第一章 砂漠へ
空の風が、少しずつ乾いていった。
蒼風都市ゼフィ=ラウを離れた直後、その風にはまだ雲の匂いが残っていた。高い場所を渡る冷たさ、蒼風石の青い光の気配、風車塔の軋み、黒い羽と蒼銀の羽が同じ広場に立った時のざわめき。そういうものが、セイの服にも、髪にも、鞄にも、薄くまとわりついていた。
だが、地上へ降り、空中都市の影が雲の向こうに遠ざかるころには、風の質が変わっていた。
湿り気が消える。
草の匂いが薄れる。
土が乾き、石が白くなり、視界の端で熱が揺れはじめる。
そして、地平線の向こうに、砂の色が見えた。
「……あれが砂漠?」
セイは思わず足を止めた。
遠くに広がるそれは、海のようだった。水ではなく、砂の海。薄い金色と灰色と赤茶けた色が重なり、風が吹くたびに地表が波のように動いている。ところどころに黒い岩山が突き出し、干からびた木の骨のようなものが斜めに立っていた。
空は広い。
空中都市で見た空とは違う広さだった。あちらの空は、足元に雲があり、風車塔があり、都市の石があり、人が空を行き来していた。ここには何もない。何もないように見える。空と砂だけが、果てしなく続いている。
セイは喉の奥が乾くのを感じた。
まだ砂漠に入っていないのに、もう乾いている。
「ようこそ、砂漠の入口へ」
アズィーザが、まるで自分の家へ客を招くような口調で言った。砂色の外套を頭からかぶり、顔の下半分を布で覆っている。いつもの金貨の耳飾りは布の下に隠され、代わりに腰の革袋や水筒、細い縄、短剣、小さな鏡、折り畳み式の杖が目についた。
彼女は、空中都市にいた時よりもずっと自然に見えた。
風の中の鳥ではなく、砂の中の狐のように。
「きれいだろ」
「きれい、ですけど……」
セイは砂の地平を見つめたまま言った。
「怖いです」
「それで正解」
アズィーザは満足げに頷いた。
「砂漠を怖がらない奴は、砂漠に向いてない。怖がって、準備して、それでも油断して、ちょっと後悔してからが本番だ」
「後悔する前提なんですね」
「人はだいたい、砂を靴に入れてから学ぶ」
「できれば入れたくないです」
「無理だね」
即答だった。
ファティマは、セイの隣で尻尾を抱えていた。彼女も砂漠用に薄い外套をかぶっているが、猫耳が布を押し上げているせいで、少し不格好になっている。
「この布、耳が蒸れる」
「蒸れる前に焼けるよりましだよ、本猫」
「ファティマ! あと焼けるって言わないで!」
「猫耳は日差しに弱そうだしねえ」
「弱くない。たぶん。いや、でも未知数。セイ、ボクの耳が焼けたらどうしよう」
「焼ける前に日陰を探そう」
「砂漠に日陰ある?」
セイがアズィーザを見る。
アズィーザは笑った。
「あるよ。岩の裏、古い壁の影、倒れた獣の骨の下、あと運がよければ旅人の宿」
「骨の下は嫌!」
「好き嫌いしてると砂漠では生きにくいよ」
「生きるけど骨の下は嫌!」
ファティマが本気で抗議する。
その声はいつものように明るい。
けれど、セイは気づいていた。
空中都市を離れてから、ファティマは時々ぼんやりする。さっきも、地平の砂を見た瞬間、何かを思い出しそうな顔をしていた。呼びかけるとすぐに戻ったが、瞳の奥に見慣れない色が残っていた。
大魔導師ファティマ。
黄金都市アウロの庭。
創造の書。
ファティマの中に現れた、彼女ではない声。
セイは鞄の紐を握った。中には〈ファティマの書〉と、ハナンから持ってきた薔薇の聖印がある。あの聖印の冷たさを、今も手が覚えている。
死者は戻らない。
でも、忘れないために形見を持つ。
