第三章 取り戻したい者たち
夢の中で、ハナンの聖堂は崩れていなかった。
白い石の柱はまっすぐに立ち、天井の薔薇窓からは午後の光が差し込んでいる。赤と白の硝子を通った光が床へ落ち、花びらのような模様を作っていた。長椅子には誰もいない。祈りの声も、町のざわめきも、怪盗の足音も、禁書の頁がめくれる音もなかった。
ただ、薔薇の香りだけがしていた。
セイは聖堂の中央に立っていた。
肩には鞄がない。手には〈ファティマの書〉もない。足元には黒い霧も、割れた石も、混沌へ沈む穴もない。
ここは、あの出来事が起きる前の聖堂だ。
そう理解した瞬間、胸が苦しくなった。
祭壇の前に、セシル・ローズが立っていた。
白い衣。盲いた目。穏やかな微笑。翼をもがれた背中の傷は衣の下に隠れている。手には杖を持っていない。まるで、何も起きなかった日の午後、祈りを終えて訪問者を迎える司教そのものだった。
「セイさん」
セシルが言った。
その声は、記憶の中と同じだった。
優しく、静かで、少しだけ寂しい。
セイは言葉を失った。
呼びたかった。謝りたかった。どうして、なぜ、僕は、あなたを、と言いたかった。
けれど喉が動かない。
セシルはゆっくり歩み寄る。彼の足音はしない。光の上を歩いているようだった。
「また、難しい顔をしていますね」
セイは首を振ろうとした。
違う。難しい顔なんかではない。もっとひどい顔をしているはずだ。
セシルは微笑んだまま、薔薇窓の光を見上げる。見えないはずの目で、それでも光を感じているようだった。
「この聖堂が、崩れる前に戻れたなら」
その言葉に、セイの胸が凍った。
セシルは穏やかに続ける。
「わたくしが〈ドゥローの禁書〉へ手を伸ばす前に戻れたなら。ハナンが混沌へ沈みかける前に戻れたなら。わたくしがまだ司教として祈っていた、この時間へ戻れたなら」
彼はセイへ顔を向けた。
「もしやり直せるなら、あなたはどうしますか」
セイは答えようとした。
止めます。
そう言えばいいはずだった。
セシルが禁書に触れないようにする。〈ドゥローの禁書〉を奪う。アリアにもっと早く伝える。ハナンの人々を避難させる。自分が魔本を開かずに済む方法を探す。
いくらでも言えそうだった。
なのに、一つも言えなかった。
やり直せるなら。
その言葉は甘かった。
あまりにも甘くて、怖かった。
やり直せば、セシルは死なないかもしれない。聖堂は崩れないかもしれない。ハナンの人々は彼の名を忘れかけずに済むかもしれない。セイは罪悪感を抱えずに済むかもしれない。
けれど、その世界では、セシルが間違えたことも、間違えながらも救いたかったことも、最後に自分の罪を知って「覚えていてください」と言ったことも、消えてしまうのだろうか。
アリアが渡してくれた形見も、聖堂跡に咲いた白と赤の薔薇も、なかったことになるのだろうか。
セイが、忘れないと決めたあの重みは、どこへ行くのだろうか。
「僕は……」
声がかすれた。
セシルは待っていた。
責めるでもなく、急かすでもなく。
ただ、穏やかに。
「僕は、戻したいです」
やっと出た言葉は、それだった。
認めた瞬間、涙がこみ上げた。
「戻したい。セシルさんに生きていてほしい。あんなふうに消えてほしくなかった。僕がもっと早く気づけば、もっと上手く魔本を使えていたら、セシルさんを止められて、でも消さずに済んだかもしれない。戻せるなら、戻したい」
セシルは、静かに聞いていた。
「でも」
セイは拳を握る。
「戻すって、何を戻すことなんですか。セシルさんが間違えなかったことにするんですか。ハナンが傷つかなかったことにするんですか。僕が何もできなかったことも、アリアさんが泣いたことも、ファティマが怖がったことも、全部なかったことにするんですか」
薔薇窓の光が揺れた。
聖堂の白い柱に、かすかなひびが走る。
セシルは微笑んでいた。
だが、その輪郭が少しずつ薄くなっていく。
「セイさん」
「答えられません」
