第二章 砂漠の集落
砂漠の中に湖があると聞いた時、セイは最初、それを蜃気楼の一種だと思った。
砂はどこまでも続いていた。昼の熱は足元から立ち上り、遠くの景色を水のように揺らしている。砂丘の上を歩くたびに、足は沈み、膝は重くなり、背中の鞄は少しずつ重さを増していく。アズィーザに教えられた通り、水は少しずつ飲んだ。急に飲むな。喉だけを信じるな。風の匂いを覚えろ。足跡を見ろ。砂漠は親切ではないが、嘘ばかりでもない。そう言われても、セイにはまだ風の匂いの違いなど分からなかった。ただ、乾いた空気の中に、時折、石の熱でも砂の熱でもない匂いが混じることだけは感じられた。
その匂いが濃くなり始めたころ、アズィーザが杖を立てた。
「見えたよ」
セイは顔を上げる。
最初に見えたのは、青ではなかった。低い黒褐色の岩山と、そのふもとに寄り添う泥壁の家々だった。砂色の壁、平たい屋根、風除けの布、細い煙。そこから少し離れた場所に、丸い光があった。
湖だった。
水面は大きくない。けれど、砂漠の中ではそれだけで奇跡のように見えた。三日月の形をした浅い湖が、乾いた大地のくぼみに水をたたえている。そのまわりに、背の低い棕櫚の木と、硬い葉を持つ灌木が寄り集まり、湖畔には白い鳥のようなものが数羽立っていた。風が吹くと水面が細かく揺れ、空の青を砕いて砂の上へ散らした。
ファティマが立ち止まった。
「水……本物?」
「本物だよ」
アズィーザが笑う。
「ただし、飛び込むな。砂漠の湖は、見た目ほど気前よくない」
「飛び込まないよ。ボクは上品な猫耳少女だから」
「昨日、暑いって言って砂に顔を埋めようとしてたのは誰だい」
「あれは上品な緊急避難です」
「砂漠で顔を埋めると、上品に干物になるよ」
「やめて、想像した!」
ファティマは耳を押さえた。
その仕草はいつも通りだったが、セイは彼女の声に少しだけ無理があることを感じた。砂漠に入ってから、ファティマは時々、遠くを見る。誰かが呼んだわけでもないのに、知らない地名を口にしそうになり、慌てて黙る。今も湖を見た瞬間、彼女の紅と金の瞳が一瞬だけ深く沈んだ。
セイが声をかける前に、ファティマは明るく言った。
「湖畔の集落ってことは、ご飯がある?」
「あるよ。水代と宿代と通行情報代と、場合によってはぼったくり代もある」
アズィーザが答える。
「最後のは払いたくないです」
「払わないために、あたしがいる」
「頼もしいけど、別のものを盗みそう」
「心配しなさんな。ぼったくりから値段を盗むだけさ」
「値段って盗めるの?」
「交渉次第でね」
アズィーザは楽しげに笑い、集落へ向かって歩き出した。
湖畔の集落は、《月牙の泊まり場》と呼ばれていた。正式な名は別にあるらしいが、隊商も遺跡漁りも地図売りも、みなそう呼ぶのだという。砂漠を渡る者にとって、ここは最後の大きな水場であり、黄金都市アウロの庭を目指す者たちが必ず立ち寄る中継地だった。
集落へ入る前に、アズィーザは三人を低い石門の前で止めた。門の両側には、風に削られた二本の柱が立っている。柱の上には、砂で作られたような顔のない神像が置かれていた。両手を前に伸ばし、何かを受け取るような姿勢をしている。
「ここで水場の礼をする」
アズィーザは言った。
「礼?」
「水を使わせてもらう礼。砂漠神でも湖の精でも、昔ここで井戸を掘って死んだ誰かでも、相手は何でもいい。大事なのは、ここに水があることを当たり前だと思わないこと」
彼女は首元の紐飾りに触れ、短く頭を下げた。
セイもそれにならう。ファティマは一瞬戸惑ったが、すぐに耳を伏せて小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、水の人。もしくは水じゃない人」
「雑だけど、ないよりはいい」
アズィーザが言うと、ファティマは少しむくれた。
「心は込めました」
「それならよろしい」
門を抜けると、集落の喧騒が一気に押し寄せた。
