表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/48

第十一章 蒼風石暴走

 蒼風宮の記録保管庫を出た瞬間、ゼフィ=ラウが沈んだ。

 ほんの一瞬だった。足元が、抜けたように軽くなる。続いて、腹の底をつかまれるような重さが来た。床の白い石が低く唸り、壁の蒼風石灯が一斉に明滅する。天井から吊るされていた記録管が触れ合い、かすかな硝子の音を立てた。

 セイは思わず壁に手をついた。

 ファティマが隣で悲鳴を飲み込み、鞄の上から〈ファティマの書〉を押さえる。

「いま、落ちた?」

「少しだけ」

 ウィンディの声が硬かった。

 彼は宮殿の窓へ駆け寄り、外を見下ろす。

 雲海が、さっきより近い。

 それが錯覚ではないことは、都市全体の音が教えていた。上層の風車塔が高く鳴り、空中回廊の支柱が軋み、遠くの方で人々の悲鳴が上がる。蒼風都市ゼフィ=ラウは、雲の上に浮かぶ理想郷ではなく、巨大な重さを持つ都市なのだと、セイは初めて身体で理解した。

 浮いているものは、落ちる。

 当たり前のことが、急に恐ろしかった。

 ナディールは青ざめた顔で、窓の外を見た。蒼銀の羽が震えている。だが、すぐに振り返り、護衛に命じた。

「風歌神殿へ伝令を。中枢蒼風石の安定儀礼を開始します。上層区の市民は内側の回廊へ退避。下層には、排風路から離れるよう知らせてください」

「殿下、議会からは地上侵入者の拘束を優先せよとの――」

「都市が沈めば、拘束する場所も残りません」

 静かな一喝だった。

 護衛は深く頭を下げ、走り去る。

 ナディールはクラウディアへ向き直った。

 姉と呼びたかった相手。

 公式記録から消された第一皇女。

 だが、今はその言葉を飲み込んだ。

「中枢の状態は」

「悪化しています」

 クラウディアは硝子盤を開いた。

 蒼い線で描かれた都市構文が、激しく震えている。中枢蒼風石から放射状に伸びる風の流れは、本来なら均等に広がるはずだった。だが、今は上層側だけが強く光り、下層へ向かう線は何本もねじれている。さらに、外側から荒い風の線が食い込んでいた。地上側の風歌だ。

 クラウディアの指が、いくつもの乱れを追った。

「原因が重なっています。地上セイレーンの侵入による防護構文の過剰反応。ウィンディの試作安定器が補助炉と干渉した反動。王家記録保管庫の封印解除による中枢系譜構文の再照合。そして――」

 彼女は一瞬、言葉を切った。

「風界王ゼークの古い構文が、現在の都市構文と噛み合っていません」

「ゼークの構文が?」

 ウィンディが目を見開く。

「蒼風石は風界王の古い構文を核にしている。それは知ってる。でも、変質してるなんて記録は――」

「公式記録にはありません」

 クラウディアは静かに言った。

「ですが、乱れています。古い構文に新しい血統儀礼が継ぎ足され、さらに羽色による適格判定が重ねられている。その上で、私の存在を正史から消したため、中枢は本来必要な黒翼側の制御線を欠いたまま動いています」

 ナディールの顔が痛みに歪んだ。

「姉様を消したことが、都市の制御にも」

 言ってから、彼女ははっと口を押さえた。

 公の場ではない。だが、その呼び方は、まだクラウディアに許可を求めるような響きを持っていた。

 クラウディアはそれに触れなかった。

「それだけではありません」

 ファティマが小さく言った。

 全員が彼女を見る。

 ファティマは、鞄の上から〈ファティマの書〉を押さえたまま、震える声で続けた。

「さっき、エムが正史を開いた。〈光天の書〉でクラウディアの記録を照合した。あのとき、白い光が欠けてる場所を消そうとしてた」

「消そうとしていた?」

 セイが聞くと、ファティマは頷いた。

「うん。正史にないなら白くする。余白に戻す。そんな感じ。クラウディアの名が、王家の記録の下に隠れてたでしょ? あそこに光が入って、白紙にしようとした。でも、ナディールが封印を開いたから、消えきらずに中枢が引き裂かれてる」

