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第十二章 黒翼の風

 蒼風石の縦穴は、青い嵐の喉のようだった。

 中枢蒼風塔の中心で、巨大な結晶が脈打っている。蒼く澄んでいるはずの光は、今は何本もの白い亀裂に裂かれ、地上から吹き上げる荒い風と、神殿から降り注ぐ正統な風歌と、下層の排風路から逆流する濁った風を同時に呑み込んでいた。

 都市は沈んでいる。

 ゆっくりではない。

 大きな生き物が苦しみながら息を吐くように、ゼフィ=ラウの基盤が一度沈み、そこで踏みとどまり、また傾く。雲海が窓の外で近づき、空中回廊が軋み、遠くで風車塔の羽根が一枚折れた。白い塔の破片が青空を落ち、雲の中へ消えていく。

 セイは手すりにつかまりながら、縦穴の底を見た。

 落ちたら終わりだ。

 そう思った瞬間、ハナンの地下保管庫が脳裏をよぎる。黒い扉。星の槍。救えなかった人。

 けれど、今は地下ではなく空の中にいる。

 落ちるのは、自分たちだけではない。

 町ごと、都市ごと、雲海へ沈もうとしている。

「上層の避難が間に合ってない!」

 ウィンディが風掴みゴーグルをかけ、縦穴の外側を走る気流を読んで叫んだ。

 ゴーグルの硝子に、蒼い線と白い乱流が映っている。彼の顔には焦りが浮かんでいたが、目はまだ諦めていない。

「空中回廊が傾いてる。翼を怪我した者と子どもは飛べない。下層の荷役場へ逃がす通路を開く」

「どうやって?」

 ファティマが叫ぶ。

「未完成の地上係留槍と滑空翼を使う!」

「未完成って言った!」

「完成してないけど、使える!」

「その言い方、だいたい危険!」

「危険じゃない避難路が今ない!」

 ウィンディは工具ベルトから風便筒ほどの太さの金属管を三本取り出し、床に叩きつけるように展開した。金属管の先から折り畳まれていた羽根板が飛び出し、蒼風石の小片が青く光る。さらに彼は、塔の外壁へ向けて銛のような装置を構えた。

「アズィーザ、紐!」

「盗人を綱係に使うとは、贅沢だねえ!」

 アズィーザは笑いながらも、すぐに動いた。外套の下から細いが強靭な縄を何本も取り出し、係留槍の輪に通していく。その手つきは早い。盗みのための指は、逃げ道を作るためにもよく動いた。

「この綱、切れないだろうね?」

「切れたら値がつかないからね。切れないよ」

「値段の話じゃなくて命の話!」

「命は一番高い」

「そういう意味じゃない!」

 ファティマが突っ込む声にも、余裕はほとんどなかった。

 ウィンディは係留槍を外壁の向こうへ撃ち込んだ。

 鋭い音がして、槍は傾いた空中回廊の支柱へ突き刺さる。縄が張り、風に煽られながらも一本の斜めの道を作った。そこへ小型の滑空台を吊るす。大人なら一人、子どもなら二人、怪我人を寝かせるにはぎりぎりの広さだ。

「こんなのに乗せるの!?」

 ファティマが青ざめる。

「乗せないと落ちる!」

「言い方!」

「安心する言い方を考えてる暇がない!」

 ウィンディは外の技師たちへ向けて叫んだ。

「下層係留路を開け! 子どもと怪我人から送れ! 滑空台は揺れるが落ちない! たぶん!」

「たぶんを消して!」

「落ちない! 俺が落とさない!」

 その声は、さっきまでより強かった。

 未完成の機械は危うい。

 けれど、そこには道があった。

 空に住む者だけの道ではない。翼のある者だけが飛ぶ道でもない。子どもも、怪我人も、飛べない者も、地上へ降りられるようにするための道。

 ウィンディの発明は都市を浮かせる力ではない。

 だが、都市が落ちる時、人をつなぎ、逃がす力になろうとしていた。

 上方から、ナディールの歌が響き続けている。

 風歌神殿で歌う彼女の声は、塔の中まで降りてきた。澄んで、正しく、切なく、都市全体を包むような歌だった。蒼銀の羽を持つ継承者の歌。王家の儀礼として受け継がれてきた、正統な風の歌。