アズィーザが教えてくれたことだった。
そのアズィーザは今、砂漠の入口で三人分の水筒を並べていた。
「最初に言っておくよ。水は急に飲むな」
「え、喉が渇いても?」
ファティマが聞く。
「喉が渇いた時に一気に飲む奴は、あとで泣く。口を湿らせる。少しずつ飲む。飲んだら、次に飲めるまでの距離を考える。水筒は命だ。宝石より高い。金貨より重い。盗人でも砂漠の水は盗まない」
「本当に?」
セイが聞くと、アズィーザは肩をすくめた。
「状況による」
「今、いい話だったのに」
「でも、寝てる子どもの水筒は盗らない。死者の水筒も、墓標代わりなら盗らない。そこは決めてる」
ファティマがじっと見る。
「盗人女の倫理、分かりにくい」
「分かりやすい盗人はすぐ捕まる」
「それはそうかも」
「納得しないで」
セイが言うと、ファティマは少しだけ笑った。
その笑顔が続くように、セイは心の中で願った。
砂漠へ入る前に、アズィーザは二人の服装を点検した。外套の巻き方、靴紐の結び方、手袋の有無、水筒の位置、鞄の重さ、首筋を日差しから守る布。ファティマの尻尾には、結局、ウィンディが押しつけてきた蒼風冷却布が巻かれていた。
「ボク、これ嫌なんだけど」
「昨日まで尻尾が焦げてた猫耳少女が何言ってんだい。使えるものは使う。未完成じゃないだけありがたいと思いな」
「ウィンディ製じゃなければ、もう少し安心できた」
「ウィンディ製だけど、クラウディアが安全確認してたよ」
「じゃあ許す」
「信用の差がすごいねえ」
アズィーザは最後に、セイの鞄を持ち上げた。
「重いね」
「本と、少し荷物が」
「本だけじゃないだろ」
アズィーザの視線が、鞄の奥に向いた。
セイは返事をしなかった。
薔薇の聖印。
それが入っていることを、彼女は分かっている。
アズィーザはそれ以上聞かず、鞄を返した。
「持てるかい」
「持ちます」
「持てるかって聞いたんだ」
セイは少しだけ言葉に詰まった。
持ちます、ではない。
持てるか。
砂漠では、意志だけでは歩けない。
身体がいる。水がいる。足がいる。
「……たぶん、重いです」
「正直でよろしい」
アズィーザは荷物を一部取り出し、自分の袋へ移した。
「形見は自分で持ちな。けど、余計な食料や道具まで意地で抱えるな。砂漠は根性自慢をあまり評価しない」
「評価しないんですね」
「評価する前に埋める」
その言い方があまりにもさらりとしていて、セイは背中が冷えた。
アズィーザは砂の方へ向き直る。
「行くよ。最初の目標は、半日先の黒爪岩。そこで昼の熱をやり過ごす。夕方にまた歩く。夜は冷えるから油断しない。足跡を見る。風の匂いを覚える。音が消えたら止まる。蜃気楼を追わない。死者の墓標には背を向けて通るな」
「最後のは、どうしてですか」
セイが聞くと、アズィーザは砂漠を見たまま答えた。
「砂漠では、死者が道しるべになることもあるからだよ。背を向けて素通りすれば、次に自分が道しるべになる」
ファティマが小さく身震いした。
「怖いことを普通に言う」
「普通に怖い場所だからね」
アズィーザは振り返って笑った。
「でも、怖いだけの場所じゃない。砂漠は何でも埋める。町も、骨も、名前も。だから、埋められたものを忘れるな。砂の下に何もないと思ったら、それで終わりだ」
その言葉が、第3の旅の始まりだった。
砂漠の最初の一歩は、思ったより柔らかかった。
靴が沈む。
足を抜く。
また沈む。
ただ歩くだけなのに、草原の倍以上疲れた。最初のうちは、セイも「大丈夫」と思っていた。空中都市であれだけ走ったのだから、自分も少しは強くなったはずだと。
