第八話
話は少しさかのぼる。
シュトラウフ邸の特徴はいくつかある。工業都市なのに営々たる森に囲まれていること。数百年前の名画や壺が何気なく飾られてること。それでいて最新の機械仕掛けの調度もあること。
だけど私が思うことは、使用人の少なさだ。
広さに対してあまりにも閑寂、徹底して人を見かけない。故郷のラインヴァル家は困窮しているとはいえ6人は雇っていた。お父様が「行くところがないと言うのでな」とかでおじさんとかおばさんを拾ってくるからだけど。
人が少ない理由はいくつかある。使用人たちのスペースが居住者のそれと分かれていること。ご夫人が音を気にするとかで、自分が在宅している間の掃除を禁じていること。一部の家事を機械仕掛けが行なっていることなどだ。
だから私が深夜に廊下をウロウロしても、特に誰にも見つからない。
深夜二時である。いくら不眠不休の人っぽい男爵でも寝ているだろう。私は居室の前を行ったり来たりしながら悩んでいた。さすがに寝間着ではなく、麻の上下という平服である。
「うーん……やっぱり昼に工場で頼もうかな……いやでも、あんまり男爵の周りの人に見られたくないし、いや別に男爵にとっては普通の仕事かも知れないけど、だいたいこんな時間に尋ねるとか夜這いかと思われそうだし……」
頼み事はシンプルだ。ヒュデオン幼年院にパズルの売り込みに行くから、紹介状を書いてほしいだけ。男爵にはまだ地図のパズルを見せてないし、取っておきのやつもあるし、きっと承諾してくれると思うけど、でも。
「何をしてるの」
「ひゅげっ」
変な声を手で押さえつつ振り向く。そこには純白のナイトガウンを着た公爵夫人。何度も言うようだけど公爵夫人とかシュトラウフ公という呼称が適当かどうか分からないけど。
夫人は銀の燭台を持っていて、先端では蜜蝋の蝋燭が燃えていた。今どき本物の蝋燭を使う人は珍しい。
「あの、すいません、別に何も」
「そこはカムの居室でしょう。こんな時刻に何の用なの」
今さらながら冷や汗が出てくる。こんな時間に男爵の部屋を訪ねるなんて、仕事だとしても非常識だ。かなりまずい場面を見られている。
「実は、その、男爵に口添えいただきたい案件がありまして、急ぎなのでそのご相談ができれば、と言いますか」
私は持っていた書類を差し出す。ヒュデオン幼年院への売り込みと、それを宣伝材料としてデパートなどにパズルを卸すプランだ。
「見たくありません、仕事の話など」
だが夫人は受け取ってもくれない、燭台をわずかに前に出して拒絶の構え。
「あの森をご覧なさい」
そして窓の外を示す。私がわけも分からず顔を向ければ、鬱蒼とした森である。手入れはされているが、なるべく自然の枝ぶりを残しているらしい。濃い葉陰は深夜にはいよいよ濃く、工業都市にひしめく機械の音を遠ざけるかに思える。
「森は静寂の象徴。我がシュトラウフ家は森に守られ、山を征する家ですのよ。森は静けさと豊かさを与え、山は敵を遠ざける壁となり、敵の不意をつく助けとなる心強い味方。歯車のきしみなど山には無いのよ」
「は……はい」
「わかりましたね、部屋に戻って静かに過ごすのです。夜はそうあるべきなのです」
よく分からなかったけど、何かしらの薫陶があったらしい。抗弁するつもりもない、私は深々と頭を垂れる。
「失礼します……」
しょうがない、やはり明日工場で、いえそれとも明日の朝早く……。
「……口添えと言ったかしら」
夫人が私の後ろ襟をつかむように言った。
「え、あ、それはもういいんです」
「どこへの口添えを求めているの。間を置かず答えなさい」
「ヒュ、ヒュデオン幼年院です。そこに売り込みたい商品がありまして」
「ヒュデオン幼年院……」
夫人は口元に指を当てて考える。
私は、シュトラウフ公爵夫人の顔を初めてじっくり見た気がする。とても美しいけれど、それは刃物の美しさかもしれない。気難しそうな眉と、いつ火を噴くかも知れない口元。そして不機嫌と剣呑さが常に周囲を漂う。
「ヒュデオン幼年院はキーゼルマン子爵の運営する学院です。男爵では口添えになりません。私が同行しましょう」
「え」
「明日の朝10時に屋敷の前にいなさい」
