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第十五章 風蒼々

 蒼風都市ゼフィ=ラウに、朝が来た。

 雲海の向こうから昇る光は、前に見た時と同じように美しかった。白い雲の波が金色に染まり、風車塔の折れた羽根にも、亀裂の入った空中回廊にも、崩れた空中庭園の端にも、やわらかい光が降りている。都市の下部に埋め込まれた蒼風石は、まだところどころ不安定に明滅していたが、夜の間じゅう続いていた低い唸りは、少しずつ遠のいていた。

 都市は落ちなかった。

 けれど、何もかもが元に戻ったわけではなかった。

 広場には、まだ仮設の支柱が立っている。下層へ続く大階段には立ち入り禁止の青布が張られ、風歌神殿の柱の一部には亀裂を塞ぐ銀の留め具がはめ込まれていた。地上セイレーンの若者たちは、すぐに解放されたわけではない。負傷者として治療を受ける者、事情聴取を受ける者、地上の代表者とともに交渉の場へ連れて行かれる者に分けられ、兵士たちの警戒はまだ解けていない。

 黒い羽への視線も、消えてはいなかった。

 クラウディアが広場を歩けば、人々はまだ見る。

 見て、すぐに目を逸らす者もいる。祈りの印を切りかけて、途中で手を止める神官もいる。子どもが「黒い羽だ」と呟き、親が止めようとして、しかし昨日の出来事を思い出したのか、何も言えずに口を閉じることもあった。

 変わったこともある。

 下層技師の一人が、クラウディアを見つけて帽子を取った。

「クラウディアさん、第三排風路の再測定値です」

 黒羽の魔導師ではなく、名で呼んだ。

 それだけのことに、そばで聞いていたセイは胸を突かれたようになった。

 クラウディアは驚いた顔をしなかった。

 ただ、いつもの静かな顔で資料を受け取り、短く礼を言った。

「確認します。第二支線の負荷も合わせて見てください。まだ油断できません」

「はい」

 技師は少し緊張した様子で頷き、駆け戻っていった。

 クラウディアの黒い羽は、今も背にある。肩布で隠されてはいない。だが、彼女は羽を誇示するように広げてもいなかった。そこにあるものとして、ただ背負っている。

 それが、セイには強く見えた。

 都市が一晩で変わることはない。

 何百年も積み重ねられてきた視線や制度や記録が、昨日の宣言ひとつで消えるはずがない。

 それでも、クラウディアの名は公式記録に残った。

 王家記録保管庫の封印記録は、再審議記録として開かれた。風歌神殿も議会も、それを認めたわけではない。むしろ反発は強い。だが、ナディールが公の場で告げ、都市の多くの者が聞いた以上、もう完全には消せない。

 名は、一度風に乗った。

 それを、セイは見た。

 蒼風宮の前では、ナディールが議会長や神官たちと向き合っていた。

 蒼銀の羽は疲れで少し下がっている。目の下にも薄く影がある。けれど、彼女は座らず、逃げず、相手の言葉を一つずつ受け止めていた。

「継承権の一時停止を本気で申されるのですか」

「はい」

「都市が混乱します」

「すでに混乱しています。ならば、混乱の原因を隠して安定したふりをするより、見える形で整え直します」

「地上側に蒼風石管理の議席を与えるなど、前例がありません」

「前例がないからこそ、作ります」

「黒い羽の適格性についても、神殿の審議が必要です」

「審議してください。ただし、最初から不適格と決めた審議ではなく、彼女が都市を支えた事実を含めて」

 その声は落ち着いていた。

 けれど、ナディールの指先は時折震えていた。

 怖くないはずがない。

 継承者の名を賭けるということは、自分の居場所そのものを揺るがすことだ。王家の嘘を認めた彼女を、すべての者が称賛しているわけではない。むしろ、裏切り者と見る者もいるだろう。クラウディアを姉と呼んだことに感動した者もいるが、それを都市への危機と見る者もいる。