実際、以前よりは歩けた。
ハナンへ向かう草原でドラゴンに追われた時、息が切れて足がもつれ、何もできずにファティマに手を引かれていた。空中都市では、階段を走り、傾く塔の中を進み、魔本を開いて風をつないだ。
今も、最初の一時間は歩けた。
二時間目も、まだ歩けた。
三時間目になると、身体の中から水分と力が少しずつ抜けていくのが分かった。
太陽は容赦がない。
頭に巻いた布越しでも熱が刺さる。外套の中は汗で湿るのに、風が吹くとすぐ乾く。乾くから汗をかいていないように錯覚するが、喉は確実に渇いていく。足元の砂は斜面でもないのに滑り、時々、硬い地面のように見える場所が柔らかく崩れる。
セイは何度も足を取られた。
そのたびに、アズィーザが杖で砂を叩く。
「足を上げすぎるな。砂と喧嘩するな。引きずるんじゃない。置いて、抜いて、置く」
「簡単に言いますね」
「言うのは簡単。やるのは慣れ」
「慣れる前に倒れそうです」
「倒れる前に言いな。倒れてからだと重い」
「運ぶ前提なんですね」
「置いていくよりは親切だろ」
ファティマが横から言った。
「セイを置いていったら、ボクが噛む」
「噛む元気があるなら歩きな、本猫」
「ファティマ!」
「ほら、元気」
軽口を叩きながらも、ファティマの足取りも少しずつ重くなっていた。猫耳は布の下でしおれ気味になり、尻尾の動きも鈍い。けれど、彼女はわざと明るい声を出した。
「砂漠って、こんなに砂なんだね」
「砂漠だからね」
セイが答える。
「でも、もう少し遠慮して砂があると思ってた。全部砂。右も砂。左も砂。前も砂。後ろも砂。砂の在庫がすごい」
「在庫って」
「誰が管理してるのかな。砂係?」
「砂係がいたら大変そうだね」
「一日中、砂を数える仕事。今日は何粒増えました、みたいな」
「数えられないよ」
「だから大変なんだよ」
セイは少し笑った。
笑った直後、息が切れて咳き込んだ。
アズィーザがすぐに手を上げる。
「止まる」
「まだ行けます」
「止まる」
二度目は命令だった。
セイは逆らわなかった。砂の上に座ろうとして、アズィーザに止められる。
「直に座るな。熱い」
彼女は小さな布を敷き、そこへ座らせた。セイは水筒へ手を伸ばしたが、アズィーザがその手首を軽く押さえる。
「急に飲むな」
「分かってます」
「分かってる顔じゃない」
「そんな顔あります?」
「砂漠にはある」
アズィーザは水筒の栓を開け、ほんの少しだけセイの手に渡した。
「口に含む。すぐ飲まない。舌と喉を湿らせてから、ゆっくり」
セイは言われた通りにした。
水が、信じられないほど甘く感じた。
ただの水のはずなのに、身体の隅々がそれを求めている。思わずもっと飲みたくなる。
「そこで止める」
アズィーザが言った。
セイは名残惜しく水筒を返した。
「水って、こんなに大事だったんですね」
「たいていのものは、なくなりかけてから価値が分かる。水も、名前も、人もね」
アズィーザは自分も少しだけ水を飲み、ファティマへ渡した。
ファティマは両手で水筒を受け取り、ちびちび飲む。
「もっと飲みたい」
「飲むな」
「けち」
「命を節約してる」
「言い方が重い」
「水筒は軽くなってるよ」
「うまいこと言ったみたいにしないで」
ファティマは水筒を返し、ため息をついた。
その時、彼女の視線が遠くへ向いた。
砂の向こう。
何もないはずの地平。
「……白い塔」
「え?」
セイが見る。
そこには、揺らめく熱の向こうに、確かに何かが見えた。白い塔のようなもの。水路のような青い線。木々の影。人の住む町のようにも見える。