砂漠の真ん中だというのに、人は多かった。隊商のラクダに似た背の高い獣が荷を下ろし、旅人たちが水袋を抱えて順番を待っている。遺跡漁りらしい者たちは、砂まみれの革鎧を着て、折れた槍や古びた壺、石板の欠片を並べていた。占い師の老婆は、黒い布の上に骨片と金色の砂を散らし、客の影の長さを見て運勢を語っている。
道の角には、砂漠神を祀る老人がいた。顔のない小さな神像に水を一滴ずつ垂らしながら、「砂は覚える、水は忘れる」と呟いている。
その隣では、地図売りが声を張り上げていた。
「アウロの庭への道! 古代水路の写し! 砂嵐を避ける星図! 本物は高い、偽物は安い、偽物にも夢はある!」
「偽物って自分で言ってるよ」
ファティマが目を丸くする。
アズィーザは鼻で笑った。
「あいつの偽物は、たまに本物より役に立つ。なぜなら本物は古すぎて道が消えてることがあるからね」
「何を信じればいいの?」
「全部疑いな」
「それはそれで大変!」
さらに奥では、魔導書商人が低い天幕を広げていた。古びた本や巻物、壊れた封印具、魔導筆、白紙の写本、黒いインク壺が並んでいる。商人は片目に青い硝子片をはめ、客を見るたびに「失われた記録、安いよ。安い記録はだいたい失われる前から価値がないけどね」と囁いていた。
ファティマは、その天幕の前でぴたりと止まった。
商人が目ざとく彼女を見る。
「おや、かわいい猫耳のお嬢さん。魔導書に興味が?」
「興味はあるけど、怪しい」
「怪しいものほど本物に近いこともある」
「偽物が言いそう」
「よい返しだ。おまけに白紙の頁を一枚つけよう」
「いらない」
ファティマはそう言いながらも、並べられた本から目を離せなかった。
そのうち一冊は、黒く焼けた表紙をしていた。文字はほとんど読めない。だが、表紙の端に金と紅の小さな模様が残っている。
ファティマの手が、無意識にそこへ伸びかけた。
セイはそっと声をかける。
「ファティマ」
彼女ははっとして、手を引っ込めた。
「うん。見ただけ。見ただけだから」
商人はにやりと笑う。
「その本は、砂漠の魔女の写しの写しの写しの、さらに怪しい写しだよ」
ファティマの肩が揺れた。
「砂漠の魔女?」
「知らないのかい。大魔導師ファティマ。黄金都市アウロの庭にいたとされる、世界中の名前を集めた女だ」
セイはファティマを見る。
ファティマは顔をこわばらせていた。
アズィーザが二人の間に割って入る。
「その写し、いくらだい」
「金貨三枚」
「燃えかけた嘘にしては高いね」
「嘘にも灰の香りという価値がある」
「銀貨二枚」
「強盗かい」
「怪盗だよ」
「銀貨十枚」
「三枚」
「八枚」
「四枚。ついでに、その青い硝子片は偽物だね。左目が見えてないふりをしてるだけだろ」
商人の笑みが止まった。
アズィーザはさらににっこり笑う。
「五枚なら、黙っておく」
「……銀貨五枚だ」
「商談成立」
アズィーザは銀貨を投げ、焼けた写本をひょいと受け取った。
ファティマが慌てる。
「買ったの!?」
「情報料だよ。本物かどうかは別として、噂の形をしているものは持っておいて損はない」
「怪しいよ」
「怪しいからいいんだ。きれいに整ったものは、たいてい誰かが都合よく整えてる」
その言葉に、セイは空中都市で見た正史を思い出した。
整いすぎた記録。
消された名。
白い頁。
砂漠の集落には、整っていないものばかりがあった。偽物の地図、焼けた写本、半分だけ読める碑文、誰が祀られているのか分からない神像。それでも、そこには何かが残っている気配がした。
宿は湖のそばにあった。
土壁で囲まれた大きな中庭に、隊商の荷物と獣が並び、二階の回廊には旅人たちの濡れた布が干されている。宿の主人は片腕のない老女で、アズィーザを見るなり、目を細めた。
「金砂のアズィーザ。また来たのかい」
「水と寝床と、できればまともな夕飯を盗みに来たよ」
「盗むなら井戸掃除をしていきな」
「じゃあ正規料金で泊まる」
「その方が高いよ」
「井戸掃除よりは安い」
老女は鼻で笑い、三人へ部屋を割り当てた。
その日の夕方、湖のほとりでは小さな市が開かれていた。隊商が香辛料や乾燥果実を売り、遺跡漁りが掘り出した古い金具を並べ、占い師が月の満ち欠けで旅の吉凶を占っている。砂漠神を祀る老人は、湖畔の石の前に座り、子どもたちへ古い歌を教えていた。