 蒼風石の光が、その歌に応じて一瞬だけ整う。

 だが、白い亀裂と下からの逆風が、それをまた引き裂いた。

 ナディールの歌は美しい。

 けれど、美しさだけでは届かない場所がある。

 正しく整えられた風は、乱れた風の底へは降りられない。

 クラウディアは縦穴の縁に立っていた。

 肩布はまだ半分だけ黒い羽を隠している。だが、その下から漏れる羽の輪郭は、すでに風を受けて広がろうとしていた。

 彼女は、青い嵐を見下ろした。

 都市を消した制度。

 自分の名を削った王家。

 黒い羽を不吉と呼んだ神殿。

 必要な時だけ黒翼構文を求める中枢。

 その全部が、今、彼女の前で助けを求めている。

 クラウディアは静かに息を吸った。

「私は、この都市を許していません」

 誰に向けた言葉でもないようで、全員に聞かせる言葉だった。

 セイは黙っていた。

 彼女の痛みを分かったことにはできない。

 ただ、聞く。

 見ている。

「けれど、許していないことと、何もしないことは同じではありません」

 クラウディアは肩布の留め具に手をかけた。

 ナディールの歌が遠くで揺れる。

 蒼風石が軋む。

 都市がまた沈む。

 その瞬間、クラウディアは布を外した。

 黒い羽が広がった。

 セイは息をのんだ。

 それは、不吉なものではなかった。

 夜空だった。

 ただ暗いのではない。深い黒の中に、青、紫、銀の光が幾筋も潜んでいる。雲の上で見る夜のように、光を含んだ闇だった。羽の一枚一枚は長く、しなやかで、風に触れるたびに内側から星屑のような細い光が浮かぶ。

 誰かが怖れた羽。

 誰かが隠せと言った羽。

 王家が記録から消した羽。

 けれど今、その羽は都市のどの蒼風石よりも正確に、乱れた風を読んでいた。

 ファティマが小さく呟いた。

「やっぱり、かっこいい」

 こんな状況なのに、その声は真剣だった。

 クラウディアの横顔が、ほんの少しだけ揺れた。

 それでも彼女は、すぐに前を向く。

「黒翼風術を展開します」

 ウィンディが振り返る。

「何が必要だ?」

「止めないでください」

「え?」

「暴走する風を、止めようとしないでください。正統な風歌は、追い風を呼び、風を整える魔導です。ですが、黒翼風術は違います」

 クラウディアの羽が、ゆっくり広がる。

 縦穴の中で暴れる風が、その羽に触れた。

 普通なら吹き飛ばされるはずの逆風が、黒い羽の間を通り抜け、細い線となって見え始める。

「黒翼は、乱れた逆風を読む羽です。押し返すのではなく、流す。消すのではなく、行き場を作る。都市を落とす風を、都市を支える風へ変えます」

 クラウディアは一歩踏み出した。

 縦穴の上へ。

 足元には何もない。

 だが、黒い羽が風を捕らえた。

 彼女の身体が宙へ浮く。

 白い衣ではない。蒼銀の羽でもない。黒い羽を持つ魔導師が、青い嵐の上に立った。

 その姿を見た瞬間、セイは思った。

 これは、救われる人の姿ではない。

 誰かに守られている人の姿でもない。

 自分の羽で立つ人の姿だ。

 クラウディアは詠唱した。

 それは、ナディールの歌のように高く澄んだものではなかった。

 低く、深く、夜の底を流れる風のような声。

「黒き羽よ、閉ざされた夜よ。

 追い風に置かれぬ逆流よ。

 捨てられた名の下に眠る、沈む風の道を開け。

 止めるな。裂くな。奪うな。

 落ちるものを、落ちるままに読め。

 沈むものを、沈む底より支えよ」

 黒い羽から、夜色の風が広がった。

 それは闇ではなかった。

 風の形をした影だった。

 暴走する蒼風石から吹き出す乱流に触れた瞬間、黒翼の風はそれを押し返さなかった。受け止め、ほどき、別の流れへ逃がしていく。下層へ叩きつけられていた負荷が、塔の外側の排風路へ流れ、そこから係留槍の縄を通じて外気へ逃げていく。