ファティマはぼんやりと呟いた。
「リィラの水門。南門の鐘楼。風の乾く前の市場……」
「ファティマ?」
セイが呼ぶと、彼女は瞬きをした。
「え? なに?」
「今、知らない地名みたいなことを言った」
「ボクが?」
ファティマは自分を指差した。
「リィラの……水門?」
言葉を繰り返した瞬間、彼女の顔が青ざめる。
「知らない。ボク、そんな場所知らない。ファティマの書にも、たぶん載ってない。載ってたっけ? 分からない」
アズィーザが遠くの景色を見た。
「あれは蜃気楼だ」
「でも、ファティマが地名を」
「蜃気楼が見せるのは、水だけじゃない。砂漠に埋まったもの、通った者の記憶、消された町の残り香。そういうものが熱で浮くこともある」
「消された町……」
セイは地平の白い塔を見た。
さっきより薄くなっている。
まばたきの間に、水路が消え、塔が歪み、ただの熱の揺らぎへ戻っていった。
ファティマは両腕を抱えた。
「ボクの記憶じゃない」
小さな声だった。
「でも、見たことがある気がした。市場で、青い布が売ってて、暑くて、誰かが笑ってて……でも、知らない」
セイは彼女の隣に座り直した。
何か言わなければと思ったが、すぐには言葉を作らなかった。
ファティマは怖がっている。
自分の中にある、自分ではない記憶を。
それを「大丈夫」と言って押し流すことは簡単だった。
でも、それでは見ないことになる。
「知らないのに、見えたんだね」
セイはゆっくり言った。
ファティマは頷く。
「うん」
「それ、怖いね」
「うん」
「でも、覚えておこう。リィラの水門。南門の鐘楼。風の乾く前の市場」
ファティマは驚いたようにセイを見る。
「覚えるの?」
「うん。今は意味が分からなくても。忘れたら、本当に消えちゃうかもしれないから」
ファティマの紅と金の瞳が揺れた。
「セイ、ちょっと観測者っぽい」
「まだ観測者じゃないって言われたよ」
「でも、ただの読者でもないって言われた」
「うん」
「じゃあ、途中の何か」
「途中の何かか」
「いいじゃん。未完成仲間」
ファティマは少しだけ笑った。
その笑みは弱かったが、本物だった。
アズィーザは二人の会話を黙って聞いていた。
やがて、遠くの揺らぎが完全に消えると、彼女は立ち上がる。
「蜃気楼を追うな」
彼女は言った。
「見てもいい。覚えてもいい。でも、追うな。砂漠で見えるもの全部に足を向けてたら、水が尽きる」
「見て、覚えて、でも追わない」
「そう。形見も似たようなもんだ」
アズィーザは首元の紐飾りに触れた。
弟ナジムの形見。
「持って歩く。でも、形見のためだけに歩くと、形見に引きずられる。難しいけどね」
その言葉は、彼女自身にも向けられているようだった。
セイは、アズィーザの横顔を見た。
彼女は死者は戻らないと言う。形見は忘れないための重りだと言う。
けれど、その目の奥には、まだどこかで弟が戻るかもしれないと願う光がある。
セイにも分かる。
分かる、とは言えない。
けれど、似た願いを自分の中にも見つけてしまう。
もしセシルを戻せるなら。
もしあの夜をやり直せるなら。
もし、ファティマの欠けた記録を完全にできるなら。
その願いは甘く、危うい。
砂漠の蜃気楼のように、遠くで揺れている。
昼の熱を避けるため、三人は黒爪岩と呼ばれる岩場にたどり着いた。
黒い爪のような岩が砂の中から何本も突き出し、その陰にわずかな涼しさがある。アズィーザは慣れた手つきで布を張り、小さな日陰を作った。
ファティマはその下へ転がり込み、尻尾を抱えて唸る。