夜になると、三日月が湖に映った。
水面に細い銀の弧が揺れる。
その光の下で、旅人たちは火を囲んだ。砂漠では夜の話が大事なのだとアズィーザは言った。昼は歩くか眠る。夜は記憶を分け合う。道の危険、失われた水場、嘘つきの地図売り、死者の墓標。そういう話が命を救うこともある。
火のそばに座ったのは、隊商の頭領、地図売り、片目の魔導書商人、砂漠神を祀る老人、占い師の老婆、遺跡漁りたち、それからセイたちだった。
誰かが大魔導師ファティマの名を出したのは、三日月がちょうど湖の真ん中へ映ったころだった。
「アウロの庭へ行くなら、砂漠の魔女を避けては通れん」
砂漠神を祀る老人が言った。
彼の声は乾いていた。風に削られた石のような声だった。
ファティマの身体が、かすかに強張った。
セイはそれに気づき、少しだけ彼女の近くへ座り直す。
老人は、火に小さな香草を投げ入れた。煙が細く上がり、三日月の光と混じる。
「大魔導師ファティマ。砂漠の魔女。黄金都市の最後の書記。魔本を編んだ女。神の頁へ指をかけた女。そう呼ばれる者がいた」
魔導書商人が笑う。
「いた、かもしれない、だ。伝承には値がつくが、確証にはもっと値がつく」
占い師の老婆が骨片を鳴らした。
「確証など、砂漠では半日で埋まるよ。語り残るなら、それもまた骨だ」
老人は構わず続けた。
「魔女は世界中の名前を集めたという。王の名も、奴隷の名も、忘れられた子の名も、消された町の名も、神が書き替えた種族の古い名も。彼女はそれらを砂漠の黄金都市へ運び、地下の書庫に隠した」
火がはぜた。
セイは、鞄の中の聖印を思った。
セシルの名。
それも、集められる名なのだろうか。
「なぜ集めたんですか」
セイが尋ねると、老人は彼を見る。
「忘れさせないためだという者もいる。神に逆らうためだという者もいる。失われた者の名を持っていれば、いつか死者を呼び戻せると信じていたという者もいる」
アズィーザの表情がわずかに変わった。
セイはそれを見逃さなかった。
死者を呼び戻す。
その言葉は、砂漠の夜に甘く危険に響いた。
老人はさらに続ける。
「魔女は〈創造の書〉を盗もうとしたとも言われる」
ファティマが息を止めた。
セイの胸も強く鳴った。
〈創造の書〉。
エムが告げた名。いつか辿り着くかもしれない本。読むのか、書くのか、閉じるのかを問われる本。
「〈創造の書〉って、本当にあるのかい」
地図売りが軽い調子で尋ねる。
「本当にあるなら、地図に描けば高く売れるんだがね」
老人は首を振った。
「地図に描けるなら、創造の書ではない。あれは場所ではない。扉だ。頁だ。世界が自分を書き替える時にだけ開く裂け目だ」
占い師の老婆が低く笑う。
「あるいは、そんなものはなく、魔女が自分の失敗を飾るために作った嘘かもしれない」
「嘘でも、向かう者はいる」
アズィーザが言った。
その声は軽くなかった。
老人は彼女を見た。
「金砂の娘。まだ探しているのか」
「探し物が多くてね」
「弟か。黄金都市か。魔女か」
「全部だよ。欲張りなんだ」
アズィーザは笑った。
笑いながら、首元の紐飾りに指を触れていた。
老人は、今度はファティマを見た。
「そして、魔女には猫がいた」
ファティマの耳がぴくりと動いた。
「猫?」
「白い猫とも、金の首輪をつけた猫とも、左右で違う目を持つ猫とも言われる。その猫に出会った者は、二度と同じ道へ戻れない。道を間違えるのではない。戻ったつもりで、違う世界へ出るのだ」
ファティマの顔から色が消えた。
セイは思わず彼女の名を呼びそうになったが、ファティマは先に笑った。
少し高い声で。
「猫って、よくある話だよね。魔女には猫。定番。ボクは猫耳少女だけど、猫そのものじゃないし。首輪も、えっと、まあ、あるけど。目も左右違うけど。偶然の一致というやつです」
「ファティマ」
セイが小さく呼ぶ。
「大丈夫。大丈夫だよ、セイ。ボク、その話、知らない」
彼女は明るく言った。