 ファティマの顔は青ざめていた。

 エムに「壊れた本」と呼ばれた傷は、まだ消えていない。けれど、彼女は逃げずに言葉にした。

 クラウディアは静かに頷いた。

「正史照合による欠落記録の白紙化。あり得ます。〈光天の書〉が示した記録は、都市の公式史と強く共鳴していました。消されたものを消されたまま固定しようとしたのなら、中枢に残っていた私の制御線はさらに切断されます」

「つまり」

 アズィーザが腕を組んだ。

「地上の怒り、発明家の未完成品、王家の嘘、古い神様の継ぎ接ぎ、正史の少女の白い頁。全部まとめて、空の都を落としにかかってるってわけだ」

「言い方は雑ですが、おおむね正しいです」

 クラウディアが答えると、アズィーザは苦笑した。

「雑でも当たれば値がつく」

「値段をつけている場合ではありません」

「分かってるさ」

 そのとき、二度目の沈降が来た。

 今度は一瞬ではなかった。

 床が斜めに傾く。

 窓の外で、空中庭園の一角が崩れ、青い花びらが雲海へ吸い込まれていく。遠くの回廊で人々が滑り、兵士が翼を広げて支えようとする。蒼風石灯がいくつも割れ、青い火花が風に散った。

 ファティマがセイの袖をつかむ。

「セイ、都市が落ちてる」

「うん」

 声が震えた。

 都市が落ちている。

 目の前で、町が失われかけている。

 ハナンの光景がよみがえった。崩れる聖堂。黒い霧。名前が吸われる声。セシルの手。

 また、何かを救えないのか。

 また、誰かが消えるのか。

 鞄の中の聖印が、胸を打つように重かった。

 ナディールは窓辺へ進み、蒼銀の羽を広げた。

「風歌神殿へ向かいます」

「殿下、今の傾きで上層へ行くのは危険です」

 クラウディアが言う。

「それでも、私が歌わなければ市民はもっと不安になります。王家の風歌は、都市を落ち着かせるためのものです」

「正統な風歌だけでは足りません」

「分かっています」

 ナディールはまっすぐクラウディアを見た。

「それでも、私にできることを先にします。足りないことを知ったうえで」

 クラウディアは少しだけ目を伏せた。

「分かりました。私は中枢へ行きます」

「中枢へ?」

 ウィンディが叫んだ。

「あそこは王家と神殿の許可がなきゃ入れないし、今は一番危ない場所だぞ」

「危ないから行くのです。私が読むべき乱れは、そこにあります」

「じゃあ俺も行く」

「あなたの発明は暴走したばかりです」

「だから行く。俺の装置がどこで干渉したのか、俺が見なきゃ直せない」

「喧嘩してる暇はないよ」

 ファティマが割って入った。

「ナディールは歌う。クラウディアとウィンディは中枢を見る。ボクとセイも……」

 そこで彼女は言葉を詰まらせた。

 魔本を開くのが怖い。

 それはセイだけではない。ファティマも同じなのだ。

 アズィーザが彼女の頭を軽く叩いた。

「本猫、いま無理に全部言わなくていい。できるところまで言いな」

「ファティマ」

「はいはい、ファティマ。で、あたしは?」

「アズィーザは盗まない」

「それは難しい役目だねえ」

「あと、避難経路を探す。地上係留槍とか、古い桟橋とか、そういうの詳しいでしょ」

 アズィーザの琥珀色の目がわずかに光った。

「いいね。盗人向きだ。逃げ道探しは得意だよ」

 役割が決まるより早く、都市はさらに傾いた。

 遠くで風歌神殿の鐘が鳴る。

 ナディールは護衛を伴い、上層へ飛び立った。蒼銀の羽が光をまとい、傾く都市の風を切って上昇する。その背中は美しかった。けれど、もう美しさだけでは足りないことを、誰もが知っていた。