 都市を落とす風が、都市の下で渦を巻き、今度は基盤を押し上げる風へ変わり始めた。

 だが、それだけでは足りない。

 白い亀裂がまだ蒼風石の中心を削っている。正史照合の白い光だ。欠落した記録を白紙に戻そうとする力が、クラウディアの黒翼構文を何度も切り離そうとする。

 ファティマが苦しそうに頭を押さえた。

「痛い……」

「ファティマ!」

 セイが駆け寄る。

 ファティマは膝をつき、〈ファティマの書〉を抱えた。紅と金の瞳が揺れている。

「見える。見えるけど、ボクの記憶じゃない。蒼風石の古い制御詩。風界王ゼークの……違う、もっと前? この都市が落ちたことがある。落ちて、拾われて、繋がれて、また飛んだ。誰かが書き直した。何度も。だけど、全部じゃない。欠けたところに、まだ古い歌が残ってる」

 ファティマの声が、途中で変わった。

 ほんの一瞬だった。

 明るい猫耳少女の声ではなく、ずっと遠くから響くような、静かな女の声。

「風は所有されぬ。石は名を選ばぬ。羽は色によりて価を定められぬ。

 外より来た者よ、記すな。ただ、結べ」

 セイは息を止めた。

 外より来た者。

 ファティマは今、セイをそう呼んだ。

 彼女自身も気づいていないようだった。目は開いているのに、どこか別の記憶を見ている。

「ファティマ」

 セイが呼ぶと、彼女ははっと瞬きをした。

「セイ……? ボク、今、何か言った?」

「言った」

「変なこと?」

「大事なことかもしれない」

 ファティマは震える手で〈ファティマの書〉を開いた。

 頁が風もないのにめくれていく。蒼い光、黒い羽、白い頁、銀の歌、歯車、縄、雲海。いくつもの図が重なり合って現れ、すぐに崩れる。

「思い出せる。でも、足りない。ボクだけじゃつながらない」

 セイは本を見た。

 喉が乾く。

 魔本を開くことが、まだ怖い。

 ハナンで、星の槍を降らせた。町は残った。けれど、セシルは戻らなかった。

 魔本は世界を書き換える。

 そう思っていた。

 だから怖かった。

 でも、今見えている頁は、何かを撃つためのものではなかった。誰かの存在を変えるためのものでもない。

 欠けたもの同士が、ばらばらに光っている。

 ナディールの風歌。

 クラウディアの黒翼風術。

 ウィンディの係留槍と滑空台。

 ファティマの欠落した古い制御詩。

 エムの〈光天の書〉が残した白い正史照合。

 それらは互いにぶつかり、切れ、届かず、都市を落とそうとしている。

 必要なのは、書き換えることではない。

 つなぐことだ。

 セイは、ゆっくり〈ファティマの書〉へ手を置いた。

 ファティマが不安げに見上げる。

「セイ、怖くないの?」

「怖い」

 セイは正直に答えた。

「でも、今は何かを消すためじゃない。誰かの代わりに答えを決めるためでもない。つなげるかもしれないものがあるなら、つなぎたい」

「失敗したら?」

「失敗するかもしれない」

 その言葉を言うのは怖かった。

 でも、言わなければならなかった。

「だから、僕一人でやらない。ファティマも、クラウディアも、ナディールも、ウィンディも、アズィーザも。みんなのしてることを、勝手に一つにするんじゃなくて、つながる場所だけ探す」