明るく言いすぎていた。
「知らない。知らないのに、知ってる気がする」
最後の言葉だけ、ぽろりと落ちた。
火の周りの何人かが彼女を見た。
ファティマはそれに気づき、すぐに顔を背けた。
「ちょっと水飲んでくる」
そう言って立ち上がる。
セイも立ち上がろうとしたが、ファティマは振り返らずに言った。
「一人で大丈夫。すぐ戻るから」
その声は、大丈夫ではない時の声だった。
セイは追いかけたかった。
けれど、無理に追えば、ファティマが隠そうとしている揺らぎを暴くことになる。
セイは拳を握り、座り直した。
アズィーザが横目で見る。
「追わないんだね」
「追った方がいいのか、分からなくて」
「分からない時に止まれるようになったなら、少し旅人らしくなった」
「褒めてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「心配してる」
アズィーザは火を見つめた。
伝承はまだ続いていた。
老人は、魔女が神に逆らった話、黄金都市の地下書庫に消された者の名を隠した話、〈創造の書〉に触れたために都市ごと砂に沈んだ話を語った。どの話も少しずつ違い、語り手によって意味が変わった。
ある者は、大魔導師ファティマを救世主として語る。
ある者は、世界を盗もうとした禁忌の魔女として語る。
ある者は、神に消された者たちの母として語る。
ある者は、ただの狂った書記だったと言う。
セイには、どれが本当なのか分からなかった。
ただ、そのどれもが完全な嘘ではないように思えた。
夜が深くなると、旅人たちは少しずつ火のそばを離れた。隊商は獣の様子を見に行き、地図売りは自分の偽地図をまとめ、魔導書商人は焼けた写本を抱えて天幕へ戻った。砂漠神の老人は、湖のほとりの神像へ水を一滴垂らし、何も言わずに去っていった。
ファティマは、少し遅れて戻ってきた。
顔は洗ってあった。水の跡が頬に残っている。
彼女はいつもの調子を作るように、両手を腰に当てた。
「砂漠の夜の伝承、なかなか演出過多だね。三日月、焚き火、老人、魔女、猫。盛りすぎ」
「うん」
セイは頷いた。
「体調は?」
「大丈夫」
即答だった。
セイはその答えを、そのまま受け取らなかった。
でも、問い詰めもしなかった。
「眠れそう?」
「眠れる。たぶん。砂漠の疲労がすべてを解決する」
「解決方法が雑だね」
「身体って偉大」
ファティマは笑った。
その笑顔は、少しだけひび割れて見えた。
セイは何も言わず、彼女の隣を歩いて宿へ戻った。
その夜、セイはなかなか眠れなかった。
宿の二階の部屋には、低い寝台が三つ並んでいた。ファティマは疲れ果てたのか、早々に横になった。眠っているように見えるが、時々耳が動く。夢の中でも何かを聞いているのかもしれない。
窓の外には湖がある。三日月が水面に揺れ、遠くで獣の鈴の音が鳴っている。
セイは鞄を開けた。
〈ファティマの書〉の隣に、布に包んだ薔薇の聖印がある。
取り出す。
ひびの入った薔薇の形。白と赤が混じった記憶。
ハナンの聖堂。セシルの声。どうか、覚えていてください。
セイは聖印を手のひらに乗せた。
冷たい。
砂漠の夜の冷えとは違う、内側へ染み込む冷たさだった。
「眠れないかい」
窓の外から声がした。
セイは驚いて顔を上げる。
アズィーザが窓枠の外に腰かけていた。二階である。
「どこから来たんですか」
「窓から」
「どうやって」
「怪盗だから」
「説明になってないです」
「説明しない方が価値が上がる技術もある」
アズィーザは軽く身を滑らせ、音もなく部屋へ入った。ファティマの寝息を確認し、声を落とす。
「外で話すかい。月がある」
セイは少し迷い、聖印を布に包み直さず、そのまま手に持った。
二人は宿の屋上へ上がった。
屋上には低い壁があり、湖と集落の灯りが見えた。砂漠の夜風は冷たい。昼の熱が嘘のようだった。
アズィーザは屋上の縁に座り、首元の紐飾りを外した。
古い砂漠石、金貨の欠片、猫のようにも星のようにも見える小さな刻印の入った金属板。
「それ、ナジムさんの」
「形見だよ」
