがある。輪のような硬い節が連なり、その隙間から砂が滝のように流れ落ちている。身体の表面には、自然の甲殻とは思えない金色の線が走っていた。古代文字に似た構文。防衛印。猫像の台座に刻まれていたものと、同じ系統の光。
「でか……」
ファティマの声が消えかけた。
アズィーザは短剣ではなく、腰の鏡を抜いた。
「砂喰いのワームだ。でも、普通じゃない。構文を喰ってる」
「構文を?」
「アウロの庭の防衛構文に取り込まれてる。近づくものを、砂ごと呑む門番だ」
ワームの身体が遺跡の外を回る。
砂嵐は、風ではなくワームの動きで起きていた。巨大な身体が砂を押し上げ、吸い込み、吐き出しているのだ。
その頭部が、ゆっくり現れた。
口は円形だった。
幾重もの歯のような硬い板が輪になり、その奥に暗い穴が開いている。口の周囲には、砂を吸い込む渦が生まれていた。空気、砂、石片、折れた柱の欠片が、吸い寄せられていく。
セイは背筋が凍った。
あれは、食べるというより、回収している。
遺跡片も、砂も、旅人も、全部を同じように吸い込む。
アズィーザが低く言った。
「逃げ道を探す」
「ありますか」
「今から盗む」
「またそれ」
「冗談じゃないよ」
彼女は鏡を光らせ、猫像の一体へ反射させた。
金の首輪の印が淡く光る。
遺跡の壁の一部に細い線が浮かんだ。隠し通路かもしれない。
「よし、あそこへ」
アズィーザが指示した瞬間、ワームが動いた。
巨体が砂の下へ潜り、次の瞬間、遺跡の足元から吹き上がる。
壁が割れた。
猫像が一体、砂と一緒に宙へ舞う。
空気が吸い込まれた。
セイの身体が浮く。
「セイ!」
ファティマが叫んだ。
セイは柱の残骸にしがみついた。だが、砂が足元から流れていく。柱そのものが抜けかけていた。
アズィーザが縄を投げる。
縄がセイの腕に絡む。
「掴みな!」
セイは必死に掴んだ。
ファティマが〈ファティマの書〉を開こうとする。
「ライラ――!」
だが、その瞬間、猫像の金の首輪が一斉に光った。
ファティマの身体が硬直する。
紅と金の瞳が、深い金色へ沈む。
「門番構文……記録猫認証……侵入者……帰還者……」
声が変わった。
ファティマではない声が混じる。
セイは砂に引きずられながら叫んだ。
「ファティマ!」
ファティマはセイを見ている。
助けようとしている。手を伸ばそうとしている。
けれど、動けない。
大魔導師ファティマの残響が、猫像とワームの防衛構文に反応して、彼女の中を暴走しているのだ。
「だめ……ボク、動いて……セイが……」
ファティマの声と、古い女の声が重なる。
「帰還路は閉じられた。記録なき者を呑み、名ある者を測り、門へ送る」
「違う! ボクはそんなこと――」
ファティマは頭を押さえて膝をついた。
〈ファティマの書〉の頁が勝手にめくれ、砂色の光を放つ。
アズィーザが歯を食いしばった。
「本猫!」
だが、彼女もセイを引き戻すので精一杯だった。
ワームの口が近づく。
吸引が強くなる。
砂が流れる。
遺跡の床が川のように崩れ、セイとアズィーザの身体が引き寄せられていく。
「アズィーザ、離して!」
セイが叫ぶ。
「離したら坊やだけ呑まれる!」
「このままだと二人とも!」
「なら二人で文句を言いながら落ちる!」
「嫌です!」
「選んでる暇はない!」
アズィーザは短剣を遺跡の石床へ突き立てた。火花が散る。
だが、石床ごと剥がれた。
ワームの口が開く。
中は暗い穴ではなかった。
砂の渦だった。
無数の砂粒が回転し、遺跡片や骨の欠片や古い布切れが混ざっている。吸い込まれたものは噛み砕かれるのではなく、流れの中へ落とされ、どこかへ運ばれていく。
防衛構文。
門番。
呑み込み、測り、送るもの。
セイは、恐怖の中でそれを理解した。
このワームは、ただの怪物ではない。
アウロの庭へ近づく者を、砂の下へ選別する仕組みにされている。
ファティマが叫んだ。
「セイ! アズィーザ!」
彼女は手を伸ばす。
だが、猫像の光が強まり、彼女の身体を縛るように砂色の文字が浮かんだ。
「ごめん、動けない、ボク、助けたいのに――」
セイは最後に、ファティマの顔を見た。
泣きそうな顔。
自分が壊れた記録かもしれないと怯えながら、それでもセイを助けようとする相棒の顔。
「ファティマ!」
名前を呼んだ。
戻るための杭として。
砂に流されないために。
その直後、セイとアズィーザはワームに呑み込まれた。
世界が砂になった。
息ができない。
上下が分からない。
身体が回る。
砂が口布の隙間から入り、目を閉じてもまぶたの裏まで砂が染み込むようだった。アズィーザの縄がまだ腕に絡んでいる。彼女が近くにいるのは分かったが、姿は見えない。
音はない。
ただ、身体の内側で血の音だけが鳴っている。
セイは何かにぶつかり、また流された。
柔らかい砂。硬い石。何かの骨。布。金属片。