「砂漠、強い」
「まだ入口だよ」
アズィーザが言う。
「入口でこれ!?」
「奥に行けば、砂も風ももう少し性格が悪くなる」
「帰ろう、セイ」
「ファティマ」
「冗談です。半分」
「半分本気なんだ」
「半分は常に本気です」
セイも日陰に座り込んだ。
身体が重い。足が熱を持っている。手袋を外すと、指の節に砂が入り込んでいた。
現代日本にいた頃の自分なら、きっとここまで歩けなかった。
部屋と病院と、雨の日の近所だけが世界だった。学校の教室へ戻ることすらできず、外へ出るだけで胸が苦しかった。
そんな自分が、今は砂漠の入口にいる。
体力があるわけではない。アズィーザについていくのが精一杯で、何度も足を取られ、喉を乾かし、水の飲み方まで教わっている。
それでも、歩いている。
ハナンから。
ゼフィ=ラウから。
救えなかった人の名と、見届けた人の羽と、欠けた相棒の不安を抱えて。
セイは自分の足を見た。
砂まみれの靴。
頼りない足。
けれど、止まってはいない。
「少しは、歩けるようになったのかな」
呟くと、ファティマが片目を開けた。
「なったよ」
「そう見える?」
「うん。前はドラゴンに追われたら、だいたい顔が死んでた」
「顔が」
「今も時々死んでるけど、復活が早い」
「それ、成長かな」
「成長です」
ファティマは真面目に頷いた。
アズィーザも水筒を布で包みながら言う。
「砂漠じゃ、強い奴より復活が早い奴が生き残る。倒れない奴なんていない。倒れる前に休んで、倒れたら起きる。坊やはまだ歩ける」
その言葉は、少しだけセイの胸を温かくした。
昼のあいだ、三人は岩陰で休んだ。
砂漠の昼は、動くものではない。アズィーザはそう言った。動けば水を失う。水を失えば判断を失う。判断を失えば、砂漠に名を取られる。
風は時々吹いたが、草原や空中都市の風とは違っていた。
音を運ばない風。
むしろ音を消す風だった。
少し離れた場所で砂が動いても、気づくのが遅れる。鳥の声も虫の声もない。遠くに何かがいる気配がしても、風がそれを飲み込んでしまう。
その静けさの中で、セイは時々、誰かに見られているような気がした。
砂の下から。
消えた町から。
忘れられた名から。
夕方になり、太陽が傾くと、世界の色が変わった。
昼には白く眩しかった砂が、赤みを帯びる。岩の影が長く伸び、空は薄紫に染まりはじめる。熱が少しずつ引いていき、代わりに冷たい風が忍び込んできた。
「夜は冷える」
アズィーザが外套を整えながら言った。
「昼の暑さで油断すると、夜に震える。砂漠は優しくない。でも、気まぐれに美しい」
歩き出すと、確かに空は美しかった。
日が落ちる直前、砂丘の縁が金色に光り、その向こうに細い三日月が浮かんだ。空中都市で見た雲海の光とは違う。もっと乾いて、鋭く、遠い光だった。
ファティマがそれを見上げる。
「月、細いね」
「砂漠ではあのくらいがいい」
アズィーザが言う。
「明るすぎる月は、砂の嘘まできれいに見せる。細い月は、嘘と本当の境目を少しだけ残してくれる」
「詩人みたい」
「盗人は詩人に似てるのさ。どっちも人の心に忍び込む」
「詩人に謝って」
ファティマが言う。
その声は少し元気を取り戻していた。
だが、夜の最初の墓標を見つけた時、彼女は黙った。
それは、砂丘のふもとに立つ三本の石だった。
高いもの、低いもの、少し傾いたもの。石には文字のようなものが刻まれていたが、風と砂に削られ、ほとんど読めない。傍らには古い布切れと、割れた水筒の欠片が埋まっている。
セイは足を止めた。
アズィーザも止まる。
