第十話
何ごとも書類から始まる。
この世界の神話では、夜空の星図は神様と人間との契約であるという。
神様は世界を創造したあと、数十億年の「うつらうつらの眠り」の時期に入り、眠りの間に地上を守る役目として知恵ある獣を生み出した。
そして夜空に星をばら撒き、すべての土地を管理し、正しき行いを成すべきという契約を記したという。
しかし人には神の言葉のすべては理解できなかった。だから今も星を眺めて、その契約書を解読しようとしている。そんな神話である。
この神話の教訓とは不完全性であるという。
神様はいま「うつらうつらの眠り」にあるので完璧ではない。人間は不完全であるがゆえに神の契約書を理解しきれない。だから完全に近づくための努力が必要である、と。
私たちの世界だと神様は唯一絶対みたいに言われるけど、この世界ではその不完全性を受け入れてるわけだ。
ところが時代を経るうちに、この神話の教訓が「契約の重要性」にシフトしてきた。
穴のある契約書を作ってはいけないとか、一度締結された契約は絶対であるとか、双方が契約書をよく読まねばならないとか 、そんな教訓が幼児教育の頃から行われている。お国柄という言葉があるけど、お世界柄、というものもあるのだろうか。
そんなわけで、私とキリーで50枚以上にもなる契約書を作成する。すなわち、すべてのご婦人が足踏み式糸ノコを購入して、余暇を内職やDIYにあてる、という社会の変革。それを男爵に提出し、工場に出資してもらうという契約書だ。すでに工場はできてるので事後的な書類である。男爵の工場では何もかもが速く、形式がぜいぜい言いながら追いかける。
まあ糸ノコも木工も、ジグソーパズルの復活という計画の入り口に過ぎないけれど。
私たちの工場では、まず足踏み式糸ノコを生産する。もちろん色々な木製パズルと並行して。
「ありがとうキリー、かなり助かったわ」
「いえ仕事ですから」
私のふわっとした提案をキリーはうまく文章に起こしてくれた。予算の見積もりを立てて、市場調査と広報の段取りを組んで、家庭向けにはどのような糸ノコを開発すべきかまで考える。
この世界に小型の糸ノコはあっても、家庭用の糸ノコというのは無かった。それはゼロからの開発になる。
単に小型というだけではいけない。音は静かに、占有するスペースは小さく、切る木材はそれほど厚いものではないので、はずみ車の大きさや糸ノコの速度も調節したい。できれば速度を可変できる上位機種もあったほうがいいし、リビングで使うなら木屑を掃除しやすくする工夫も必要だ。
「さてキリー、新しい工場の配置でも決めようか。まずは糸ノコを5台ぐらい置いて……」
ふと、天井を見上げる。
「あれ?」
音が消えた。
そして気づいた。ギアラッドには、このあたり一帯には常にさまざまな音が鳴っていた。地響きのように大気のうねりのように。
「ああ、剛力歯車から第一歯車が外されたんですね。この一帯で操業が止まったんです」
「止まったの? なんで急に」
「明日が歯車祭だからでしょ」
何を当たり前のことを、みたいな様子である。
「えっ、うちの工場の新築祝いでしょ? 男爵の工場って大型のやつ七つもあるのよ。全部止まったの?」
「たぶん男爵の工場だけじゃないですよ。このあたりで30軒以上止まるでしょう」
「えっ、それだと何千人も休むことにならない? それ全部来るの? そんな量の振る舞い用意してないけど」
「アルキメデスの小筥を作ってる職人はいますけど、正社員は四名ですから料理は四名分でいいんです。振る舞い用は十人分ぐらいですかね」
「それ以外は?」
「持ち寄りです」
私は少し硬直して。
そしてキリーにずいと近づき、そばかすの浮いた顔を斜め下から睨めつける。この子は明らかに断片的にしか話してない、そして面白がってる。
「明日休んじゃおっかな!」
「うっ」