 ナディールは、その全部と向き合おうとしている。

 善人であるだけでは足りない。

 制度の内側にいる者が制度を変えようとすれば、その制度の刃は自分にも向く。

 セイは、ナディールを責めきれなかった。

 彼女が悪人ではないと知っているからだ。

 けれど、悪人ではない人がいても、傷は生まれる。

 だからこそ、彼女がこれから何をするのかを見なければならないのだと思った。

「セイ坊」

 背後から声がして、セイは振り返った。

 アズィーザが、いつもの砂色の外套を肩にかけ、柱にもたれていた。朝の光の中でも、彼女だけはどこか砂漠の匂いをまとっている。

「難しい顔だねえ。空の上でまで地面を掘る顔をしてる」

「地面、ここにはないですけど」

「だから掘りにくいんだよ。空の連中は、埋めたものを雲で隠す」

 アズィーザは軽く笑い、それから広場の方を見た。

「まあ、雲を少しどけたくらいにはなったかな」

「これで、変わるんでしょうか」

「変わるよ」

 アズィーザはあっさり言った。

 セイが驚いて彼女を見ると、アズィーザは片目を細める。

「ただし、いい方にだけじゃない。誰かが名を取り戻せば、別の誰かは自分の持ってた正しさを失う。地上側は、これで怒りが収まるわけじゃない。むしろ王家の嘘を知って、さらに怒る者もいる。上層の連中は、黒い羽を受け入れる前に自分たちの足場が崩れることを恐れる。ナディールはしばらく針の上を歩くことになるだろうね」

「それでも、変わる?」

「変わるさ。昨日と同じ嘘には、もう戻れない」

 アズィーザは首元の古い紐飾りに触れた。弟の形見だ。

「記録ってのは、残した瞬間から人を助けるわけじゃない。むしろ、残したせいで争いが増えることもある。でも、残さなかったら、最初から争う資格すら奪われる」

 セイは黙って聞いた。

 名を残すとは、救済ではない。

 始まりだ。

 争いも痛みも含んだ、始まり。

「アズィーザは、それを知ってるんですね」

「砂漠は何でも埋めるからね」

 彼女は笑った。

「埋められたものを掘り返したら、宝が出ることもある。骨が出ることもある。嘘が出ることもある。どれが出ても、掘った奴は汚れる」

「それでも掘るんですか」

「掘るよ。あたしは怪盗だからね」

 その返事は軽かった。

 けれど、セイには軽く聞こえなかった。

 ウィンディは、下層係留桟橋にいた。

 セイとファティマが降りていくと、彼は煤だらけの顔で大きな翼板を抱え、技師たちに指示を飛ばしていた。昨日、避難路として使った係留槍と滑空台は、まだ空中回廊と下層の間に張られている。縄は何本も補強され、滑空台の座席には追加の柵が取り付けられていた。

「そっちの羽根板は左に三度! いや、五度! いや、やっぱり四度半!」

「半って何だよ、ウィンディ!」

「勘と経験の間だ!」

「数字で言え!」

「四・五度!」

「最初からそう言え!」

 技師たちの怒鳴り声が飛び交う。

 ファティマがじとっとした目でウィンディを見た。

「相変わらず不安になる指示だね」

「お、ファティマ。見てくれ、改良型だ」

 ウィンディは得意げに振り返った。

 ファティマは即座に一歩下がる。

「まず爆発しないって言って」

「爆発しない」

「本当に?」

「今回は」

「その言い方禁止!」

 ウィンディは笑った。

 けれど、その笑顔には疲れも混ざっている。

「昨日の避難で分かった。滑空台はまだ揺れすぎる。子どもは怖がるし、怪我人には負担が大きい。地上側へ降ろすなら、もっと安定させないとだめだ。あと、地上から上げる仕組みも必要だな。片道じゃ、つながったとは言えない」