そして私の横を通り過ぎて、そのまま去ってしまう。
一分ほど、私は固まったまま動けなかった。
※
「いやいや、あらかじめ手紙でも頂ければそれなりの饗しをご用意しましたものを」
特にアポとかは無かったようだが、正門で夫人が名乗ると、院長であるキーゼルマン子爵がすっ飛んできた。この日に院にいたのはまるっきり偶然らしい。
彼は小太りの腹を揺すりながら私たちを先導し、応接のための部屋に案内してくれた。
「こちらの者が商売の話があるそうです」
紹介を受け、私は立ち上がって頭を下げる。
「まだ立ち上げたばかりの会社ではありますが、ラインヴァル社のキャルコット・ラインヴァルと申します。この度は、我が社の開発したまったく新しいパズルを」
「子爵、ヒュデオン幼年院の昼食会はまだ行われているのかしら」
会話が斧でぶった切られた感覚がある。夫人が何の前触れもなく割り込んだのだ。
だけど子爵の方も私など見ていなかった。夫人に向けて愛想笑いを浮かべつつ、目には緊張の色が見える。
「は、その、続いていますが」
「そうですか。私には縁のない集まりでしたわね。どなたも綺羅びやかな家名を持つ方々の集まりでしたが、先の戦争より以降は特需を受けて成り上がった方も増えたことでしょう。さまざまに毛色の違う方を受け入れていると聞いております」
「確かに、そうです。ええ、いえその、シュトラウフ公のお耳には相応しからぬ下卑た話題ばかりです。どなたも財を成した方ばかりですが、富豪にはそれはそれで悩みも多かろうと言いますか、税制についてやら、投資のしくじりについてやらで愚痴を投げ合うばかりでして」
子爵は緊張で頬を引きつらせ、沈黙に耐えかねるかのようにぺらぺらと話す。
「その、本年もまた多くのご子息を受け入れまして、昼食会も様々な方によって運営されておりますが、いずれも、はは、シュトラウフ公にはお耳汚しにしからならぬ俗な御方ばかりでして、口さがないものは金のない貧乏人が背伸びしているばかりなどと」
「そうでしょうか」
ひと言。それで水を打ったような静けさが来る。
子爵が……この小太りで50を超えた老獪そうな人物が、まだ三十路になるかならずという公爵夫人の前で卑屈な笑みを浮かべている。濡れタオルを絞るようにその体が縮んだのが分かった。
夫人はほんのひと言、言葉を返しただけなのに、それが千貫の重みとなってのしかかるかのようだ。
「あ、あの」
耐えるような気配はほんの数秒、子爵が口を開く。
「あの、よろしければ、シュトラウフ公も昼食会をお覗きになられますか。公がお見えになるとなれば、参加者の方々も格別の喜びかと」
「それも良いでしょう」
音もなくソファから立ち上がり、見下ろす視線を投げる。
「お招きを楽しみにしております。ではまた次のご機会に」
「は、はい、ではお見送りを」
「結構です。そちらの者と商談を行ってください」
夫人はドアの前でついと立ち止まる。
その一瞬後、私はがばりと立ち上がってドアに駆け寄り、ぐいと体重をかけて押し開いた。
びっくりした。いま「扉を開けろ」と脳に命令された気がした。そんなこと練習したこともないのに、どう動くべきかを強制されたような。
公爵夫人は廊下を歩み去り、その足音が遠ざかると、子爵は大きく息をついてローテーブルに上半身を投げ出す。いや、思い切り項垂れたのか。
「はあ、くそっ、ついにうちにも絡んできたか」
キーゼルマン子爵はそう言う。ソファに体重をあずけて両手を広げる。私に言っているような気配がしたので聞き返す。
「あの……今のお話に、何か含むところがあったのでしょうか?」
「あんた、歯車男爵の会社の人間だろう? 男爵が来てくれるならこっちも諸手を挙げて歓迎するが、シュトラウフ公は……フリンジ夫人は勘弁してくれないかね」
「どういう事ですか」
「ヒュデオン幼年院には昼食会があるんだよ。うちにご子息を預けてるのは上位貴族やら経済界の大物やらだが、それらが横の繋がりを持つための会合だな。シュトラウフ公はそこに参加させろと言っていたんだ」
「させろ……って、何のために」
「分からんかね、金の無心だよ」