さすがにそれは困るのか、キリーは口を歪めて笑う。
「はは……それはちょっと……男爵も来ますから」
「そろそろ教えなさい! 何が起きるの!」
「ええと……単なる大騒ぎですよ。お祭りとか大宴会とかそういうやつです。ただ」
「ただ?」
「規模がどこまで膨らむか、僕も分からなくて……」
そして翌日。
「カルコ!」
ばあん、と食堂のドアを押し開けるのは男爵。何やら赤と紫の布を肩に巻いている。
「ああ社長、なんかテーブルに何も出てないんですけど、お給仕さんは」
「朝食など摂ってる場合ではない! 歯車祭だぞ!」
後からぞろぞろと入ってくるのはメイドさん達。屋敷で見たことのない顔ばかりである。なぜか数種類のドレスを捧げ持っている。
「さあ着替えろ! 工場へ行くぞ!」
「え、あの歯車祭なのは分かるんですけど、まだ早朝」
「もう祭りは始まっている!」
ドレスを着せられ化粧を塗られ、外に出るといきなり輿に乗せられた。屈強な工員が8人がかりでかつぐ輿、神輿の上部分がないやつだ。男爵はまた別の輿に乗る。
そしてぐわんと輿が跳ねる。揺れるというよりはじき上げるような勢いで輿を持ち上げ、そして前には楽器を持った男女が並ぶ。
いきなり盛大な音楽が始まった。統率も取れてるし足並みも揃ってる。明らかに素人芸じゃない、どこかの楽団だろうか。
「社長! これに乗って工場まで行くんですか!? 酔いますって!」
「これでも飲んどけ!」
投げて寄越すのはなんとお酒である。上等なガスワインはすでに栓が抜かれて手に黄色の液体がこぼれる。私はあわてて口で吸う。
「うわ強っ!」
そして輿が駆け足になる。さすがに喧嘩神輿みたいな揺れはなくなったけど、高さのせいもあってスピード感がすごい。とても神輿の速度じゃない。ふと視線を上げると直角のカーブが見えて。
「うひゃっ!?」
輿にへばりつくと同時に90度カーブ。私が球体だったら転げ落ちてる。抗議の声を上げる余裕もなく、輿は一直線に工場へ。
工場街はというと、どの工場でも大型の機械が脇に寄せられて大きな空間ができている。男爵とは関係ない工場でも変わらない。中に大量の料理が並べられ、工員たちはバーベキューやりながら酒をあおってる。まだ早朝なのに。
調理もそこかしこで行われてる。野菜の皮を剥いてる男、牡蠣の殻を剥がしてる女、ワインの樽を囲む男たち、ケーキに水飴の網をかけてる女たち。おお、豚の丸焼きやってる。
そして市民の皆さんがたくさん来ていた。みんな着飾っており、男爵を見ると我先にと群がろうとする。輿をかつぐ工員たちがそれを遠ざける。
ようやく男爵の工場へ。そして私は今日で20回目ぐらいの驚きを得る。
工場の前に数百人いる。しかも皆さん色付きの布で体を飾っているのだ。顔に色を塗ってたり、何かの扮装をしてたり、竹馬に乗っている人までいる。
男爵が輿の上で立ち上がり、とてつもなくよく響く声で言う。
「みんな! 今日の主役はこのカルコだ! いくら楽しんでもいいが、我らが若き工場長への挨拶だけは欠かすなよ!」
高波のような歓声。
何百人もがいっせいに腕を突き上げ叫ぶ。私のいる輿にまでびりびりと振動が来る。
そして私は輿を降ろされ、いきなり数十人から挨拶を受ける。
「どうも社長、木材問屋のキッチです」
「わたくし、製紙業のヤルドナンデです。質のいい厚紙をお探しだそうで」
「カーザー商店のカーザです。お見知りおきを」
名刺も山ほど渡されて、あっという間に100枚近くになる。キリーがいつの間にか来ていて名刺を回収する。
「キリー、なんなのこの騒ぎ」
「まだまだ序の口です。僕は仕事してますんで、ときどき様子見に来ますね、それじゃ」
「あっ、ちょっと」
入れ違いに男爵が来る。そちらもまた色々な人間に挨拶を受けていたらしい。
「カム社長、これが歯車祭なんですか……?」
