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第十四章 光天の書の記録

 公の広場に吹いていた風は、日が傾くころになっても落ち着かなかった。

 蒼風都市ゼフィ=ラウは落下を免れた。だが、都市全体がひとつの大きな怪我をしたあとのように、どこか熱を持っていた。折れた風車塔の羽根は広場の端に並べられ、割れた蒼風石灯には布がかけられ、空中回廊のいくつかには通行止めの青い旗が張られている。下層技師たちはまだ走り回っていた。地上セイレーンの代表たちは、ナディールの使者と低い声で話し合っている。兵士たちは武器を下ろしたが、完全には警戒を解いていない。神官たちは、風歌神殿の階段で割れた石を見つめていた。

 誰もが、今日のことをどう記録すればいいのか分からない顔をしていた。

 都市は救われた。

 だが、誰によって。

 蒼翼の皇女の風歌によってか。

 黒い羽の魔導師の風術によってか。

 未完成の発明家の避難路によってか。

 欠けた魔本の古い詩によってか。

 外より来た少年が開いた本によってか。

 それとも、これまで消されてきたもの、聞かれなかったもの、正史の外に置かれたものが、まとめて都市の落下を止めたのか。

 答えは一つではなかった。

 そして、一つではない答えを、この都市の記録は苦手としているようだった。

 セイは、風歌神殿から少し離れた空中庭園の端に立っていた。

 庭園の一部は崩れ、雲海へ向かって白い石の断面を見せている。縁には仮の柵が置かれているが、隙間から下を覗けば、雲がゆっくり流れているのが見えた。朝には遠かった雲海が、今はまだ近く感じる。

 ファティマは隣で、青い葉の茂みの上に腰を下ろしていた。

 疲れているのだろう。いつものように騒がしくはない。尻尾も力なく丸まっている。けれど、彼女は眠ろうとはしなかった。両手で〈ファティマの書〉を抱え、時折、何かを確かめるように表紙を撫でている。

「まだ痛い?」

 セイが尋ねると、ファティマは少しだけ笑おうとした。

「身体は平気。尻尾も、まあ、八割くらい由緒正しく戻った」

「由緒は戻るものなんだ」

「戻すものです」

 そこで彼女は、いつもなら胸を張るところだった。けれど、今日はその前に視線が落ちた。

「でも、言葉の方がまだ痛い」

 セイは黙った。

 壊れた本。

 エムにそう呼ばれた時のファティマの顔を、セイは忘れられない。

「ボク、欠けてるのは分かってる」

 ファティマはぽつりと言った。

「蒼風石のことも、風界王ゼークのことも、アウロの庭のことも、知らないのに知ってる気がする。さっきだって、ボクじゃないみたいな言葉が出た。大魔導師ファティマの残響かもしれないって、自分でも思う。でもね」

 彼女は〈ファティマの書〉を抱く手に力を込めた。

「欠けてるって言われるのと、壊れてるって言われるのは、ちょっと違う」

「うん」

「壊れてるって言われると、ボクがセイと笑ったことも、旅したことも、ご飯のことで騒いだことも、尻尾が焦げて怒ったことも、全部間違いみたいに聞こえる」

 セイは胸が苦しくなった。

 すぐに否定したかった。

 間違いじゃない。ファティマはファティマだ。壊れた本じゃない。

 だが、簡単に言ってしまうのが怖かった。クラウディアに「分かる気がする」と言ってしまった時の苦さが、まだ舌に残っている。

 だから、セイは少しだけ考えてから言った。

「僕は、ファティマが欠けているところを全部分かってるわけじゃない」

「うん」

「壊れてるかどうかも、本当は分からない。エムみたいに照合できるわけじゃないから」

「うん」

「でも、ファティマが僕と笑ったことは、間違いじゃないと思う。尻尾が焦げて怒ったことも、アズィーザに本猫って呼ばれて怒ったことも、クラウディアの羽をかっこいいって言ったことも、さっき古い制御詩を思い出してくれたことも。全部、あったことだよ」