ワームの体内は、生き物の腹というより、巨大な砂時計の中だった。流れがある。吸い込まれたものが、内部の砂流に乗って下へ、さらに下へ落ちていく。
セイは〈ファティマの書〉を探そうとした。
鞄はある。肩にまだ引っかかっている。
だが、手を伸ばした瞬間、砂流が身体をひねった。
アズィーザの声がかすかに聞こえた。
「セイ坊! 息を止めすぎるな! 布越しに少しずつ!」
「無理――!」
「無理でもやれ!」
さすが砂漠の怪盗だと思った。
ワームに呑まれても指示が飛んでくる。
だが、その声もすぐに遠のく。
砂流が二人をまとめて飲み込み、急に足元がなくなった。
落下。
セイは叫んだつもりだったが、声は砂に消えた。
身体が空へ投げ出される感覚。
いや、空ではない。
下へ落ちている。
ワームの体内の砂流から、さらに深い穴へ。
最後に、金色の光が見えた気がした。
そして、何も分からなくなった。
目を覚ました時、最初に感じたのは冷たさだった。
砂漠の昼の熱ではない。
夜の冷えとも違う。
石の底から染み上がるような、古い冷たさ。
セイは咳き込みながら身体を起こした。口の中に砂が入っている。頭が痛い。腕も痛い。鞄は胸のあたりにあり、紐がねじれていた。
「……ファティマ?」
最初に呼んだのは、その名だった。
返事はない。
胸がざわつく。
「ファティマ!」
やはり返事はない。
代わりに、少し離れた場所で咳き込む声がした。
「生きてるよ、こっちはね……全身が砂袋になった気分だけど」
アズィーザだった。
彼女は砂の上に倒れており、片腕で身体を起こしながら口布を外した。髪にも外套にも砂が入り込み、いつもの軽やかさは半分ほど埋まっている。
セイはほっとした。
そして、すぐに不安が戻った。
「ファティマがいません」
「見れば分かる」
アズィーザは周囲を見回した。
そこは、砂の下の空洞だった。
天井は高く、どこまでも暗い。巨大な洞窟のようだが、自然の洞窟ではない。壁面には、透明な膜のようなものが張り巡らされ、外側から押し寄せる砂の圧力を受け止めている。膜の向こうで、砂がゆっくり流れていた。
空洞の床には、ワームが吐き出したらしい砂丘がいくつもあり、そこにセイとアズィーザは落ちたのだろう。近くには遺跡の柱の欠片、古い壺、骨、朽ちた革袋、金属片が散らばっている。
ファティマの姿はない。
セイは震える手で鞄を開けた。
〈ファティマの書〉は入っていた。
けれど、いつもの温かさがない。
表紙は冷たかった。
「ファティマ」
セイは本に触れて呼ぶ。
返事はない。
頁もめくれない。
まるで、眠っているのではなく、遠く閉ざされているようだった。
アズィーザが近づき、表紙を一瞥する。
「人格が応答しないのか」
「たぶん……」
セイの声は震えた。
ファティマは外に残されたのか。ワームに呑まれなかったのか。倒れたままなのか。大魔導師ファティマの残響に縛られたままなのか。
考えるほど、胸が苦しくなる。
セイは本を抱えた。
その時、遠くで光が揺れた。
アズィーザが短剣に手をかける。
セイも顔を上げた。
空洞の奥。
暗闇の向こうに、金色の光が見える。
最初は、また蜃気楼だと思った。
だが、ここは砂の下だ。熱の揺らぎではない。
光は動かない。
むしろ、あまりにも静かだった。
セイとアズィーザは、砂丘を越えた。
一歩。
また一歩。
砂の斜面を登りきった時、視界が開けた。
そこに、都市があった。
砂の下の巨大な空洞に、黄金の都市が広がっていた。
塔が立っている。
黄金の塔。
砂に半分沈みながらも、まだ光を返す塔。
その中心には、太陽を模した神殿があった。丸い祭壇と、放射状に伸びる回廊。乾いた水路が都市を縫うように走り、橋の下には水ではなく細かい砂が溜まっている。
家々の壁には古い文字が刻まれ、崩れた広場には猫型の石像が何十体も並んでいた。
いくつかの建物は焼け落ち、そこには黒い頁のようなものが山になっている。
遠くには、見えない膜が都市全体を包んでいた。外の砂を受け止める透明なドーム。そこに金色の構文が走り、今もかろうじて都市を守っている。
完全な廃墟ではない。
だが、生きている都市でもない。
眠っている。
長い長い時間、砂の下で。
アズィーザが、声を失った。
いつもなら、金だ、宝だ、値がつく、と笑うはずだった。
けれど、彼女は何も言わなかった。
首元の紐飾りを握り、ただ都市を見ていた。
「ナジム……」
かすかな声。
セイは聞こえたが、何も言わなかった。
彼もまた、言葉を失っていた。
黄金都市アウロの庭。
伝承の中で語られていた場所。
大魔導師ファティマの旧拠点。
〈創造の書〉へ至る入口。
砂漠が埋めたもの。
忘れられた名の眠る場所。
セイは腕の中の〈ファティマの書〉を抱きしめた。
ファティマは答えない。
でも、この都市は、彼女の名を呼んでいるようだった。
砂の下の空洞に、黄金の光が静かに満ちている。
その光の中で、セイは初めて、世界の傷の底へ落ちてきたのだと知った。