 セイたちは、クラウディアとウィンディに続いて中枢蒼風塔へ向かった。

 蒼風塔は、ゼフィ=ラウの中心を貫く巨大な塔だった。外から見たときは白く美しい塔に見えたが、内部はまるで風の井戸だった。螺旋状の通路が塔の内壁に沿って下へ伸び、中央には巨大な縦穴がある。その奥で、蒼い光が脈打っていた。

 中枢蒼風石。

 都市を浮かせる心臓。

 セイは、その光を見た瞬間、息をのんだ。

 あまりにも大きい。

 それは石というより、青い嵐を閉じ込めた星の欠片のようだった。何本もの鎖と風構文の輪が周囲を囲み、神殿から伸びる歌の線、王家の系譜構文、排風路へ続く制御線が複雑に結ばれている。

 しかし、その美しい構造は今、激しく乱れていた。

 青い光の中に白い亀裂が走っている。〈光天の書〉の頁に似た白さだった。その白い亀裂は、どこかの記録を消そうとするように広がり、周囲の蒼い構文を削っている。さらに、下方からは地上の荒い風が突き上げ、横からはウィンディの試作炉の残留波が引っかかり、上方からはナディールの風歌が必死に整えようとしていた。

 整えようとするほど、欠けた場所が痛む。

 そんなふうに見えた。

「ひどいな……」

 ウィンディの声がかすれた。

「これをずっと、正しい構文だと思ってたのか」

「正しい形に見えるよう、上から何度も整えられてきたのです」

 クラウディアは黒い羽を肩布の下で震わせながら言った。

「けれど、欠けている場所は埋まっていない。私の構文を消した空白に、別の儀礼を重ねて隠していた。普段ならそれでも都市は浮きます。ですが、複数の衝撃が重なった今、空白が裂けています」

 ファティマが青ざめた顔で蒼風石を見る。

「白いところ、気持ち悪い。あれ、欠けた記録を白紙にしようとしてる。クラウディアの名前があった場所も、地上と空が分かれる前の記録も、ゼークの古い構文も、全部まとめて『なかったこと』にしようとしてる」

「エム……」

 セイは呟いた。

 彼女はここにいない。

 だが、光天の書の照合はまだ残っている。正史にないものを白くする光。

 正しい記録を守るために、欠けた記録を消す光。

 その正しさが、都市を落とそうとしている。

 上方から、ナディールの歌が響いた。

 澄んだ声だった。

 高く、清らかで、正統な風歌。

 蒼風石の光が一瞬だけ整う。都市の傾きが少し戻り、人々の悲鳴が遠のく。

 ナディールの歌は本当に美しかった。

 セイは、それを疑えなかった。

 彼女は都市を守ろうとしている。必死に歌っている。王家の継承者として、自分にできるすべてを注いでいる。

 しかし、白い亀裂は消えなかった。

 蒼風石は再び暴れ、都市全体が大きく傾いた。塔の内部の通路が斜めになり、セイは手すりにしがみつく。ファティマが悲鳴を上げ、アズィーザが彼女の首根っこをつかんで引き戻した。

「本猫、雲海行きはまだ早い!」

「ファティマ! あと助かったけど、持ち方が猫!」

「猫耳だから合ってるだろ」

「合ってない!」

 軽口はあったが、声には余裕がない。

 ウィンディは蒼風石へ向けて計測器をかざした。

「ナディールの風歌だけじゃ足りない。いや、足りないっていうより、届いてない場所がある。正統構文が通る道は安定する。でも、外された制御線が反応してない」

「それが黒翼構文です」

 クラウディアは静かに言った。

 全員が彼女を見た。

 黒い羽は、まだ肩布に隠れている。

 それなのに、塔の中の乱れた風は、まるでその羽を呼ぶようにクラウディアの周囲を回っていた。

「私の羽は、正しい風を増幅するものではありません。乱れた風、逆流した風、排風路に落ちた負荷、記録から外された構文を読むための羽です。都市は、それを不吉と呼んだ。けれど、中枢は最初から、私のような構文を必要としていた」