ヒュデオン幼年院の院長は、苦虫を噛み潰すような顔で言う。
「噂ぐらい聞いてるだろう。シュトラウフ公爵領の鉱山は歯車男爵に買われたんだ。夫人はそれを買い戻したいんだよ。あちこちの貴族に呼びかけて金を無心してると聞いてる」
「そんな噂は聞いたことが……」
「あれもまた怪物だからな」
子爵はやや声をひそめる。もう公爵夫人はいないのに、残留している気配すら彼に警戒を抱かせるのか。
そこには侮蔑と畏れがちょうど半々ずつ見えるようだった。本当は幽霊を畏れている人が、幽霊などいないと虚勢を張るような。
「誰も逆らえんのだよ。少なくともまだな。ご夫人はな、その口で金を貸せなどとは一言も言わん。だが周りがヘビに睨まれたカエルみたいに縮こまってしまう。何かを要求される前に、何を求めてるのか察して差し出してしまう。そうしなければ息が詰まって一秒たりと立っていられない。実に恐ろしいお人なんだ。さすがはマキナーを守護してきたシュトラウフ家と言うべきかね」
フリンジ公爵夫人が、お金を集めてる。
このヒュデオン幼年院に同行したのは、昼食会への招待を得るため……。
「でもそれなら、私の事業なんか関係なくここへ来ればいいんじゃ」
「そういうものでもないんだろう……。夫人なりに行動のきっかけは必要なんだ。逆に言えば、もし夫人がはっきりと口に出したなら、金を無心する者のへりくだるような態度が出たなら、夫人の恐ろしさは失われ、神通力は消え去ってしまう気がするよ。ああくそ、ご父兄の皆さんにどう説明したものか……」
子爵は頭をかきむしる。そして、テーブルに置かれたパズルを本当に1秒だけ見た。
「さてと、これを買えばいいのか。まあ大して高いものでもないんだろ? こっちの出費は少なくて済んだか」
「だめです」
私は、子爵が手を伸ばしかける前でパズルを奪う。
「うん?」
「夫人を連れてきます、待っててください」
「え」
子爵が何か言いかける前に、開け放たれていた扉を飛び出して駆ける。
私は怒っているのか、それとも悲しいのか、おそらく両方がないまぜになっている。
夫人も、あの院長も、ジグソーパズルをろくに見なかった。
私は路傍の石でもいいけれど、ジグソーパズルはそうじゃないのに。
夫人は、夫人のやることは、あまりに人をなめている。
大急ぎで駆けて正門前へ、どうにか夫人が馬車に乗り込む前に追いつく。
「フリンジ様!」
私の登場に、夫人はけげんな目を向ける。さすがに私の顔ぐらいは覚えていると思いたい。
「フリンジ様、私と一緒に戻ってください」
「何ですって?」
「私が何を売ろうとしているのか、せめてその目で見てください。ご自分が見てもいないものの口利きをされるのは嫌です。価値あるものと認めてもらいたいんです」
手を取る。そして驚いた。絹の手袋越しとは言え、おそろしく冷たい。夫人の細い手には血が通っていないとすら思える。銀の彫像に触れるかのようだ。
「必要ありません。歯車の産物など」
「これは男爵が惚れ込んだ商品です」
ぎしり、と、そんな音がする気配。
夫人を中心に世界の温度が下がる。手を掴んでいる私の手までが凍りつきそうな。
夫人の怜悧な目、その視線は狼のような、冬の魔物のような。
恐ろしい。
猛吹雪の中にいるかのようだ。気を張ろうとしているのに、フリンジ夫人の視線が私から気力を剥ぎ取っていく。私は震えかける奥歯を噛みしめる。
「ご存知でしょう? 男爵の工場は大きなものしか扱わない。支配下には小さな工場もあるけれど、直接の指揮下にあるのは造船や重機の工場ばかりです。おかしいと思いませんか。なぜ、ただのパズルの工場に直接出資していただけたのか」
「……」
フリンジ夫人に私の声が届いているのかいないのか、その目には1ミリの動揺も見えない。大上段に剣を振りかぶる騎士、そんな馬鹿げたものまで幻視される。
「このパズルは、世界を変えるからです」
「ただのパズルが? ありえません」
夫人は初めて反応を示す。そして私の手をわずかな動きで振りほどいた。
私は、肺の空気をすべて吐き出す勢いで、言った。
「見ておくべきだと思います。私の作った、とっておきの逸品を」