セイは言った。
「戻したいのに、戻すことが怖い。戻したいって願う自分も怖い。だって、もし本当に戻せる本があったら、僕は手を伸ばしてしまうかもしれない」
セシルは、手を伸ばした。
その手はセイの肩に触れそうで、触れなかった。
「それでよいのです」
「よくないです」
「願いがあることは、罪ではありません」
セシルの声は優しかった。
「けれど、願いを叶えるために何を消すのかを見失う時、人は救いを消去に変えてしまう」
セイは息を呑んだ。
それは、セシル自身が犯した過ちだった。
誰も苦しまない世界にしたかった。すべてを救いたかった。
けれど、その願いは町を混沌へ還すものになった。
「わたくしは、救いたかった」
セシルは言った。
「そして、消そうとした」
聖堂のひびが広がる。
薔薇窓の硝子が、音もなく割れた。赤と白の光が砕け、床へ散る。
セイは手を伸ばした。
「セシルさん!」
「もしやり直せるなら、あなたはどうしますか」
セシルはもう一度問うた。
今度は、声が遠かった。
「その問いを、どうか捨てないでください」
聖堂が崩れる。
白い柱が砂のようにほどけ、薔薇窓が光の粒となり、祭壇が遠ざかる。セイは走ろうとした。けれど足元が動かない。
セシルの姿が、最後にひとつの薔薇の聖印へ変わった。
ひびの入った、白と赤の混じった形見。
セイの手の中へ落ちる。
冷たい。
その冷たさで、目が覚めた。
宿の部屋は暗かった。
砂漠の湖畔の夜は深く、窓の外には三日月が薄い光を落としている。天井には乾いた草で編まれた梁があり、壁には小さな油灯が消えかけていた。
セイは寝台の上で身体を起こした。
胸が苦しい。息がうまく入らない。手のひらを見ると、布に包んだ薔薇の聖印を握りしめていた。いつの間に鞄から出したのか分からない。
指が白くなるほど、強く握っていた。
「セイ」
小さな声がした。
隣の寝台に、ファティマが座っていた。
膝を抱え、猫耳を伏せ、窓から入る月明かりに横顔を照らされている。彼女も眠れていなかったのだろう。外套を肩に引っかけたまま、紅と金の瞳でセイを見ていた。
「起こした?」
セイが尋ねると、ファティマは首を振った。
「ボクも起きてた」
「眠れなかったの?」
「うん。寝ると、知らない町が出てくる。白い猫が歩いてる。誰かが、こっちじゃないよって言う。でも声がボクに似てる気がする」
ファティマは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「セイは、夢?」
「うん」
「セシル?」
セイは黙った。
それだけで、ファティマには伝わったようだった。
彼女は寝台から降り、セイの隣へ来た。いつものように勢いよく飛び乗るのではなく、そっと腰を下ろす。
部屋の外では、夜の集落の音がかすかにしていた。遠くの獣の鈴。湖の水が岸に触れる音。誰かが低く祈る声。
ファティマは、しばらく聖印を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「ご主人様は、セシルを戻したい?」
その呼び方が、今夜は冗談に聞こえなかった。
セイはすぐに答えられなかった。
夢の中でなら、言えた。戻したい、と。けれど目を覚ました今、その言葉はもっと重かった。
戻したい。
その気持ちは確かにある。
セシルにもう一度会いたい。あの穏やかな声を聞きたい。禁書に触れる前の彼を止めたい。町が壊れる前に、聖堂が崩れる前に、すべてを変えたい。
だが、戻すとは何をすることなのか。
セシルが間違えた事実を消すのか。
彼が最後に自分の罪を知ったことも消すのか。
アリアが形見を渡してくれたことも、セイが忘れないと決めたことも、なかったことにするのか。
セイは聖印を見つめた。
ひびの入った薔薇。
これは、壊れた出来事のかけらだ。
壊れているからこそ、重い。
「戻したい」
セイは、ゆっくり言った。
ファティマの耳が少し動く。
