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第十三章 姉様の名

 蒼風都市ゼフィ=ラウは、落ちなかった。

 だが、救われたというには、あまりにも傷ついていた。

 雲海へ沈みかけた都市の外縁では、空中庭園の一部が崩れ、青い花びらが雲の中へ散っている。風車塔の羽根は何枚も折れ、白い塔の壁には細い亀裂が走り、下層へ向かう排風路からはまだ時折、低い唸りが漏れていた。空中回廊のいくつかは使用禁止となり、ウィンディの係留槍と仮設滑空台が、その代わりの危うい橋として張られている。

 人々は集められていた。

 風歌神殿の前にある大きな円形広場。白い石畳は傾きで何か所も割れ、蒼風石灯の半分は消えたままだ。それでも、ここは都市の中心だった。神殿、議会塔、蒼風宮、上層市場、そして下層へ続く大階段。そのすべてを見渡せる場所で、ゼフィ=ラウの民が集まっている。

 兵士たち。

 風歌神殿の神官たち。

 蒼銀や白い羽を持つ貴族たち。

 煤と油に汚れた下層技師たち。

 怪我をした者を支える荷役の人々。

 拘束は解かれたが、まだ警戒の視線を浴びている地上セイレーンの若者たち。彼らのそばには、ルガの集落から来た代表者らしい年配の女性も立っていた。灰色の羽を持ち、顔には深い皺が刻まれている。

 その広場の端に、セイたちもいた。

 セイは鞄を胸の近くに抱えている。中には〈ファティマの書〉と、セシルの薔薇の聖印がある。ハナンを出た時よりも、鞄は重くなった気がする。けれど、その重さの意味は少し変わっていた。

 ただ失くさないために抱えるのではない。

 見たものを、見なかったことにしないために持っている。

 ファティマは隣で耳を伏せ気味にしていた。壊れた本と呼ばれた傷はまだ残っている。だが、彼女は広場の人々から目を逸らさなかった。

 ウィンディは下層技師たちと一緒に、仮設の支柱を直しながらも、何度も神殿の方を見ている。

 アズィーザは、いつもの砂色の外套をまとい、柱にもたれていた。軽く笑っているが、目だけは広場全体を鋭く見ている。逃げ道、危険な視線、怒りの流れ、そういうものを読んでいるのだろう。

 そしてクラウディアは、広場の中央近くに立っていた。

 黒い羽を隠す肩布は、もう身につけていない。

 黒い羽は背に広がってはいなかったが、畳まれたままでも、その存在ははっきり見えた。夜空のような羽。蒼風石の光を受けると、黒の奥に青と紫が揺れる。

 多くの人が、その羽を見ていた。

 怖れる者。

 顔を背ける者。

 驚く者。

 都市を救った黒い風を見た者たちは、どう見ればいいのか分からない顔をしていた。

 黒い羽は不吉。

 そう教えられてきた。

 だが、その黒い羽が、都市を支えた。

 それを見てしまった人々の沈黙が、広場に満ちていた。

 神殿の階段の上に、ナディールが現れた。

 蒼銀の羽は疲労で少し乱れている。白と蒼の礼衣の裾には、まだ煤の跡が残っていた。冠の蒼風石も、いつものように澄んだ光ではなく、どこか鈍い光を宿している。

 けれど、彼女はまっすぐ立っていた。

 皇女として。

 そして、ひとりの妹として。

 隣には、議会の長らしい老いたセイレーン、風歌神殿の高位神官、中央調律局の役人たちが控えている。誰もが険しい顔をしていた。

「ナディール殿下」

 議会長が低い声で言った。

「今は民を安心させる言葉が必要です。都市は落下を免れた。蒼風石は王家と神殿の導きにより安定を取り戻した。地上側の侵入については、今後厳正に対処する。まずはそれを――」