「じゃあ、クラウディアが加われば」

 ウィンディの声に希望が混じる。

 だが、クラウディアはすぐには頷かなかった。

 彼女は蒼風石を見上げる。

 青い光と白い亀裂と、王家の鎖に縛られた都市の心臓を。

「私がこの都市を救うのですか」

 その声は、とても静かだった。

「私を消した都市を。黒い羽を不吉と呼び、名を記録から削り、必要な時だけ読み取る力を求める都市を」

 誰もすぐには答えられなかった。

 クラウディアは続ける。

「助けても、また功績は消されるかもしれません。ナディールの風歌が都市を救った、と記録されるかもしれない。黒い羽の構文は危険だったが、王家の管理下で利用された、と書かれるかもしれない。あるいは、最初から私などいなかったことにされるかもしれない」

 彼女の声は震えていなかった。

 そのことが、かえってつらかった。

「私は結局、必要な時だけ使われる存在なのでしょうか」

 その問いに、ウィンディが拳を握る。

「違う!」

 彼は叫んだ。

「違うって、俺は言う。何度でも言う。君がやったことは俺が記録する。技師街の連中にも言わせる。ナディールだって――」

「ウィンディ」

 クラウディアが止めた。

「あなたの言葉はうれしい。ですが、それだけでは足りません」

 ウィンディは言葉を失った。

 ファティマも、何か言いたそうにしている。

 だが、彼女はぐっと堪えた。壊れた本と呼ばれた自分が、壊れた記録を庇う。エムの言葉がまだ彼女を傷つけている。それでも、今は軽く「大丈夫」と言えないことを、ファティマ自身が分かっているようだった。

 セイは、クラウディアを見た。

 何か言わなければと思った。

 でも、怖かった。

 救いたいと言うのが怖い。

 そう言った瞬間、クラウディアを自分の物語にしてしまいそうで。

 セシルを救えなかった自分が、今度こそ誰かを救いたいだけなのではないか。

 エムの問いが、胸の奥でまだ鳴っている。

 おまえは、彼女を救いたいのか。それとも、救うことで自分を救いたいのか。

 セイは鞄に触れた。

 聖印がそこにある。

 冷たい重み。

 逃げるな、と言われている気がした。

 でも、急いで答えを作るな、とも。

「クラウディアさん」

 セイはゆっくり言った。

 自分の言葉が軽くならないように。

 彼女の痛みを、自分の痛みに置き換えないように。

 救いという言葉で包んでしまわないように。

「僕には、クラウディアの痛みは分からない」

 クラウディアが、セイを見た。

 黒い瞳の奥に、風が揺れている。

「分かったって言ったら、また間違えると思う。僕は、クラウディアがこの都市を救したいのか、救いたくないのか、それも決められない。救ってくださいって頼むことも、きっと簡単には言えない」