「戻したいよ。できるなら、戻したい。セシルさんに生きていてほしい。あんなふうに消えてほしくなかった。僕が魔本を開いたことで戻れなくなったんじゃないかって、今でも思う」
声が震えた。
ファティマは何も言わずに聞いていた。
「でも、戻したら、セシルさんが死んだ世界ごと消えてしまうのかもしれない」
セイは続けた。
「セシルさんが間違えたことも、それでも救いたかったことも、最後に僕へ覚えていてほしいと言ったことも。全部、なかったことになるのかもしれない。そう思うと、怖い」
ファティマは膝を抱えた。
「戻したい気持ちは、悪いのかな」
「分からない」
「ボクは、悪くないと思う」
ファティマは小さく言った。
「戻したいって思うのは、きっと悪くない。セシルを大事に思ってるからだもん。ナディールがクラウディアを姉様って呼びたかったのも、悪い気持ちじゃなかった。アズィーザがナジムを探すのも、悪いことじゃない」
「うん」
「でも、悪くない気持ちが、全部いい結果になるわけじゃないんだよね」
ファティマの声は沈んでいた。
「セシルも、救いたかったんだよね」
「うん」
「それで、町を消しそうになった」
「うん」
短い返事を重ねるたび、セイの胸に痛みが戻る。
ファティマは自分の胸に手を当てた。
「ボクも、分からない」
「何が?」
「もしボクが壊れた記録なら、完全に直してほしいのかどうか」
セイは彼女を見た。
ファティマは視線を落としている。
「エムに壊れた本って言われた時、すごく嫌だった。直せるなら直したいって、ちょっと思った。欠けてるところが埋まって、知らないのに知ってる変な感じがなくなって、ボクが何者かはっきりするなら、それはいいことみたいに思える」
「うん」
「でも、完全に直ったボクが、今のボクじゃなくなったら?」
ファティマの声が震えた。
「大魔導師ファティマの記録でいっぱいになって、セイと草原で会ったことも、ハナンで怖がったことも、ゼフィ=ラウで尻尾を焦がしたことも、クラウディアの羽をかっこいいって言ったことも、全部、ただの余計な頁みたいに整理されたら?」
「ファティマ」
「完全な本になるって、ボクがボクじゃなくなることなのかな。壊れてるままの方が、ボクなのかな。でも、壊れてるのは怖い。知らない声が出るのも怖い。昨日の伝承を聞いた時も、知らないのに知ってる気がして、すごく怖かった」
ファティマは顔を上げた。
目に涙が浮かんでいた。
「セイ。ボクを直してほしい?」
セイは息を止めた。
それは、セシルを戻したいかと同じくらい重い問いだった。
ファティマを完全にしたい。
欠けた記録に怯えなくていいようにしたい。知らない声に苦しまなくていいようにしたい。
そう思う。
けれど、完全になったファティマが、今ここで膝を抱えている彼女ではなくなるなら。
それは救いなのだろうか。
セイは、すぐには答えなかった。
答えないことが、逃げではなく、彼女を勝手に決めないために必要だと思った。
「分からない」
セイは言った。
ファティマは泣きそうな顔で笑った。
「今日は分からないばっかりだね」
「うん」
「でも、今、分かったって言われるよりはいいかも」
ファティマは目元を袖で拭いた。
セイは聖印を握ったまま、静かに言った。
「ファティマが苦しまなくていいなら、直したいって思う。でも、それで今のファティマが消えるなら、それは嫌だ」
「わがままだね」
「うん」
「ボクも、わがまま」
ファティマは小さく息を吐く。
「怖いのは嫌。欠けてるのも嫌。でも、セイと旅したボクが消えるのはもっと嫌」
部屋の外で、風が吹いた。
砂の粒が窓枠を叩く。
セイはその音を聞きながら、夢の中のセシルの問いを思い出した。
もしやり直せるなら、あなたはどうしますか。
答えは出ない。
でも、その問いを捨ててはいけない。
ファティマがふと顔を上げた。
「アズィーザ、起きてるかな」
「たぶん」
「聞いてたかな」
「え?」