「いいえ」

 ナディールは言った。

 静かだった。

 だが、その一言で広場の空気が変わった。

「まず告げるべきは、安心ではありません。事実です」

 神官が眉をひそめる。

「殿下、事実とは、正しく整えられた記録として民に示すべきものです。混乱の直後に未整理の情報を語れば――」

「正しく整えられた記録が、ひとりの名を消しました」

 ナディールの声が、広場へ広がった。

 ざわめきが起こる。

 クラウディアは動かなかった。

 セイは、拳を握る。

 いまからナディールは、都市の正史に傷を入れる。自分の足元を、自分で崩す言葉を口にする。

 それはクラウディアを救うための美しい宣言ではない。

 制度の嘘を、嘘だと認めるための言葉だ。

 ナディールは一歩前へ出た。

 風歌神殿の階段の上から、広場を見渡す。

「ゼフィ=ラウの民に告げます」

 その声は震えていなかった。

「王家の公式記録には、第一皇女は流産したと記されています。現継承者は、私、ナディール・リュフト=ゼフィリアであると記されています。黒い羽は継承不適格であり、蒼風石の管理権は正統王家に属すると記されています」

 誰も口を挟まなかった。

 エムが〈光天の書〉で示した正史と同じ言葉。

 その言葉を、今度はナディール自身が読み上げている。

「しかし、その記録は嘘です」

 広場がざわめいた。

 兵士が顔を上げ、神官が息をのむ。貴族たちは互いに視線を交わし、下層技師たちは静かに聞いている。地上セイレーンの代表は、目を細めてナディールを見ていた。

 ナディールは、逃げなかった。

「第一皇女は流産していません。生まれていました。黒い羽を持っていたために、王家はその名を公式記録から消しました。遠縁、保護個体、黒羽の魔導師、そのような言葉で隠しました」

 クラウディアの羽が、わずかに動いた。

 ナディールは、彼女へ視線を向けた。

 今度は、遠くからではなく、広場全体が見ている前で。

「彼女の名はクラウディア」

 その名が、風に乗った。

 セイは、その瞬間を見た。

 広場の人々が、初めてその名を一斉に聞く瞬間を。

 誰かが小さく繰り返す。

 クラウディア。

 黒羽の魔導師ではなく。

 不吉な者ではなく。

 王家に保護された遠縁でもなく。

 クラウディア。

「彼女は王家の血を引く、私の姉です」

 広場のざわめきは、今度こそ大きくなった。

 神官の一人が「殿下」と叫び、議会長が手を上げて制しようとする。兵士たちも困惑し、貴族の何人かは蒼ざめた。地上セイレーンの若者たちは、怒りと驚きの混ざった顔で王家の方を見る。

 下層技師街の人々の間からは、低いどよめきが上がった。

「やっぱりか」

「そういうことだったのか」

「クラウディアが、王家の」

 ウィンディは何も言わなかった。

 ただ、唇を引き結び、クラウディアを見ていた。

 ナディールは声を張った。

「黒い羽を理由に彼女の名を消したことは、王家の罪です。そして、その嘘を正史として受け入れ、黒い羽を不吉と呼び、彼女の力を必要な時だけ利用しながら、名を与えなかったことは、この都市の罪です」

 風が強く吹いた。

 神殿の蒼風石灯が、淡く揺れる。

 ナディールの蒼銀の羽も、クラウディアの黒い羽も、同じ風を受けた。

 議会長が一歩前へ出る。

「殿下、その発言は都市の根幹を揺るがします。継承の正統性、王家への信頼、蒼風石管理権、すべてが――」

「揺るがなければならないものを、揺るがさずに守ってきた結果が、今日の危機です」

 ナディールは彼を見た。

「都市は落ちかけました。地上からの怒り、未認可の技術、下層への負荷、古い構文の変質。それらはすべて関わっています。けれど、最も深い原因の一つは、王家が必要な記録を消したことです。正統な風歌だけでは都市を支えられなかった。正史に残された血統だけでは、蒼風石は安定しなかった」

 神官が叫ぶ。

「黒い羽を正統と認めるのですか! 風界王の加護は蒼銀の羽に――」

「風界王の加護を、私たちが都合よく蒼銀の羽だけに閉じ込めてきたのではありませんか」

 ナディールの声が、少しだけ震えた。

 それでも、彼女は続けた。

「黒い羽は不吉ではありませんでした。乱れた風を読み、都市が見ないふりをしてきた逆流を受け止める羽でした。私たちは、その力を恐れた。正統という物語が壊れるから。清らかな血統という嘘が破れるから」