 ファティマは、少しだけ目を伏せた。

「うん」

「だから、僕はそれを覚えてる」

「……うん」

 ファティマの声は小さかった。

 それでも、さっきより少しだけ息ができる声になっていた。

 セイは鞄に触れた。

 中には、セシルの薔薇の聖印がある。

 覚えることは、救うことではない。

 死者は戻らない。消された名も、呼んだからといってすべて元通りになるわけではない。

 それでも、覚えることをやめれば、本当に消えてしまうものがある。

 クラウディアの名を公の風に乗せたナディールの姿を思い出す。

 あれは、救いの完成ではなかった。

 むしろ、始まりだった。

 その時、庭園の風が変わった。

 冷たい。

 雲の上の風ではない。

 光の頁をめくるような、整いすぎた冷たさ。

 ファティマの耳が立つ。

 セイも顔を上げた。

 壊れた空中庭園の縁、白い石の柵の向こうに、ひとりの少女が立っていた。

 白銀の髪。左右で色の違う瞳。汚れひとつない白い衣。

 エム。

 〈光天の書〉の少女。

 夕暮れの蒼い光の中で、彼女だけが月光をまとっているように見えた。足元には光の頁が何枚も浮かび、風にめくられている。

 ファティマが立ち上がった。

 表情がこわばる。

 セイは反射的に前へ出ようとして、止まった。

 守るために前に出ることと、ファティマが自分で立つ場所を奪うことは違う。

 だから、半歩だけ隣に立った。

 エムは、その動きを見ていた。

 月のような微笑を浮かべる。

「少しは、距離を覚えたか。読者」

「エム」

 セイは彼女の名を呼んだ。

 エムは否定しなかった。

 ただ、〈光天の書〉を片手に、ゆっくり近づいてくる。

「騒がしい都市じゃ。正史は破れ、王家は自らの記録を疑い、黒い羽は広場に立ち、壊れた本は古い詩をこぼし、外より来た者は魔本を橋のように使った」

「見てたんだね」

 ファティマの声は硬い。

 エムは彼女を見る。

「妾は観測する者。見ていた」

「助けなかった」

「妾は試す者でもある」

「便利な言い方」

 ファティマは唇を噛んだ。

「エムは、いつもそう。正史とか、照合とか、試験とか。そういう言葉で、痛いところに触ってくる」

「痛いところに触れねば、腐った記録は見つからぬ」

「触り方ってものがあるよ」

「壊れた本が、妾に触り方を説くか」

 ファティマの顔が少し白くなる。

 セイは、今度こそ口を開きかけた。

 だが、ファティマが先に言った。

「壊れてるかもしれないよ」

 その声は震えていた。

 でも、逃げていなかった。

「ボクは、欠けてる。知らないことを知ってる気がする。自分の記憶じゃないものが混ざってる。魔本としても、きっと完全じゃない。エムが見たら、破れた頁だらけなんだと思う」

 エムは黙って聞いていた。

「でも、ボクが欠けてなかったら、蒼風石の古い制御詩は出てこなかった。ボクの中に変な穴があったから、そこに残ってたものが見えたんだと思う」

「……」

「壊れてるから役に立った、って言いたいんじゃない。そんなふうに都合よく使われたくない。でも、欠けてるから全部いらないって言われるのも嫌だ」

 ファティマは〈ファティマの書〉を胸に抱いた。

「ボクは、ファティマだよ。未完成でも、そう名乗る」

 エムの瞳が、ほんの少しだけ細くなった。

 怒りではない。

 照合している目だった。

 ファティマという存在を、断章ではなく、ただの壊れた本でもなく、別の分類として見ようとしている目。

 だが、エムはすぐには認めなかった。

「未完成は、記録として危うい」

「うん」

「欠けた頁は、誤読を招く」

「うん」

「壊れた本は、読者を傷つけることもある」

 ファティマの肩が揺れた。

 セイは静かに言った。

「傷ついたよ」

 ファティマがセイを見る。

 セイは彼女を責めるためではなく、逃げないために言った。

「ハナンで魔本を開いたあと、怖かった。今も怖い。ファティマを見ると、思い出す時もある」

 ファティマの瞳が揺れる。

 セイは続けた。

「でも、それだけじゃない。ファティマがいなかったら、僕はここにいない。ハナンのことも、ゼフィ=ラウのことも、クラウディアが自分の羽で飛んだことも、ナディールが正史の嘘を告げたことも、見られなかった」