セイが振り向いた瞬間、窓の外から声がした。
「半分くらいね」
ファティマが飛び上がった。
「うわっ! 怪盗! 夜中! 窓!」
窓枠に、アズィーザが座っていた。砂色の外套をまとい、片膝を立て、まるでそこが自分の椅子であるかのように自然に。
セイは額を押さえた。
「また窓から……」
「扉から入ると宿代が増えそうでね」
「増えません」
「気分の問題さ」
アズィーザは音もなく部屋へ入った。ファティマが寝台の上で尻尾を膨らませる。
「どこから聞いてたの」
「ご主人様はセシルを戻したい、あたりから」
「ほぼ全部!」
「半分だよ。人の心の半分は沈黙だからね」
「それっぽいこと言ってごまかさないで」
アズィーザは笑った。
けれど、すぐにその笑みを少しだけ引っ込めた。
「眠れないのは、あんたたちだけじゃない」
彼女は首元の紐飾りに触れた。
ナジムの形見。
その仕草だけで、セイは察した。
「アズィーザも、戻したいですか」
問いは自然に出た。
アズィーザは窓の外の三日月を見た。
しばらく沈黙する。
そして、軽く肩をすくめた。
「戻したいよ」
その言葉は、昼間の彼女なら冗談で包んだかもしれない。けれど今は違った。
「ナジムを戻せるなら戻したい。砂嵐の前に戻って、あいつの地図を燃やして、足を縛ってでも行かせない。黄金都市なんてないって怒鳴って、泣いて、殴って、閉じ込めてやりたい」
ファティマは何も言わなかった。
アズィーザは続ける。
「でも、それをしたら、あいつはあいつじゃなくなるかもしれない。黄金都市を信じて、地図を抱えて、馬鹿みたいに笑って、姉さんに朝日を見せるって言ったナジムじゃなくなる。あたしが戻したいのは、失わなかった弟なのか、失ったことをなかったことにしたい自分なのか。たまに分からなくなる」
セイの胸に、その言葉が沈んだ。
失わなかった弟。
失ったことをなかったことにしたい自分。
セシルを戻したい気持ちの中にも、同じものがある。
セシルに生きていてほしい。
そして、自分が失ったことをなかったことにしたい。
自分が魔本を開いた罪悪感から逃れたい。
その二つは、完全には分けられない。
「セイ坊」
アズィーザが言った。
「戻したいって気持ちは悪じゃない。むしろ、そう思わない方が嘘だ。死者を大切に思うなら、消えた者を覚えているなら、戻ってきてほしいに決まってる」
「はい」
「でも、その願いは砂漠の蜃気楼みたいなものだ。水に見える。近くに見える。追いたくなる。追っているうちに、自分がどこから来たのか、どこへ行くつもりだったのか、分からなくなる」
ファティマが膝を抱える。
「じゃあ、どうしたらいいの」
「分からないね」
「アズィーザまで分からないって言った!」
「大人だって分からないことはある。むしろ、分からないって知ってる分だけ少しはましさ」
アズィーザは床に腰を下ろした。
宿の部屋の小さな油灯が、三人の影を壁へ揺らす。
「取り戻したいものを持ってる奴は、強いようで弱い。形見を握ってると前へ歩ける。でも、その形見に引っ張られて、過去へ引き戻されることもある」
セイは聖印を見た。
ファティマは〈ファティマの書〉を見た。
アズィーザは弟の紐飾りを見た。
それぞれの手元に、それぞれの重みがある。
「僕は」
セイはゆっくり言った。
「セシルさんを戻したいです。でも、戻したら何が消えるのかが怖い」
ファティマが続ける。
「ボクは、完全になりたい気もする。でも、完全になったボクが今のボクじゃなくなるのは怖い」
アズィーザは少し笑った。
「あたしは、ナジムを戻したい。でも、戻したいって願いに呑まれて、あいつの生きた時間まで作り直したいのかもしれない自分が怖い」
三人は黙った。
砂漠の夜が、窓の外で静かに広がっている。
遠くで水面が揺れた。
湖に映った三日月が細く震える。
セイは、その月を見た。
欠けている。
満ちていない。
でも、欠けているから美しくないわけではない。