「続けるんですね」

 セイが言うと、ウィンディは当たり前のように頷いた。

「続けるよ。地上と空が昨日みたいにぶつかるなら、なおさら続けなきゃいけない。ぶつかる道しかないのが問題なんだ。普通に行き来できる道があれば、怒鳴り合う前に話せるかもしれない」

「危険だって言われますよ」

「もう言われてる」

「また落ちるかもしれませんよ」

「落ちないように改良する」

「それでも落ちたら?」

「起き上がって、何が悪かったか調べる」

 ウィンディは翼板を叩いた。

「記録を書き換えるんじゃなくて、続きを作ればいい。空中都市の記録に、飛べない者は空に属さないって書かれてるなら、その次の行に、飛べない者も空へ行く道を作ったって書けばいい」

 その言葉は、セイの胸に残った。

 世界を書き換えるのではなく、続きを作る。

 魔本で全てを直すのではなく、道を増やす。

 ウィンディの機械は未完成だ。危険で、煙を上げて、時々尻尾を焦がす。

 けれど、それはまだ書かれていない未来に向かっている。

「ファティマ、尻尾の焦げ跡は?」

 ウィンディが尋ねると、ファティマは尻尾を抱えて一歩下がった。

「八割戻った。残り二割は名誉の傷です」

「じゃあ、記念に新しい尻尾用防火覆いを――」

「いらない!」

「蒼風石冷却機能付き」

「なおさらいらない!」

「試作品だけど」

「絶対いらない!」

 ウィンディは「残念」と本気で残念そうに言った。

 セイは少し笑った。

 笑ってから、胸の奥が痛んだ。

 それでも、その痛みは少し前より自然だった。

 セシルを忘れたから笑えるのではない。

 忘れていないまま笑うことを、少しずつ覚えているのだ。

 空中都市を去る前に、セイはクラウディアと話した。

 場所は、崩れた空中庭園の端だった。昨日、エムが現れた場所に近い。仮の柵の向こうには雲海が広がり、遠くに地上の影が見えている。風はまだ乱れているが、黒い羽を広げたクラウディアのそばでは、不思議と静かに流れていた。

 クラウディアは、背を向けて雲を見ていた。

 肩布はない。

 黒い羽は畳まれている。

 セイが近づくと、彼女は振り返らずに言った。

「出発するそうですね」

「はい。砂漠へ行くことになりそうです」

「アズィーザの案内ですか」

「たぶん。本人は案内料を高く取るって言ってます」

「彼女らしいですね」

 クラウディアの声に、ほんの少しだけ笑みが混じった。

 セイは隣に並び、雲海を見た。

 ここへ来た時、空はただ美しかった。

 今は、その美しさの下にある傷を少しだけ知っている。

「クラウディアさん」

「はい」

「僕、まだうまく言えないんですけど」

「急いで言葉にしなくても構いません」

「でも、言わないまま行くのも違う気がして」

 クラウディアはセイを見た。

 静かな目だった。

 セイは深く息を吸う。

「僕は、クラウディアさんを救ったわけじゃないと思っています」

「そうですね」

 即答だった。

 セイは少しだけ笑った。

「はっきり言いますね」

「曖昧にした方がよかったですか」

「いいえ。その方が、たぶんいいです」

 クラウディアは雲海へ視線を戻した。

「あなたは、私を救ったわけではありません」

 彼女は静かに言った。

「私を正史に戻したのはナディールの宣言だけでもありません。都市を支えたのも、私だけではありません。ウィンディの機械、ファティマの記録、あなたの魔本、地上から来た風、下層技師たちの手、ナディールの歌。そのすべてがありました」

「はい」

「そして、私はまだ救われていません」

 セイは黙った。

 クラウディアの言葉は冷たくない。

 ただ正確だった。

「これからも、黒い羽を見る目は残るでしょう。王家の記録を修正すれば、私は別の形で利用されるかもしれません。第一皇女という名が、今度は私を縛るかもしれない。ナディールとの関係も、すぐに姉妹として穏やかになるわけではありません」