「セイ……」

「だから、傷ついたことも、助けられたことも、両方ある。どっちかだけにしたくない」

 エムは、セイを見た。

 その視線は冷たい。

 だが、以前のようにただ切り捨てる冷たさではなかった。

「半端な答えじゃな」

「はい」

 セイは頷いた。

「でも、半端なままでも、残したいです」

 エムはしばらく黙っていた。

 庭園の下を雲が流れる。

 遠くで、ウィンディの声が聞こえた。「その係留槍はまだ抜くな! 抜いたら誰かが落ちる! いや、落ちないように抜け!」と、相変わらず分かりにくい指示を飛ばしている。アズィーザの笑い声と、ファティマがいれば突っ込んでいたであろう沈黙が、風に混じった。

 エムは広場の方へ視線を向けた。

 そこには、まだ人々が残っている。

 クラウディアは下層技師たちと話していた。黒い羽は隠されていない。誰もが自然に受け入れているわけではない。だが、彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。

 ナディールは議会長や地上セイレーンの代表と向き合っている。継承者の名を返上する覚悟を示した彼女の前には、簡単にはほどけない問題が山ほど積まれている。それでも、彼女は逃げていない。

 ウィンディは未完成の避難路を修理し続けている。

 アズィーザは、どこかで何かを盗んでいそうで、しかし今は逃げ道を見ている。

 それらすべてを、エムは見た。

「妾は、クラウディアを完全に認めたわけではない」

 やがて、エムは言った。

「王家の記録が破れていたことは事実。黒い羽の構文が蒼風石に必要だったことも事実。だが、正史外の存在をそのまま正統へ入れれば、別の矛盾が生まれる」

「まだそんなこと言うの」

 ファティマがむっとする。

 エムは彼女へ視線を戻した。

「妾は、そなたを壊れた本と呼ぶことも撤回せぬ」

 ファティマの顔が曇る。

 だが、エムは続けた。

「ただし」

 その一語に、セイは息を止めた。

「壊れた本でなければ拾えぬ記録があったことは、認めざるを得ぬ」

 ファティマの目が少しだけ開いた。

 エムは苦々しげに〈光天の書〉を開く。

 白い頁が現れ、そこに整った文字が浮かんだ。

「都市を救うためには、正史から外された黒翼の構文と、欠けた魔本の残響が必要だった。正統な風歌だけでは足りず、下層技師の未完成の機械が避難路となり、地上からの風は敵意でありながら都市の歪みを暴いた」