 ファティマは少しだけ目を見開いた。

 それから、泣きそうな顔で笑った。

「ご主人様、ちょっと魔本使いっぽい」

「今、その呼び方なんだ」

「癖です」

「じゃあ、相棒」

 セイは本を開いた。

 頁が止まる。

 そこには、星の槍ではなく、線が描かれていた。

 細い糸のような線。

 風を結ぶ線。

 歌と記録と機械と羽を結ぶための線。

 文字は完全ではない。ところどころ欠けている。ファティマの記憶と同じように。

 だが、欠けているからこそ、他のものを受け入れる余地があった。

 セイは息を吸った。

 詠唱ではない。

 命令でもない。

 自分の声が世界を上から書き換えるのではなく、届いていないものへ橋をかけるように。

「ライラ――」

 星の槍の時とは違う光が、本からこぼれた。

 鋭い光ではない。

 細く柔らかい、糸のような光。

「ラライラ、リリラララ。

 散るものを留めるためではなく、

 欠けたものを欠けたまま結ぶために。

 正しき歌よ、乱れた風よ、未完の翼よ、白き頁よ、忘れられた詩よ。

 ひとつになれとは言わない。

 同じになれとも言わない。

 ただ、互いの声を聞く道を開け。

 《結風のライラ》――リンク・ゲイル」

 光の糸が走った。

 まず、ファティマの開いた頁から、古い制御詩の欠片が浮かび上がる。

 それは完全な言葉ではなかった。

 だが、クラウディアの黒翼風術がその欠けた部分を風の形で読み取った。

 夜色の風が、古い詩を抱き込む。

 次に、ナディールの風歌へ細い光が届いた。上層の神殿で歌っている彼女は、驚いたように一瞬声を揺らした。だが、すぐに歌を変えた。正統な旋律の中に、クラウディアの黒翼風術が作った逆風の道を受け入れる余白を作る。

 蒼銀の歌と黒翼の風が、ぶつからずに並んだ。

 同じにはならない。

 けれど、初めて互いの場所を奪わずに響いた。

 さらに光の糸は、ウィンディの係留槍へ伸びる。

 彼の未完成の機械が、蒼風石の余剰風を逃がす道になった。滑空台に乗った子どもや怪我人たちが、下層の係留路へ向かって運ばれていく。途中で大きく揺れ、ファティマが悲鳴を上げたが、アズィーザが綱を引き、ウィンディが叫び、技師たちが支えた。