「……はい」

「けれど」

 クラウディアは、少しだけ黒い羽を広げた。

 朝の光が羽の内側に入り、青紫の細い輝きが浮かぶ。

「あなたは、私が飛ぶところを見ていました」

 セイは顔を上げた。

「それで十分です」

 その言葉は、風のように静かに届いた。

 誰かを救うとは、その人を自分の物語に取り込むことではない。

 誰かの痛みを、自分の痛みで包むことでもない。

 その人が自分の名で立ち、自分の羽で飛ぶ場面を、見届けること。

 セイは、その意味を完全には言葉にできない。

 けれど、クラウディアの言葉は胸の奥へ深く残った。

「覚えておきます」

 セイは言った。

 クラウディアは頷いた。

「あなたは、これからもっと大きな記録へ触れるのかもしれません」

「創造の書、ですか」

「おそらく」

 クラウディアは雲海を見る。

「その時、救いたいという言葉は、もっと重くなるでしょう」

「はい」

「私から言えることは一つだけです。誰かを救う前に、その人が何を選ぼうとしているのかを見てください」

 セイは、静かに頷いた。

 その日の夜、ファティマは倒れた。

 出発前の最後の夜だった。

 セイたちは下層技師街の客間を借りていた。正確には、ウィンディの知り合いの工房の空き部屋で、壁には工具がかかり、天井から小さな風車が吊るされ、床には半分壊れた羽根板が立てかけられている。ファティマは「宿っていうより部品置き場」と言ったが、ベッドが二つあるだけで十分ありがたかった。

 夕食は、下層技師たちが持ってきてくれた温かいスープと、雲麦の平たいパンだった。ファティマはいつものように「パンが軽すぎる。雲でできてる?」と文句を言いながらも、半分以上食べた。

 食後、セイが鞄を整理していると、ファティマは窓辺に座り、ずっと外を見ていた。

「ファティマ?」

「うん?」

「眠くない?」

「眠い」

「じゃあ寝た方が」

「寝たら、変な夢を見そう」

 ファティマはそう言って、尻尾を抱えた。

 外では、修理中の風車塔がゆっくり回っている。蒼風石の光は少し弱く、夜のゼフィ=ラウは以前より暗かった。けれど、その暗さの中で人々がまだ働いている気配があった。

「蒼風石の制御詩」

 ファティマは呟いた。

「ボク、なんで知ってたんだろう」

 セイは手を止める。

 ファティマは窓の外を見たまま続けた。

「ボクはハナンのことも、空中都市のことも、知ってるところと知らないところが変だった。地図が古かったり、現存しない建物を覚えてたり、名前だけ知ってるのに中身が出てこなかったり。でも、蒼風石の古い詩は違った」

「違った?」

「うん。あれは、ボクが読んだ記録って感じじゃなかった。ボクの中から出たけど、ボクの声じゃなかった。誰かがずっと前に書いて、焼け残った頁みたいな感じ」

 ファティマは胸元に手を当てる。

「大魔導師ファティマって、誰なんだろうね」

 セイはすぐに答えられなかった。

 砂漠の魔女。魔本の編纂者。世界から盗み返した名前。黄金都市アウロの庭。

 アズィーザが何度か口にした伝承。

 エムが告げた、欠けた記録の先にあるもの。

「ボクと同じ名前」

 ファティマは小さく笑おうとした。

 うまく笑えなかった。

「それって、偶然なのかな。ボクは、その人なのかな。それとも、その人が作った本なのかな。ボクが猫だったのも、セイのところに来たのも、全部、誰かの記録の続きなのかな」