 セイは、広場の隅で立ち尽くしていた。

 ナディールは悪人ではない。

 けれど、いま彼女は、自分を含む王家の罪を口にしている。

 それは誰かを責めるよりも、ずっと苦しいことなのかもしれなかった。

 ファティマが小さく呟く。

「ナディール、怖くないのかな」

「怖いと思う」

 セイは答えた。

「でも、言ってる」

「うん」

 ファティマは鞄の上から〈ファティマの書〉を押さえた。

「言葉って、怖いね」

「うん」

「でも、言わないと消えちゃう名前もあるんだね」

 セイは頷いた。

 セシルの名を思い出す。

 あの名も、誰かが呼ばなければ消えていった。

 クラウディアの名は今、公の風に乗っている。

 ナディールは、さらに一歩前へ出た。

「私は、これまで正統な継承者として記録されてきました。しかし、その記録が姉の名を消すことで成り立っているのなら、私はその上に立ち続けることはできません」

 ざわめきがまた広がる。

 ナディールは、迷わなかった。

「この記録に私の名だけを残すなら、私は継承者の名を返上します」

 広場が揺れた。

 言葉だけで、都市が再び傾いたように思えるほどだった。

 議会長が声を荒げる。

「殿下、それはなりません! あなたが継承者の名を返上すれば、都市の統治は混乱します。地上側との交渉も、蒼風石の管理も、風歌神殿の儀礼も――」

「私の名だけで守られる都市なら、それはまた誰かの名を消して守られる都市です」

 ナディールは言った。

「私は、姉の名を消したまま継承者ではいられません。クラウディアが王位を望むかどうかは、彼女が決めることです。私が与えるものではありません。王家が許すものでもありません。けれど、少なくとも、彼女の名を消した記録の上に、私だけが正しく残ることを拒みます」

 視線がクラウディアへ集まる。

 黒い羽の魔導師。

 隠された第一皇女。

 都市を救った黒翼の風。

 そのすべての名と役割が、いま彼女の背へ重なろうとしていた。

 クラウディアは、静かに前へ出た。

 人々が道を空ける。

 以前なら、黒い羽を避けるために空いた距離だった。

 今は、違った。

 恐れもある。戸惑いもある。けれど、その空いた道の先に、彼女自身が歩いていく。

 クラウディアは神殿の階段下で足を止めた。

 ナディールより少し低い位置にいる。

 ナディールはそれに気づき、一段降りた。

 さらに一段。

 クラウディアと同じ高さへ。

 その動きに、セイは息をのんだ。

 皇女が黒い羽の魔導師を下から認めるのではない。

 上から救い上げるのでもない。

 同じ高さに立とうとしている。

 クラウディアはそれを見た。

 すぐに表情を変えたわけではない。

 けれど、羽の先が、ほんの少しだけ揺れた。

「私は王位が欲しいのではありません」

 クラウディアの声は、広場全体に届くほど大きくはなかった。

 だが、不思議とよく通った。

 騒がしかった人々が静かになっていく。

「私を第一皇女として扱えと言いたいのでもありません。私の名が王家の系譜のどの枝に置かれるのか、そのことで誰かを従わせたいのでもありません」

 彼女は自分の黒い羽を少しだけ広げた。

 夜空のような羽が、蒼風石の光を受ける。

「私は、この羽を不吉と呼ばれました。名を呼ばれず、記録に置かれず、必要な時だけ力を求められました。今日、私はこの羽で都市を支えました。けれど、それは都市に許されたからではありません。私がそうすると決めたからです」