「右の風を逃がせ!」

「右ってどっち!?」

「落ちてない方!」

「全部落ちそうだよ!」

「じゃあ全部支えろ!」

 無茶苦茶な会話だった。

 けれど、滑空台は落ちなかった。

 未完成の機械は、完璧な空の乗り物ではない。

 それでも今、誰かが地上へ、あるいは安全な下層へ逃げるための道になっている。

 最後に、光の糸が白い亀裂へ触れた。

 〈光天の書〉の正史照合が残した白い光。

 そこへ触れた瞬間、セイの胸に冷たい声が響いた。

 ――照合不能。

 ――正史外。

 ――白紙化。

 エムの声ではない。

 もっと機械的な、記録の判定そのもののような響きだった。

 セイは歯を食いしばる。

「白紙にしない」

 声に出した。

「正史にないからって、消さない。欠けてるなら、欠けてるって記す。壊れてるなら、壊れてるままつなぐ。きれいに直さなくていい。なかったことにしなくていい」

 白い亀裂が抵抗するように光った。

 その向こうに、ほんの一瞬だけ、エムの姿が見えた。

 白銀の少女が、どこか遠い頁の上からこちらを見ている。

 手を貸すわけではない。

 止めるわけでもない。

 ただ、見ている。

 セイはその視線を感じながら、本を握った。

「見ていてください。僕も、見ます」

 白い亀裂が、完全に消えるわけではなかった。

 だが、広がるのをやめた。

 白紙化の光が、黒翼の風と蒼銀の歌と古い制御詩に囲まれ、ひとつの余白として留まる。

 消すための白ではなく、まだ書かれていない場所として。

 クラウディアが縦穴の中心で羽ばたいた。

 黒い羽が全開になる。

 夜空のような翼から、無数の風の線が伸びた。

 ナディールの歌がそれに重なる。

 ファティマの古い詩が欠けた部分を照らす。

 ウィンディの機械が余剰風を外へ逃がす。

 アズィーザの綱が避難路を支える。

 セイの〈ファティマの書〉が、それらを一つにまとめるのではなく、それぞれがそれぞれのまま届くように結んだ。

 蒼風石が、大きく鳴った。

 それは崩壊の音ではなかった。

 長く詰まっていた息を、ようやく吐き出すような音だった。

 都市が沈む。

 セイの心臓が跳ねた。

 だが、その沈みは途中で止まった。

 次に、ゆっくりと持ち上がる。

 雲海へ沈みかけていたゼフィ=ラウの基盤が、黒翼の風に支えられ、蒼銀の歌に導かれ、余剰風を逃がす機械の道に助けられて、少しずつ高度を取り戻していく。

 空中回廊の揺れが収まる。

 風車塔の音が整う。

 下層排風路の悲鳴が低くなり、蒼風石灯が一つ、また一つと灯りを取り戻していく。

 ファティマが目を開いた。

「止まった……?」

 ウィンディがゴーグル越しに気流を確認する。

「落下は止まった。完全安定じゃないけど、持ち直してる!」

「完全じゃないの!?」

「完全なんて言える状況じゃない。でも落ちてない!」

 ファティマは一瞬だけ怒りかけて、それから力が抜けたように座り込んだ。

「落ちてないなら、今はそれでいい……」

 アズィーザが綱を肩にかけたまま笑った。

「いいねえ。未完成の勝利ってやつだ」

「縁起でもない言い方しないで」

「完成してないのに勝ったんだから、褒め言葉さ」

 セイは本から手を離した。

 指が震えている。

 胸も痛い。

 けれど、ハナンでライラを使った時のような、誰かを引き裂くような反動ではなかった。

 それでも疲労は重い。

 ファティマが慌てて支える。

「セイ!」

「大丈夫」

「大丈夫じゃない顔してる」

「でも、さっきより怖くない」

 自分で言って、セイは少し驚いた。

 魔本はまだ怖い。

 それは変わらない。

 けれど、魔本はただ世界を書き換える道具ではなかった。

 誰かの願いを無理やり押し通すものでも、敵を撃つためだけのものでもなかった。

 欠けたものと欠けたものの間に、道を作ることもできる。

 それを、今、少しだけ知った。

 縦穴の中央で、クラウディアがゆっくり上昇してくる。

 黒い羽はまだ広がっていた。

 もう隠されていない。

 その羽には、蒼風石の青い光と、ナディールの歌の銀色と、ファティマの頁からこぼれた淡い金色がわずかに残っていた。

 彼女は足場へ降り立った。

 少しふらついたが、ウィンディが支えるより早く、自分の足で立った。

 ウィンディは伸ばしかけた手を止め、少しだけ笑った。

「……立ってるな」

「立っています」

 クラウディアは答えた。

 声は疲れていた。

 けれど、折れてはいなかった。

 上方から、ナディールの歌が静かに終わる。

 都市の風はまだ乱れている。

 多くの回廊が傷つき、避難路は綱に支えられたまま揺れ、蒼風石の白い亀裂も完全には消えていない。

 だが、ゼフィ=ラウは落ちなかった。

 セイはクラウディアを見た。

「見ていました」

 短く言った。

 クラウディアはセイを見る。

「はい」

「クラウディアが、自分の羽で飛ぶところを」

 黒い羽が、わずかに揺れた。

 クラウディアは少しだけ目を伏せ、それから静かに言った。

「なら、覚えていてください。私は、都市に使われたのではありません。私が、この羽を使うと決めました」

 セイは頷いた。

「覚えます」

 ファティマも隣で頷いた。

「ボクも。欠けてても、覚える」

 ウィンディが笑う。

「俺も記録する。技師街の全員に言わせる。今日、都市を支えたのは黒翼の風だって」

 アズィーザが肩をすくめる。

「あたしは高く語るよ。もちろん本人の名つきでね」

「売るんですね」

「語りは売る。でも名は盗まない」

 その言葉に、クラウディアはほんの少しだけ笑った。

 本当にわずかな笑みだった。

 だが、セイには見えた。

 都市の外では、雲海が遠ざかっていく。

 空はまだ青い。

 蒼風都市ゼフィ=ラウは、落下を免れた。

 完全に救われたわけではない。

 傷は残る。

 嘘も残る。

 白い亀裂も、正史の傷も、地上との対立も、黒い羽への視線も、すぐには消えない。

 けれど、都市は落ちなかった。

 そして、黒い羽はもう隠れていなかった。

 セイは〈ファティマの書〉を閉じた。

 その表紙は、ほんの少しだけ温かかった。

 世界を書き換えるのではなく、欠けたもの同士をつなぐ。

 その使い方を、セイは初めて自分の手で選んだ。

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