「ファティマ」

「もし、ボクが誰かの残り物だったら」

 声が震えた。

「ボクがセイと旅してることも、残り物の夢なのかな」

 セイは立ち上がり、彼女のそばへ行った。

 すぐに否定したかった。

 そんなことない。ファティマはファティマだ。

 でも、それだけでは足りない気がした。

 ファティマは、自分の中にある知らない記憶を怖がっている。その怖さを、軽く消してしまってはいけない。

「分からない」

 セイは言った。

 ファティマは少しだけ目を伏せる。

 セイは続けた。

「でも、たとえ誰かの記録が混ざってても、今ここで怖がってるのはファティマだと思う。僕と喧嘩したり、尻尾を焦がして怒ったり、クラウディアの羽をかっこいいって言ったりしたのも、ファティマだと思う」

 ファティマは、ゆっくりセイを見た。

「ご主人様」

「またそれ」

「うん。ちょっとだけ、そう呼びたくなった」

「そっか」

「嫌?」

「前ほどは」

 ファティマは、ほんの少しだけ笑った。

 その笑みは、すぐに消えた。

 彼女の瞳が、ふっと遠くを見るように揺れる。

 紅と金の色が、深い金色へ沈んでいく。

「ファティマ?」

 セイが呼ぶ。

 ファティマは返事をしなかった。

 代わりに、別の声が出た。

 ファティマの口から。

 けれど、ファティマの声ではない声が。

「この世界は、一度ではない」

 セイの背筋が凍った。

 部屋の風車が止まる。

 窓の外の蒼風石の光が、遠くで一度だけ明滅した。

 ファティマはまっすぐ前を見つめている。焦点は合っていない。どこか、ここではない場所を見ている。

「幾度も記され、幾度も破られた」

 声は静かだった。

 砂の底から響くような、古い女の声。

「神は満足せず、頁を裂き、綴じ直し、余白を別の名で埋めた。

 消された町は土になり、消された者は風になり、消された名は砂に沈んだ。

 けれど、砂はすべてを忘れぬ。

 黄金の庭へ来い。

 閉じられなかった最終章は、まだ焼け残っている」

「ファティマ!」

 セイは彼女の肩を掴んだ。

 その瞬間、ファティマの身体から力が抜けた。

 窓辺から崩れ落ちる。

 セイは慌てて抱き止めた。

 軽い。

 驚くほど軽かった。

 いつも騒がしく走り回り、尻尾を振り、食べ物に文句を言い、アズィーザに噛みつきそうになる彼女が、今はただ小さく腕の中に収まっている。

「ファティマ、ファティマ!」

 呼んでも返事はない。

 呼吸はある。

 額に手を当てると、少し熱い。

 セイの胸が冷たくなる。

 ハナンの夜がよみがえる。

 セシルの手が離れていく感覚。

 救えなかった人。

 今度はファティマまで失うのか。

「セイ坊!」

 扉が開き、アズィーザが飛び込んできた。廊下を通りかかったのか、異変に気づいたのか、彼女の顔からいつもの軽さが消えている。

「どうした」

「ファティマが、急に。違う声で……大魔導師ファティマみたいな」

 アズィーザの表情が変わった。

 彼女はすぐにファティマの額と首元に触れ、呼吸を確かめる。

「息はある。気を失ってるだけだ。たぶん、記録に呑まれかけたんだろう」

「記録に?」

「砂漠の古い魔導書伝承には、そういう話がある。強すぎる記録を抱いた本や人が、自分の記憶と古い記録の境目を失う。とくに、名前が同じなら引っ張られやすい」

「どうすれば」

「今すぐどうこうできるもんじゃない。休ませる。水を少しずつ。目が覚めたら、自分の名前を呼ばせる。自分が誰か、戻してやる」

 セイはファティマを抱えたまま頷いた。

 アズィーザは、ファティマの顔を見つめた。

 その目は、どこか弟の形見を見る時と似ていた。

「……やっぱり、砂漠へ行くしかないね」

「砂漠へ」

「黄金都市アウロの庭」

 アズィーザは低く言った。

「大魔導師ファティマの伝承は、そこに残ってる。世界から盗み返した名前。焼け残った魔導書。創造の書に触れた女。どれが本当で、どれが尾ひれかは分からない。でも、この子の欠落を知るには、もう空の記録だけじゃ足りない」