アズィーザはあっさり言った。
けれど、その指は慎重だった。宝石を扱う時より、ずっと丁寧だった。
「今日の老人、ナジムを知ってたんですか」
「知ってた。あの爺さんは、この集落に来た旅人の顔をだいたい覚えてる。覚えてるだけで、助けてくれるとは限らないけどね」
「ナジムさんは、ここへ来たんですね」
「ああ」
アズィーザは湖を見た。
「ここで最後に水を補給した。大魔導師ファティマの伝承を聞いて、地図を買って、隊商に止められて、それでも出ていった。あたしが追いついた時には、もう砂嵐のあとだった」
セイは黙って聞いた。
「ナジムはね、夢見がちな馬鹿だった」
アズィーザは笑った。
「砂漠育ちのくせに、砂漠の怖さより伝説の方を見てた。黄金都市を見つけたら、姉さんに一番高い塔から朝日を見せてやるって。あたしはそんなものより、無事に帰ってきて水袋の栓をちゃんと閉めろって言いたかった」
「ナジムさんは、大魔導師ファティマの伝承を信じていたんですか」
「信じてた。消された者たちの名が、アウロの庭に眠ってるってね。神に書き替えられた世界の本当の名前が、そこにあるって」
アズィーザは形見の金属板を指でなぞる。
「それを見つければ、砂漠で消えた人たちの名も戻せるかもしれない。死者と忘れられた者の違いを、あいつはやたら気にしてた」
「死者と、忘れられた者」
「死者には墓がある。忘れられた者には、それすらない。大魔導師ファティマの言葉だって、あいつは言ってた」
セイは手の中の聖印を握った。
セシルには墓があるのだろうか。
ハナンの聖堂跡に咲いた、白と赤の混じった薔薇。あれは墓なのか、記憶なのか、それとも町が忘れないための形なのか。
「ナジムさんは、死んだんですか」
セイは静かに尋ねた。
アズィーザはすぐには答えなかった。
湖面に三日月が揺れる。
「分からない」
やがて彼女は言った。
「砂嵐のあと、荷物の一部は見つかった。壊れた水筒、焦げた地図筒、これ」
彼女は金属板を持ち上げる。
「でも、身体は見つからなかった。血の跡も、骨も、服の切れ端も少しだけ。砂漠では珍しくない。けれど、その後が変だった」
「変?」
「周りの連中が、少しずつナジムを忘れた」
セイは息を止めた。
「ただ薄情だったって話じゃない。最初はみんな覚えてた。あの馬鹿が黄金都市なんか追うからだ、って怒ってた奴もいた。泣いてくれた奴もいた。けど、日が経つにつれて、話がずれた。ナジムという弟じゃなく、若い遺跡漁りが一人消えた、になった。次に、隊商の誰かが消えた、になった。最後には、そんな奴いたかい、って顔をされた」
アズィーザの声は、軽くなかった。
「あたしだけが覚えてた。名前も、笑い方も、方向音痴のくせに地図を集めてたことも、水袋の栓を閉め忘れる癖も」
「記録から、外れた……?」
「かもしれない」
アズィーザは言った。
「死んだなら、死んだでいい。よくはないけど、墓を立てる。泣く。怒る。形見を持って歩く。でも、名前ごと薄れていくのは違う。あいつが最初からいなかったみたいになるのは、違う」
セイの手の中で、薔薇の聖印が冷たくなる。
ハナンで、セシルの名も薄れた。
セイが覚えていなければ、完全に消えてしまったかもしれない。
アズィーザの喪失と、自分の喪失は同じではない。
ナジムとセシルも違う。
それでも、重なる場所があった。
名前が消えることへの恐れ。
取り戻したいという願い。
戻らないかもしれない者を、それでも手放せない気持ち。
「僕も」
セイはゆっくり言った。
「セシルさんの名前が、消えかけました」
アズィーザは何も言わなかった。
セイは聖印を開いて見せた。
ひびの入った薔薇の形見。
月明かりの下で、白と赤の模様がかすかに光る。
「この人は、僕を助けてくれた人です。でも、禁書に触れて、町を呑み込もうとして、僕は魔本を開いて止めました。町は残った。でも、セシルさんは戻りませんでした。僕が殺したのかもしれないって、今でも思います」
「そうかい」
アズィーザの返事は短かった。
慰めではない。
否定でもない。
ただ受け取る声だった。