 セイはその言葉を胸に刻んだ。

 覚えておかなければならない。

 クラウディアが、自分の羽を使うと決めたこと。

 誰かに救われるためではなく。

 誰かの罪悪感を軽くするためでもなく。

「私は王位が欲しいのではありません」

 クラウディアはもう一度言った。

「名を消されない場所が欲しいのです」

 その言葉は、広場に深く落ちた。

 下層技師の一人が、汚れた帽子を握りしめる。

 地上セイレーンの代表が、静かに目を閉じる。

 神官たちは言葉を失い、貴族たちは互いの顔を見る。

 名を消されない場所。

 それは、王位よりも小さく聞こえる。

 けれど、この都市にとっては王位よりも大きな要求だった。

 ナディールはクラウディアを見つめていた。

 その瞳には涙が浮かんでいる。だが、彼女は泣き崩れなかった。

 泣いて許しを乞えば、またクラウディアに受け止める役目を押しつけることになる。

 彼女は涙をこらえ、まっすぐ立った。

「クラウディア」

 呼びかけたあと、少しだけ息を吸う。

 広場全体が、その続きを待った。

 ナディールは、もう逃げなかった。

「姉様」

 その言葉は、祈りではなかった。

 救いの呪文でもなかった。

 ナディールがずっと言いたかった、しかし制度の嘘に閉じ込められていた言葉。

 そして今、彼女自身がその嘘を破るために選んだ言葉だった。

「姉様」

 もう一度、ナディールは言った。

「私は、あなたを救うためにそう呼ぶのではありません。私が救われるために呼ぶのでもありません。王家が消した名を、王家の継承者である私が消したままにしないために、そう呼びます」