そんなことを思ってから、ファティマの顔を見た。
ファティマも月を見ていた。
「ねえ」
彼女が言った。
「もし創造の書が本当にあって、世界を書き直せるとして。セイは、何を最初に願う?」
セイは答えられなかった。
セシル。
ファティマ。
ハナン。
クラウディアが最初から差別されなかった世界。
ナディールが姉を隠さずに済んだ世界。
アズィーザが弟を失わなかった世界。
現代日本で、自分が学校に戻れた世界。
いくつもの願いが、一瞬で浮かんだ。
その多さに、セイはぞっとした。
世界を書き直せる力を持ったら、人はきっと一つでは止まれない。
ここも直したい。あそこも戻したい。あの人も救いたい。あの痛みも消したい。
善意の形をした欲望は、いくらでも増える。
セイは震える手で聖印を包んだ。
「分からない」
また、その答えだった。
「でも、今、すぐに願えるのは怖い」
アズィーザが頷いた。
「怖がっておきな。怖がれるうちは、まだ戻ってこられる」
「怖がれなくなったら?」
ファティマが尋ねる。
アズィーザは窓の外を見た。
「砂漠の奥で、誰かが迎えに来るかもしれないね」
「怖い話?」
「予告だよ」
その言葉に、部屋の空気が少し冷えた。
大魔導師ファティマ。
黄金都市アウロの庭。
〈創造の書〉。
それらは、まだ遠い。
けれど、もう伝説ではなく、こちらを待っている場所のように感じられた。
アズィーザは立ち上がる。
「明日は地図断片を照合する。アウロの庭へ向かうには、砂丘を越えて、骨の谷を抜ける必要がある。途中で変なものを見ても追わないこと。特に、会いたい相手が出てきたらね」
セイは息を呑む。
「出るんですか」
「砂漠は親切じゃないって言ったろ。ほしいものを見せる時がある。水。家。死んだ人。失った弟。救えなかった司教。完全な自分」
ファティマが肩を震わせた。
アズィーザは彼女を見て、少しだけ声を柔らかくする。
「見てもいい。怖がってもいい。でも、追う前に名前を呼びな。自分の名前でも、隣にいる誰かの名前でもいい。戻るための杭になる」
「杭?」
「砂に流されないための杭さ」
セイは聖印を胸に当てた。
名前。
セシル。
ファティマ。
アズィーザ。
ナジム。
取り戻したい者たちの名前。
戻せないかもしれない者たちの名前。
アズィーザが窓枠に足をかける。
「扉から出ないんですか」
セイが聞くと、彼女は振り返ってにやりと笑った。
「扉から出たら、ただの客だろ」
「客でいいと思います」
「怪盗には見栄があるのさ」
「夜中の窓から出入りする見栄って何?」
ファティマが少しだけ呆れた声を出した。
アズィーザは満足そうに笑い、風のように外へ消えた。
部屋には、セイとファティマだけが残った。
ファティマはしばらく窓を見ていたが、やがてセイの隣へ戻ってきた。
「セイ」
「うん」
「もしボクが変なものを追いかけそうになったら、名前呼んで」
「うん。ファティマって呼ぶ」
「ご主人様じゃなくて?」
「ファティマ」
彼女は少しだけ笑った。
「うん。それでいい」
「僕が追いかけそうになったら?」
「セイって呼ぶ」
「うん」
「それでも止まらなかったら、尻尾で叩く」
「痛そう」
「痛くするから効くんだよ。アズィーザが言ってた」
「真似しなくていいよ」
セイは小さく笑った。
ファティマも、今度は少し自然に笑った。
やがて彼女は寝台に戻り、外套をかぶった。
セイも聖印を布に包み直し、鞄へ戻す。けれど、すぐには手を離せなかった。
戻したい。
その気持ちは消えない。
消えなくていいのかもしれない。
問題は、その願いで何を消してしまうのかを見失わないこと。
夢の中のセシルは、問いを捨てないでくださいと言った。
セイは目を閉じた。
答えはまだない。
けれど、問いはここにある。
砂漠の集落の夜は深く、湖面に映る三日月は細い。
欠けた月の下で、取り戻したい者たちは、それぞれの形見を胸に抱きながら、眠れない夜を越えようとしていた。