「ハナンでは、セシルさんのことを忘れ始めていました。名前も、いたことも。僕だけが覚えてるわけじゃないかもしれない。でも、僕は忘れたくない。けど、覚えてるって、どうすればいいのか、まだ分かりません」
アズィーザは、自分の形見を見た。
「分からないままでいいんじゃないかね」
「いいんですか」
「分かったふりして立派な墓を建てても、次の日には泣きたくなる。忘れない方法なんて、日によって変わるよ。名前を呼ぶ日もある。形見を握る日もある。思い出すのが苦しくて、わざと別の話をする日もある。大事なのは、なかったことにしないことだ」
セイは聖印を握った。
「取り戻したいって思うのは、だめですか」
アズィーザは、今度はすぐに答えなかった。
風が吹き、湖面の三日月が揺れる。
「だめじゃない」
彼女は言った。
「取り戻したいって願いは、悪くない。死んだ奴に会いたい。消えた奴の名を戻したい。あの時に戻って止めたい。そんなの、当たり前だ」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「でも、その願いは砂漠の蜃気楼に似てる。見える。近づきたくなる。追いかけると、水が尽きる。気づいた時には、自分が何を探してたのかも分からなくなる」
「アズィーザも、追いかけてるんですよね」
「ああ」
彼女は笑った。
笑いながら、目は湖を見ていた。
「あたしも偉そうなことは言えない。ナジムを戻せると言われたら、たぶん揺れる。弟が消えなかった世界が作れると言われたら、手を伸ばすかもしれない。だから、セイ」
初めて、彼女はからかう呼び名ではなく、セイの名を呼んだ。
「あんたが揺れた時、あたしはあんたを笑えない。でも、止める。たぶん殴ってでも止める」
「殴るんですか」
「必要ならね」
「痛そうです」
「痛くするから効くんだよ」
その言い方に、セイは小さく笑った。
笑いながら、胸が痛かった。
アズィーザの喪失は、明るさの奥にある。
彼女は軽口を叩き、盗み、笑い、砂漠の歩き方を教える。けれど、その胸元には弟の形見がある。セイの鞄に聖印があるように。
喪失は、旅の荷物になる。
重い。
でも、置いていけば、その名まで砂に埋まる。
屋上から戻る時、アズィーザはふと立ち止まった。
「セイ坊」
「はい」
「この集落で聞いた伝承、全部信じるな。でも、全部忘れるな」
「はい」
「大魔導師ファティマは、きっといい女でも悪い女でもない。どちらかに決めたがる奴が多いけどね。あれはたぶん、忘れられたものを抱えすぎた女だ」
「抱えすぎた」
「あんたも気をつけな。忘れたくないって気持ちは尊い。でも、抱えすぎると、自分の腕の中に世界を閉じ込めたくなる」
セイは、アズィーザの言葉を胸に留めた。
世界を本に閉じ込めかけた記録者。
大魔導師ファティマ。
その残響を抱える少女ファティマ。
そして、いつか〈創造の書〉へ辿り着くかもしれない自分。
夜がさらに深まる。
部屋に戻ると、ファティマは寝台の上で丸くなって眠っていた。だが、眉間には小さな皺が寄っている。
セイはそっと近づき、彼女の額にかかった髪を払った。
ファティマは眠ったまま、小さく呟いた。
「白い猫……戻れない道……アウロ……」
セイはその言葉を聞き取り、心の中で繰り返した。
忘れないために。
でも、追いかけすぎないために。
窓の外では、湖に三日月が揺れている。
砂漠の集落は、まだ眠らない。遠くで誰かが地図を売り、誰かが神像へ水を捧げ、誰かが死者の名を低く呼んでいる。
黄金都市アウロの庭へ向かう旅人たちの最後の中継地。
ここには、嘘も本当も、形見も欲望も、忘れられた名も集まっている。
セイは聖印を鞄へ戻し、隣に〈ファティマの書〉を置いた。
ファティマの寝息を聞きながら、彼は思う。
取り戻したい。
戻せない。
忘れたくない。
忘れないために、どう歩けばいいのか。
答えはまだない。
ただ、砂漠の夜はそれを急がせなかった。
砂は何でも埋める。
けれど、埋めたものの場所を、月だけはしばらく覚えているようだった。