彼女は軽く頭を下げた。
「通らせてもらうよ」
ファティマも慌てて頭を下げる。
セイもそれにならった。
「これは、誰の墓ですか」
「さあね」
アズィーザは言った。
「隊商の者か、迷った旅人か、砂嵐で死んだ家族か。名前はもう読めない」
「名前が消えたら、その人は……」
「いなくなるわけじゃない。けど、探しにくくなる」
アズィーザは石の周りの砂を杖で軽く払った。
「だから、背を向けて通るな。名前が読めなくても、誰かがここで止まったことくらいは覚えて通る」
セイは、三本の石を見つめた。
誰かがここにいた。
誰かがここで終わった。
誰かが石を立てた。
けれど、その名はもう読めない。
砂漠は何でも埋める。
町も、骨も、名前も。
セシルの聖印が鞄の中で重くなる。
あの人の名も、ハナンでは薄れかけた。自分が持っていなければ、呼ばなければ、いつか消えてしまうのだろうか。
死者を戻すことはできない。
けれど、忘れないことはできる。
忘れないだけで足りるのか。
その問いに、まだ答えはなかった。
アズィーザは石に背を向けず、少し横へ回るようにして歩き出した。
セイとファティマもそれに続く。
墓標を通り過ぎてから、ファティマが小さく言った。
「名前が読めないの、嫌だね」
「うん」
「ボク、自分の名前が分からなくなったらどうしよう」
セイは胸が痛んだ。
彼女の中には、大魔導師ファティマの残響がある。自分ではない記憶がある。
ファティマという名が、本当に彼女だけのものなのか。
その不安が、砂漠の夜の冷えのように近づいている。
「その時は、僕が呼ぶ」
セイは言った。
ファティマがこちらを見る。
「ファティマって?」
「うん」
「ボクが、違うって言ったら?」
セイは少し考えた。
そして答える。
「その時は、ファティマが何て呼んでほしいか聞く。でも、今の君をファティマって呼んだことは、忘れない」
ファティマはしばらく黙っていた。
やがて、外套の端をぎゅっと握る。
「うん」
それだけ言った。
夜の砂漠は、本当に冷えた。
昼の暑さが嘘のように消え、風が外套の隙間から入り込む。セイは歯の根が合わなくなりかけ、アズィーザに布の巻き方を直された。
「昼に暑いからって、夜を舐めるな」
「舐めてません。震えてます」
「なら学んだ」
「学習方法が厳しい」
「砂漠の先生は優しくない」
その晩、三人は低い岩陰に布を張って休んだ。火は小さく、ほとんど煙を出さないように作られた。アズィーザは星を見て方角を確かめ、水筒を布で包み、砂の上に何かの印を描いた。
「これは?」
セイが尋ねると、彼女は短く答えた。
「夜歩きの獣避け。あまり強くはないけど、ないよりはまし」
「獣、いるんですか」
「いるよ。足のあるもの、ないもの、砂の下を泳ぐもの、声だけのもの」
「最後のは何ですか」
「聞こえたら返事するな」
「怖いことをさらっと増やさないでください」
ファティマが焚き火のそばで丸くなりながら言った。
「砂漠、説明されるたびに危険が増えてる」
「知らない危険より、知ってる危険の方が少しましだ」
アズィーザはそう言って、首元の紐飾りを外した。
古い砂漠石と、金貨の欠片と、薄い金属板。
ナジムの形見。
彼女はそれを手のひらに乗せ、火の光にかざした。
セイは黙って見ていた。
「ナジムも、こういう夜に星を見てたのかな」
アズィーザがぽつりと言った。
いつもの軽さはなかった。
「砂漠に入る前、あいつは言ったんだ。黄金都市アウロの庭を見つけたら、姉さんに一番高い塔から朝日を見せてやるってね。馬鹿だろ。あたしより方向音痴のくせに」