 クラウディアは目を閉じた。

 黒い羽がわずかに震える。

 その表情には、喜びだけではない。痛みもある。怒りもある。長い疲れもある。けれど、確かに何かが届いたように見えた。

「……ナディール」

 クラウディアは、妹の名を呼んだ。

 それだけだった。

 姉妹が抱き合うわけではない。

 すべてを許すわけでもない。

 長い断絶が一瞬で消えるわけではない。

 けれど、その名の呼び合いは、公の場で行われた。

 もう、なかったことにはできない。

 そのとき、広場の上空に白い光が現れた。

 セイはすぐに分かった。

 エムだった。

 白銀の少女は、風歌神殿の塔の影に立っていた。現実の足場に立っているのか、光の頁の上に立っているのか分からない。彼女の手には〈光天の書〉がある。

 エムは本を開いていた。

 頁の上に、光の文字が浮かぶ。

 王家第一子、流産。

 生存記録なし。

 黒羽、継承不適格。

 現継承者、ナディール。

 その文字が、揺れていた。

 ナディールが公の場で告げた言葉。

 クラウディアが広場に立っている事実。

 都市を救った黒翼の風を見た人々の記憶。

 それらが、〈光天の書〉の正史とぶつかっていた。

 白い頁の上に、薄い亀裂のような線が走る。

 エムの表情が、初めてわずかに揺れた。

「正史に……矛盾」

 遠い声だった。

 だが、セイには聞こえた。

 エムは本の文字を見つめている。

 正史にない者を皇女とは呼べぬ。

 彼女はそう言った。

 だが、今、その正史がクラウディアを消していたことが、公の場で明かされた。

 正史が誰かを消していたのなら、その正史は本当に正しいのか。

 正しい記録とは、誰が書いたものなのか。

 エムは、その問いの前で立ち止まっていた。

 完全に変わったわけではない。

 彼女の瞳はまだ冷たく、〈光天の書〉はまだ白く輝いている。

 けれど、その光は以前ほど揺るぎないものではなかった。

 ファティマが、セイの袖を引いた。

「エム、見てる」

「うん」

「怒ってる?」

「分からない」

 セイはエムを見上げた。

「でも、揺れてる気がする」

 ファティマは少しだけ黙り、そして小さく言った。

「ボク、壊れた本って言われたの、まだ痛い」

「うん」

「でも、エムも、何か痛そう」

「うん」

 セイもそう思った。

 正しさが揺らぐ痛み。

 信じていた記録が、誰かを消していたと知る痛み。

 それは、ファティマの痛みとは違う。クラウディアの痛みとも違う。セイの痛みとも違う。

 けれど、そこに痛みがあることだけは分かった。

 広場では、議会長がなお声を上げようとしていた。

 だが、先に地上セイレーンの代表が前へ出た。

 灰色の羽を持つ老女は、杖をつきながらナディールとクラウディアの前へ進む。兵士が止めようとしたが、ナディールが手で制した。

 老女はクラウディアを見た。

「黒い羽が第一皇女だったとは、皮肉なものだね」

 声は枯れていたが、よく通った。

「空の連中が清らかな血統とやらを守るために消したものが、地上の血と乱れた風を読む力だったとは」

 クラウディアは静かに答える。

「私は、地上側の怒りをすべて受け止められる立場ではありません」

「ああ。あんた一人に背負わせる気はないさ」

 老女はナディールへ向いた。

「蒼翼の皇女。いや、今は継承者の名を返上すると言った娘。地上の風見塔が止まり、子どもが落ち、病人の息を支える石も足りなかった。その訴えは、今度こそ記録に残るのかい」

 ナディールは深く頭を下げた。

 皇女が、地上の代表へ頭を下げた。

 広場がまたざわめく。

「残します。王家の記録としてではなく、都市と地上の交渉記録として。蒼風石の管理権も、地上側を含めて再審議します」

 老女はすぐには頷かなかった。

「言葉は風より軽い」

「はい」

「だが、何も言わぬよりはましだ」

 その返事は厳しかった。

 でも、完全な拒絶ではなかった。

 ウィンディが少しだけ息を吐いた。

「始まるかな」

 セイが横を見ると、彼は疲れた顔で笑っていた。

「地上と空をつなぐって、飛行機械を飛ばすより面倒なんだな」

「今さら?」

 ファティマが言う。

「今さらだな」

 ウィンディは苦笑した。

「でも、面倒だからやめるとは言わない」

「うん。それはウィンディっぽい」

「褒めてる?」

「半分」

「半分なら上等だ」

 アズィーザが肩をすくめた。

「今日は半分が多いねえ。半分救われて、半分壊れて、半分始まる」

「全部ちゃんと始めてください」

 セイが言うと、アズィーザは笑った。

「世界はだいたい、半端に始まるもんだよ、セイ坊」

 神殿の上で、エムの姿が薄くなり始めていた。

 彼女は最後に、クラウディアとナディールを見た。

 次にファティマを見た。

 そして、セイを見た。

 その視線は、以前のようにただ裁くものではなかった。

 何かを測っている。

 あるいは、自分の持つ物差しそのものを見直そうとしている。

 セイは、エムから目を逸らさなかった。

 エムは何も言わず、〈光天の書〉を閉じた。

 白い光が散り、彼女の姿は消えた。

 だが、消える直前、セイには見えた気がした。

 白い頁の端に、黒い羽のような小さな影が一つ、消されずに残ったことを。

 広場では、ナディールがもう一度民へ向き直っていた。

「都市はまだ傷ついています。蒼風石も完全には安定していません。地上との対話も、王家の記録修正も、羽色制度の再審議も、これからです。私は今日、継承者としての名を一度、審議の場へ返します。私が都市を守る者であり続けられるかは、私の血統ではなく、これからの行いで問われるべきです」

 その言葉に、誰もすぐには拍手しなかった。

 当然だった。

 これは勝利の場ではない。

 長く閉じられていた傷口を開いた場だ。

 血も出る。痛みもある。怒りも混乱もある。

 けれど、開かなければ膿んだままだった。

 クラウディアはナディールの隣に立った。

 少し距離を置いて。

 だが、もう影のように隠れてはいなかった。

 黒い羽は、広場の風を受けている。

 ナディールの蒼銀の羽と同じ風を。

 セイはその光景を見ていた。

 誰かを救うとは、その人を自分の物語に取り込むことではない。

 その人が自分の名で立つ場面を、見届けること。

 その意味が、少しだけ分かった気がした。

 クラウディアは、王位を得たわけではない。

 すべて許されたわけでもない。

 だが、彼女の名は公の風に乗った。

 消されない場所へ向けて、最初の一歩を踏み出した。

 セイは鞄の中の聖印に触れた。

 セシル・ローズ。

 クラウディア。

 ナディール。

 名前は、ただ呼べば救われるものではない。

 けれど、呼ばれなければ消えてしまうものもある。

 風が吹いた。

 ゼフィ=ラウの風は、まだ少し乱れている。

 それでも、その風の中に、黒い羽と蒼銀の羽の音が並んで響いていた。

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