 セイはファティマを見る。

 意識のない彼女は、眉をわずかに寄せている。

 何か怖い夢を見ているようだった。

「砂漠は何でも埋める」

 アズィーザは言った。

「町も、骨も、名前も。だから、掘り返す奴が必要なんだよ。坊や、あんたたちは次にそこへ行く」

「アズィーザも?」

「もちろん。あたしの目的地でもある。弟の足跡も、たぶんそこへ続いてる」

 弟。ナジム。

 セイは、アズィーザが首元に下げている形見を見た。

 それぞれが、失われた名を追っている。

 セイはセシルの名を。

 アズィーザはナジムの名を。

 ファティマは、自分自身の名の奥にある何かを。

 クラウディアは、消された名を取り戻し始めた。

 そして、この先には、大魔導師ファティマと黄金都市アウロの庭がある。

 ファティマが小さく身じろぎした。

 セイは彼女を抱き直す。

「ファティマ」

 今度は、かすかにまぶたが震えた。

「……セイ?」

 小さな声。

 いつものファティマの声だった。

 セイは息を吐いた。

「うん。ここにいる」

「ボク、寝てた?」

「少し」

「変なこと言った?」

 セイは一瞬迷った。

 だが、隠しても意味がない。

「言った。大事なことかもしれない」

 ファティマはぼんやりとアズィーザを見て、次にセイを見た。

「怖い」

「うん」

「ボク、怖い」

「うん」

 セイは、ただ頷いた。

 怖くないとは言わなかった。

 大丈夫とも、すぐには言わなかった。

 代わりに、ファティマを抱える手に少しだけ力を込めた。

「一緒に行こう」

「どこへ?」

「砂漠へ」

 ファティマは目を閉じた。

 少しだけ震えた。

 それから、小さく頷いた。

「うん」

 翌朝、セイたちはゼフィ=ラウを発った。

 出発の場所は、昨日まで修理に追われていた下層係留桟橋だった。ウィンディが改良した滑空台は、まだ不格好で、あちこち補強用の紐が見える。ファティマはそれを見た瞬間、顔をしかめた。