「ナジムさんは、どうしてアウロの庭を探していたんですか」
「大魔導師ファティマの記録を追ってた。失われた名前を集めた魔女。神に奪われた記録を盗み返した女。禁書を作った災厄。伝承はいろいろだ。ナジムは、そのどれかが本当だと思ってた。いや、全部少しずつ本当だと思ってたのかもしれない」
アズィーザは金属板を指でなぞる。
「そして消えた。死んだのか、砂に呑まれたのか、記録から落ちたのか、今でも分からない」
セイは、彼女の横顔を見る。
アズィーザは死者は戻らないと言う。
でも、弟が死んだのかどうか分からない。
分からないからこそ、彼女は歩き続けている。
戻せない死者。
取り戻したい願い。
その間にある曖昧な場所を、彼女はずっと歩いているのだ。
「取り戻したいですか」
セイは聞いてしまってから、少し後悔した。
アズィーザは怒らなかった。
ただ、火を見つめた。
「取り戻したいよ」
正直な答えだった。
「死者は戻らないなんて、偉そうに言ってるけどね。戻るなら戻したい。あいつが砂漠へ行かなかった朝に戻れるなら、戻りたい。地図を取り上げて、首根っこつかんで、家に閉じ込めてやりたい」
彼女は笑った。
笑いながら、目は笑っていなかった。
「でも、それをやったら、あいつはあいつじゃなくなるのかもしれない。アウロの庭を追いかけた馬鹿な弟ごと、あたしは覚えてるからね」
セイは胸の奥が痛んだ。
セシルを救いたい。
そう思う時、自分は何を救いたいのだろう。
セシルがドゥローの禁書に触れなかった世界。ハナンが傷つかなかった世界。自分が何も失敗しなかった世界。
それは、本当にセシルを覚えていることになるのだろうか。
答えは出ない。
砂漠の夜は、答えをくれない。
ただ冷たく、星だけが近かった。
ファティマは、火のそばでうとうとしていた。
時々、寝言のように知らない言葉を呟く。
「アウロ……西階段……乾いた水路……」
セイはそのたびに、そっと聞き取って心の中で繰り返した。
忘れないために。
追わないために。
でも、記録するために。
夜半、風が砂を運んできた。
火は小さく揺れ、星が少しだけ霞む。
アズィーザは外套をかぶり、形見を胸元に戻した。
「明日は砂丘を越える。運が良ければ、夕方には旅人の宿へ着く。そこから先は、もっと砂漠らしくなる」
「今でも十分砂漠です」
セイが言うと、アズィーザは笑った。
「まだ入口だよ」
ファティマが目を閉じたまま呻いた。
「入口、多すぎ……」
「世界ってのは、だいたい入口ばかりさ」
アズィーザは空を見上げる。
「奥に入ったと思ったら、次の入口がある。アウロの庭も、たぶんそういう場所だ」
セイも星を見た。
空中都市で見た星とは違う。ここでは、星が近い。手を伸ばせば届きそうで、しかし絶対に届かない。
砂漠は何でも埋める。
でも、星は埋められない。
だから旅人は星を見るのかもしれない。
忘却。
形見。
取り戻したい願い。
戻せない死者。
それらが、砂の上に静かに並び始めている。
セイは鞄を胸に寄せ、ファティマの寝息を聞きながら、遠い黄金都市のことを考えた。
そこには、大魔導師ファティマの記録があるのだろうか。
ファティマの欠落の答えがあるのだろうか。
〈創造の書〉へ至る手がかりが眠っているのだろうか。
もし、そこに死者を戻す方法があったら。
もし、世界を書き直す方法があったら。
セイは、その問いに答えられないまま、目を閉じた。
砂漠の風は音を消す。
けれど、消された名の気配だけは、夜の底から静かにこちらを見ているようだった。