 都市がまた揺れた。

 遠くで誰かが叫ぶ。

 それでもセイは、言葉を止めなかった。

「でも、クラウディアが自分の羽でどうするのか、見ていたい」

 その言葉は、風の中へ落ちた。

 救う、ではなかった。

 救ってほしい、でもなかった。

 見届ける。

 クラウディアを自分の罪悪感の答えにしないために、セイが今どうにか選べた言葉だった。

 クラウディアは何も言わなかった。

 だが、肩布の下で黒い羽がかすかに動いた。

 ファティマがセイの隣で、小さく頷いた。

「ボクも見たい」

 彼女は言った。

「ボクは欠けてる本かもしれない。壊れてるところがあるのかもしれない。でも、見たものは覚えたい。クラウディアが自分で選んだことを、ちゃんと覚えたい」

 ウィンディが深く息を吸った。

「俺は、君がやるって言うなら道具を作る。やらないって言うなら、別の手を考える。間に合うかは分からない。でも、君を部品みたいに使うのは嫌だ」

 アズィーザは短剣をくるりと回した。

「あたしは盗人だからね。都市が落ちるなら逃げ道を盗んででも作る。でも、黒い羽の使い道を盗む気はないよ」

 クラウディアは、ゆっくり目を閉じた。

 上方から、ナディールの歌が続いている。

 美しく、苦しい歌だった。

 正統な風歌。

 制度に許された風。

 だが、その歌だけでは届かない場所がある。

 クラウディアは目を開けた。

「私は、この都市を許していません」

 静かな声だった。

「私を消した王家も、黒い羽を不吉と呼んだ神殿も、私の名を記録しなかった役人も、必要な時だけ私の力を求めるこの都市も、許していません」

 誰も遮らなかった。

「それでも」

 彼女は肩布に手をかけた。

「私は、私の羽をこの都市のためだけに使うのではありません」

 布が外れる。

 黒い羽が、半分だけ現れた。

 夜空のような羽。

 青と紫の光を含み、蒼風石の乱れた光を受けて深く輝く羽。

「この羽が何をするのか、私が決めます」

 その瞬間、蒼風石が大きく脈打った。

 白い亀裂が広がり、都市全体がさらに傾く。

 雲海が窓の向こうで大きく迫った。

 上層から、ナディールの歌が一瞬だけ途切れる。

「ナディール!」

 ウィンディが叫ぶ。

 クラウディアは顔を上げた。

 黒い羽はまだ完全には開いていない。

 けれど、その奥に風が集まり始めていた。

「中枢へ降ります」

「降りるって、あの真下に?」

 ファティマが青ざめる。

「はい。黒翼構文は、上から歌うものではありません。乱れの下へ入り、逆流の底を読むものです」

「つまり、一番危ないところ?」

「そうです」

「正直に言わなくていいのに!」

 ファティマが悲鳴を上げる。

 セイは蒼風石の縦穴を見下ろした。

 青い嵐と白い亀裂が渦を巻いている。あの中へ降りる。考えただけで足が震えた。

 ウィンディはゴーグルを下ろした。

「俺の滑空翼の補助機がある。人ひとりなら中枢付近まで降ろせる。戻れる保証は……」

「たぶん?」

 ファティマが睨む。

 ウィンディは少しだけ笑った。

「今回は、たぶんって言わない。戻す。俺が戻す」

 アズィーザが肩を鳴らす。

「じゃあ、命綱はあたしが見る。盗人は紐の扱いが得意でね」

「信用していいんですか」

 セイが聞くと、アズィーザはにやりとした。

「落ちたら盗む相手が減るからね。今回は信用しな」

「理由はひどいけど、分かりました」

 ファティマが〈ファティマの書〉を抱えた。

「ボクも、蒼風石の欠けた記録を探す。直接触らない。まだ怖い。でも、見る。思い出せるところまで」

 クラウディアはファティマへ視線を向けた。

「無理はしないでください」

「クラウディアもね」

「難しいですね」

「うん。知ってた」

 短いやり取りだった。

 だが、そこにはさっきまでとは違う温度があった。

 セイは、クラウディアの横に立った。

「僕にできることは?」

「見ていてください」

 クラウディアは言った。

「そして、私が何をしたのか、私の名で覚えていてください」

 セイは頷いた。

「はい」

 それは、重い返事だった。

 でも、逃げたくなかった。

 蒼風石の暴走は続いている。

 地上からの風、未完成の発明、正史の白い光、古い神の構文、王家の嘘。そのすべてが絡まり合い、空中都市を雲海へ引きずり下ろそうとしている。

 正統な風歌だけでは届かない。

 正史に残された血統だけでは、都市は救えない。

 必要なのは、消された名。

 隠された羽。

 黒い風を読む者。

 クラウディアは、もう一度蒼風石を見下ろした。

 肩布を完全には外さない。

 まだ、その時ではない。

 けれど、黒い羽は確かに風を受け始めている。

 セイはそれを見ていた。

 救うためではなく。

 許されるためでもなく。

 彼女が自分の羽で何を選ぶのか、見届けるために。

 都市は大きく傾き、雲海へ沈み始めていた。

 その沈む空の中で、黒い羽の魔導師が、ようやく自分の風へ手を伸ばそうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