「これで地上へ降りるの?」

 ウィンディは胸を張る。

「改良型だ。昨日より揺れが三割減った」

「残り七割は揺れるんだ」

「でも落下率は大幅に下がった」

「元の落下率を聞きたくない!」

「聞かない方がいい」

「言わないで!」

 ファティマの突っ込みは戻っていた。

 少し弱いが、戻っていた。

 セイはそれを聞いて、胸の奥が少しだけ緩む。

 見送りには、ウィンディだけでなく、クラウディアとナディールも来ていた。

 ナディールは公務の合間らしく、礼衣ではなく動きやすい白い外套をまとっている。蒼銀の羽には、まだ疲労の色が残っていた。

 クラウディアは黒い羽を隠していなかった。

 二人の距離は、近すぎず、遠すぎず。

 以前のように皇女と黒羽の魔導師としてだけ立っているのではない。かといって、すべてを許し合った姉妹として寄り添っているのでもない。

 その途中の距離に、二人はいた。

「砂漠へ行くのですね」

 ナディールが言った。

「はい」

 セイは頷く。

「ファティマのことを、調べに」

「どうか、無事で」

 ナディールはファティマを見た。

「あなたが欠けた記録を抱えているとしても、あなたがここで笑ったことは、私も覚えています」

 ファティマは少し驚いた顔をし、それから照れくさそうに耳を動かした。

「ありがとう。ナディールも、無理しすぎないでね」

「努力します」

「努力じゃなくて約束」

 ウィンディが横から言った。

 ナディールは少しだけ笑う。

「では、約束します。倒れる前に休みます」

「倒れる前っていう条件がもう不安!」

 ファティマが叫ぶ。

 クラウディアはセイへ視線を向けた。

「砂漠は、空とは違う厳しさがあると聞きます」

「僕の体力で行けるか、かなり不安です」

「不安を認めるのは悪いことではありません」

 クラウディアは静かに言った。

「無理に強いふりをしないでください。あなたには、見て覚える役目があります。倒れてしまえば、それもできません」

「はい」

 セイは頷いた。

「クラウディアさんも、無理しすぎないでください」

「難しい注文ですね」

「みんな、それ言いますね」

「必要な時に無理をしない者は、だいたい大きな問題を抱えます」

「それ、ウィンディにも言ってください」

「何度も言っています」

「言われてる!」

 ウィンディが明るく手を上げる。

 その場に、小さな笑いが起きた。

 笑える。

 でも、別れは寂しい。

 セイは、ゼフィ=ラウの空を見上げた。

 ここへ来た時、風はただ明るく感じた。

 今は、もっと複雑だ。

 美しさも、差別も、制度も、発明も、黒い羽も、蒼銀の歌も、壊れた記録も、全部がこの風に混ざっている。

 完全には救われない都市。

 けれど、続きを作ろうとしている都市。

 セイは、それを覚えておこうと思った。

 アズィーザが滑空台に荷物を放り込む。

「ほら、名残惜しむのはそこまで。砂漠は待ってくれないよ。昼は焼けるし、夜は冷えるし、水は重いし、砂は靴の中に入るし、宿は高い」

「いいところはないんですか」

 セイが聞くと、アズィーザはにやりと笑った。

「星が近い」

 その一言だけ、少し真面目だった。

「あと、埋まってるものが多い。宝も、骨も、嘘も、名前もね」

 ファティマはセイの隣に立ち、滑空台を見た。

「怖いね」

「うん」

「でも、行くんだね」

「うん」

「セイ、また“うん”ばっかり」

「ごめん」

「でも、今はそれでいいよ」

 ファティマは、少しだけ笑った。

 セイも笑い返す。

 滑空台が動き出した。

 ウィンディが操作盤を叩き、蒼風石の小片が光る。アズィーザが縄を確認し、ファティマが尻尾を抱え、セイが鞄を胸に寄せる。

「行くぞ!」

 ウィンディが叫ぶ。

「落ちないよね!?」

 ファティマが叫び返す。

「落ちない!」

「たぶんは!?」

「今日は言わない!」

「よし!」

 滑空台が、空中都市の縁から外へ出た。

 足元に雲海が広がる。

 風が頬を打つ。

 ゼフィ=ラウが背後で少しずつ遠ざかっていく。折れた風車塔、修理中の回廊、蒼風宮、風歌神殿、下層技師街、地上へ向かう係留槍。

 クラウディアの黒い羽が見えた。

 ナディールの蒼銀の羽も見えた。

 二人は並んで、こちらを見送っていた。

 セイは手を振った。

 ファティマも、大きく手を振った。

 ウィンディが叫ぶ。

「また来いよ! 次はもっと安全に上げる!」

「今、安全に降ろして!」

 ファティマの声が風に流れる。

 アズィーザは笑い、セイは鞄の中の聖印に触れた。

 薔薇の記憶のあとに、風が来た。

 風のあとには、砂が待っている。

 ファティマの欠落。

 大魔導師ファティマの声。

 黄金都市アウロの庭。

 そして、いつか辿り着くかもしれない〈創造の書〉。

 不安は消えない。

 都市の問題も残ったままだ。

 ファティマの謎は深くなり、セイはまだ観測者ではない。

 それでも、旅は続く。

 悲劇のあとも。

 救えなかった名を抱えたあとも。

 誰かが自分の羽で飛ぶところを見たあとも。

 セイは、風に目を細めながら、遠く地平の向こうを見た。

 そこにはまだ見えない砂漠がある。

 乾いた風が、ほんのかすかに、空の風の中へ混じり始めていた。

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