 エムは一つずつ言葉にしていく。

 それは彼女にとって、容易なことではないのだろう。

 正しい記録を求める彼女が、正史の外にあったものを記録せざるを得ない。

 その事実が、〈光天の書〉の白い頁をかすかに震わせていた。

「セイ」

 初めて、エムはその名を呼んだ。

 セイは驚いて彼女を見る。

 ファティマも「今、名前」と小さく呟いた。

 エムは表情を変えない。

「おまえはまだ観測者ではない」

 言い方は厳しかった。

 だが、以前のような拒絶だけではなかった。

「迷い、傷つき、魔本を恐れ、なお自分の願いと他者の選択を混同しかける。観測者と呼ぶには未熟じゃ」

「はい」

 セイは頷いた。

 その評価は、たぶん正しい。

「だが」

 エムは頁へ視線を落とす。

「ただの読者でもない」

 白い頁に、新しい文字が浮かび上がった。

 エムの指が、その上をなぞる。

 光の文字は、最初はためらうように揺れ、それから一行として定着した。

 セイという外より来た者が、正史外の黒翼と欠けた魔本をつなぎ、蒼風都市の落下を止めた。

 セイは、その一行を見つめた。

 自分のことが書かれている。

 けれど、その一行はセイだけのものではなかった。

 黒翼。欠けた魔本。蒼風都市。落下。つなぐ。

 そこには、クラウディアも、ファティマも、ナディールも、ウィンディも、地上と空の風も、完全ではないまま入っている。

 エムは、すぐに頁を閉じなかった。

 まるで、その一行が本当に〈光天の書〉に残るのか、自分でも確かめているようだった。

「これで、認めたことになるの?」

 ファティマが恐る恐る尋ねた。

 エムはすぐに答えた。

「ならぬ」

「ならないの!?」

「妾は事実を記した。好意で褒めたわけではない」

「すっごくエムっぽい……」

 ファティマは少しだけ肩を落とし、それでも、前ほど傷ついた顔ではなかった。

 セイは小さく息を吐いた。

 エムは完全には変わらない。

 ファティマをすぐに認めるわけではない。クラウディアを正統な皇女として喜んで記すわけでもない。

 でも、記録した。

 その一行は、白い頁の中に残った。

 正史にないものを白紙にするのではなく、正史にないものが都市を支えたと書いた。

 それは小さな変化だった。

 けれど、エムにとっては大きな亀裂なのかもしれない。

「エム」

 セイは尋ねた。

「あなたは、どうして僕たちを試すんですか」

 エムは〈光天の書〉を閉じた。

 白い光が彼女の周囲に集まり、夕暮れの青と混ざる。

「世界が、そなたたちを試しているからじゃ」

「世界が?」

「この世界は、欠けている」

 エムの声が少し低くなった。

「ノースは、美しい冒険の舞台ではない。正史に整えられた安定した世界でもない。何度も修正され、何度も書き換えられ、都合の悪い記録を白紙にされ、消された名を地層のように抱えた失敗世界じゃ」

 セイの胸が冷えた。

 失敗世界。

 エムは、以前からノースをただの異世界として見ていない。彼女の言葉は、もっと大きなものへ向かっている。

「蒼風都市の構文にも、創造主の修正痕があった」

 エムは続けた。

「風界王ゼークの古い構文。地上と空に分けられたセイレーンの歴史の空白。黒い羽を不吉とした最初の記録の欠落。一度落下した都市の残響。それらは、都市だけの問題ではない」