「まだ挨拶だけだぞ。仕事の話は最初の1時間だけというのがルールだ。名刺は取っておけよ」
「……私の工場なんてちっぽけなものですし、あの人たちだって、大半は男爵とお近づきになりたいだけでしょ」
「それはそうだが、それでもこの祭りはお前のためのものだ」
男爵が私に話しかける間、他の人々は遠ざかっている。どうもそういうルールもあるらしい。
「このところじっくり会えなかったからな」
会えなかった……それは確かに。
ここ二週間ばかり男爵と会ってなかった。事業の書類を用意するのに忙しかったし、営業回りもあったし、男爵はいつもと変わらず忙しかった。
家に帰ってからも山のような書類と格闘していたので、男爵の部屋を訪ねる余裕もなかった。
男爵の手が私の頭に乗る。実に大きな手だ。ごつごつしているのに毛布のように柔らかいとも思える。
「だがそれは当然だな。工場の立ち上げと事業の方針を定める、真剣に取り組むべき時期だ」
「はあ」
「だからそのぶん今日は祭りを楽しめ。歯車祭はこの世の不完全さの象徴。我々は仕事だけでは生きられない。どうしても娯楽や息抜きが必要だ。歯車だって「遊び」がなければ回らないからな」
そして耳に囁く。
「お前と過ごす祭りが楽しみだ」
去ってしまう。すぐさま大量の業者が男爵に群がり、その背中が見えなくなってしまった。
「ははっ、お嬢さん、男爵に目をつけられたな」
話しかけるのは大柄な人物。やはり赤や黄色の布を体に巻き付けている。
「目を?」
「歯車祭ってのはいろんな工場でやってるがな、工場長が惚れた女を落とす場でもあるのさ」
「惚れ」
言葉がフリーズしかける。どう答えたものか分からないのが半分と、迂闊なことを口走らないための防御反応が半分。
「どっかの街の金持ちの話だ。その金持ちには惚れた女がいたが、それは人妻だった。金持ちは工場を立てて、歯車祭をやって、三日三晩踊り明かした。すると人妻は男の魅力にすっかり参ってしまって、夫を捨てて金持ちの妻になったのさ」
「ひっど、なにその話」
すると、背中をばあんと叩かれる。肺の息を全部吐き出しながら背後を見れば、腕まくりした筋肉質な女性。両手に焼き肉の刺さった金串を持ってる。
「ひどかねえさ! 離婚も再婚も自由だろう! それにその話、歯車祭で金持ちは財産の大半をはたいたって言うからねえ」
「げほげほ、うーん、でもなあ」
「ま、三日三晩の祭りをやってもなびかなかった女の話もあるのさ。王様の求婚を跳ね除けて幼なじみと結ばれた女の話もねえ! 女の生き方ってのも色々さあ!」
そして高笑い。工員にはこういう豪快な女性もいる。
よく見ればそんな女性がたくさん立ち回ってる。みんな両手に料理を、あるいはお酒の樽を抱えてる。給仕が女の仕事というより、女たちの領土に男を入れさせない感じだ。
「あんたが気に入らなきゃ袖にしちまえばいいのさ! 男爵だって一度建てた工場を潰せなんて言えやしないよ」
「いや別に私は男爵とは」
「わかってるって! 工場長さんだもんねえ! 仕事に専念したい時期だろうさ! ただそういう女ほど燃える男ってのもいるのさ、男爵なんて特に欲深いタチっぽいからねえ」
「欲深い?」
「若い起業家を応援したい、だけど魅力的でたまらない、理屈より先に口説いちまう、そういうのも男の性ってもんだろうねえ!」
あははは、と腹の底から笑いながら去ってしまう。多分、いや明らかに酔っている。すでに空のワイン樽が何個も転がっている。
「というか男爵の出資で建てる工場なのに、その男爵が私を、落とすとか、落とさないとか……」
この世界は不完全。
だから遊びの時間があり、予測できない人の挙動がある。
ではもし、男爵が本気で来たら。
山のような料理と、嵐のような音楽と、地鳴りのような舞踏の果てに口説かれたら、私はどうなってしまうのか。
そして私の工場は……。