 ファティマが青ざめる。

「ノース全体の……?」

「そうじゃ、断章」

 エムは、いつもの呼び名を使った。

 だが、さっきほど鋭くはなかった。

「ファティマ。そなたの欠落は、そなた個人の欠陥だけではない。世界そのものの破損を抱いている可能性がある」

 ファティマは、〈ファティマの書〉を抱く手に力を込めた。

「ボクの中に、世界の壊れたところがあるってこと?」

「断定はせぬ。だが、蒼風石の古い制御詩を抱いていたことは、その証の一つとなる」

 セイは、ファティマを見た。

 彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。

 その表情は、砂漠の黄金都市の名を聞いた時と同じだった。

 知らないのに、知っている気がする。

 自分の中に、自分ではない何かが残っている。

 それは怖いことだ。

 エムはセイへ視線を戻した。

「欠けた記録を抱いたまま先へ進めば、いずれおまえは〈創造の書〉へ辿り着く」

 その名が出た瞬間、風が止まったように感じた。

 〈創造の書〉。

 セイは、まだその本を見たことがない。

 だが、名前だけで胸がざわついた。〈ファティマの書〉とも、〈光天の書〉とも違う、もっと根の深いもの。世界を書く本。世界を創る本。

「創造の書……」

 ファティマが呟く。

 彼女の声は震えていた。

 エムは静かに頷いた。

「読むだけの本ではない。書くことも、閉じることも、消すことも、作り直すこともできるかもしれぬ本じゃ。そこへ至った時、おまえが読むのか、書くのか、閉じるのか」

 エムの左右異色の瞳が、セイを射抜いた。

「妾は見届けよう」

 セイはすぐには答えられなかった。

 もし、世界を書ける本があるなら。

 ハナンでセシルを救えなかったことを書き直せるのか。

 クラウディアが黒い羽を理由に消されなかった世界を書けるのか。

 ファティマが壊れていない、欠けていない本として笑う世界を書けるのか。

 そんなことができるなら。

 一瞬、望んでしまった。

 望んだ自分が怖かった。

 セイは鞄の中の聖印に触れる。

 セシルを戻したいと思う気持ちは、まだある。

 けれど、戻すとは何を消すことなのか。

 ハナンで誰かが覚えた痛みも、アリアの涙も、セシルが最後に「消えたくはありません」と言ったことも、全部なかったことにするのか。

 クラウディアが自分の黒い羽で飛んだ現実を、「最初から差別されなかった世界」に書き換えることは、本当に救いなのか。

 答えは、まだない。

 だが、問いは生まれてしまった。

「僕は」

 セイはゆっくり口を開いた。

「まだ、分かりません」

 エムは微笑んだ。

「今のそなたに分かるなら、むしろ失格じゃ」

「厳しいんですね」

「甘い観測者など、世界を読み違える」

「僕はまだ観測者じゃないんですよね」

「そうじゃ」

 エムは迷いなく言った。

 そして、ほんのわずかに目を細める。

「だからこそ、見ている」

 ファティマが小さく息を吐いた。

「エムって、ほんとに分かりにくい」

「壊れた本に分かりやすくする義理はない」

「また壊れた本って言った!」

「言った」

「少しは優しくなったのかと思ったのに!」

「妾は事実を曲げぬ」

「じゃあ、いつか事実の方を増やしてやるからね。ボクが壊れてても、役に立っただけじゃなくて、笑ったり怒ったりしたことも記録させるから」

 ファティマがそう言うと、エムは少しだけ沈黙した。

 それから、珍しく返答に時間を置いた。

「……増やせるものなら、増やしてみよ」

 ファティマは目を丸くした。

「それ、挑発?」

「試験じゃ」

「どっちも嫌!」

 そのやり取りに、セイは少しだけ笑った。

 ファティマも気づいて、ほんの少し笑い返した。

 笑いは小さい。

 傷が癒えたわけではない。

 けれど、完全に途切れてはいなかった。

 エムは庭園の縁へ歩いた。

 雲海の上に立ち、白い頁を一枚だけ指でなぞる。

「セイ」

 もう一度、彼女は名前を呼んだ。

「正史外の名を残せば、世界は歪むことがある。欠けた記録を抱けば、誤読も生まれる。すべてを残せば、世界は重みに耐えられなくなるかもしれぬ」

「はい」

「それでも、消せば軽くなるとは限らぬ」

 その言葉は、エム自身にも向けられているようだった。

 白銀の少女は、自分の本を見下ろす。

「今日、妾はそれを記録した」

 セイは静かに頷いた。

 エムの姿が薄くなり始める。

 光の頁が風にほどけ、白い衣の輪郭が夕暮れへ溶ける。

「砂漠へ行け」

 消えかけながら、エムは言った。

「黄金都市アウロの庭。大魔導師ファティマ。失われた名を集めた者。そこには、そなたたちの欠落に触れる記録が眠っている」

 ファティマの顔が強張る。

 セイは彼女の隣に立ったまま、エムを見つめた。

「あなたは一緒に来るんですか」

「妾は、必要な場所に現れる」

「それは、来るってことですか」

「問い方が下手じゃな」

「答え方も分かりにくいです」

 エムは、かすかに笑った。

 今までの月のような冷たい微笑とは、ほんの少しだけ違って見えた。

「少しは言い返すようになったな。ただの読者ではない、という記録は誤りではなかったようじゃ」

 白い光が散る。

 エムの姿は、今度こそ消えた。

 残ったのは、風と、雲海と、白い頁の細かな光の粒だけだった。

 ファティマはしばらく黙っていた。

 それから、小さく言った。

「砂漠、行くんだね」

「うん」

「怖いね」

「うん」

「ボクのこと、もっと分からなくなるかもしれない」

「うん」

「でも、行かないと分からないままだね」

「うん」

 ファティマは少しだけ不満そうにセイを見た。

「うん、しか言ってない」

「ごめん」

「でも、今はそれでいいかも」

 ファティマは立ち上がり、尻尾を軽く払った。

「砂漠かあ。暑そう。尻尾が蒸れそう。あとアズィーザが調子に乗りそう」

「最後はもう乗ってると思う」

「それもそう」

 少しだけ、いつもの調子が戻った。

 セイは空中庭園の端から、傷ついたゼフィ=ラウを見渡した。

 都市はまだ完全には安定していない。黒い羽への視線も、地上との対立も、王家の記録修正も、すぐには終わらない。

 それでも、正史には一行が増えた。

 正史外の黒翼と、欠けた魔本と、外より来た者がつないだ記録が。

 その一行は、すべてを救うものではない。

 だが、消さずに残った。

 セイは鞄を肩にかけ直した。

 薔薇の聖印が、胸の近くで静かに揺れる。

 ハナンから空へ。

 空から、次は砂漠へ。

 風の冒険は終わりに近づいている。けれど、旅はまだ終わらない。

 ファティマの欠落。

 大魔導師ファティマ。

 黄金都市アウロの庭。

 そして、いつか辿り着くかもしれない〈創造の書〉。

 セイはまだ、読むのか、書くのか、閉じるのかを知らない。

 ただ、その問いから目を逸らさないことだけは、今、少しだけ決められた。

 風が吹いた。

 ゼフィ=ラウの風は、もう完全な歌ではない。傷つき、乱れ、黒い羽の夜風と、蒼銀の風歌と、下層の油の匂いと、地上から来た荒い息を混ぜて吹いている。

 セイはその風を受けながら、ファティマと並んで空中庭園を後にした。

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