08 山犬の群れ、広がる噂
収穫祭が終わってからも、ノエルとの稽古の日々は変わらず続いていた。
「今日は、丘の向こうまで薬草を採りに行くの。母さんに頼まれてて」
ある朝、ノエルがそう言って俺を誘った。丘の向こうというのは、村の子供たちが普段はあまり近づかない、森の縁にあたる場所だった。
「僕も行っていいの?」
「一人より二人の方が早いでしょ。荷物持ちくらいはやってもらう」
そういうことなら仕方ない、と俺は素直に付き合うことにした。
・・・
森の縁は、村の中とは違う匂いがした。湿った土と、名も知らない草の匂い。ノエルは手慣れた様子で、目当ての薬草を摘んでいく。俺はといえば、言われた通りに籠を持って後ろをついて回るだけだった。
「これも合ってる?」
「うん、それでいい。……あんた、案外、覚えがいいね」
「一度言われたことは、忘れない方だから」
前世でも、こういう細かい確認作業だけは得意だった。誰かの評価を気にする性分が、案外こういうところで役に立っている。
薬草を集め始めてから、一刻ほどが経った頃だった。
「――ねえ、なんか、静かすぎない?」
ノエルが不意に手を止めた。言われてみれば、さっきまで聞こえていた鳥の声が、いつの間にか途絶えている。俺も自然と、周囲に目を配った。
低い唸り声が聞こえたのは、その直後だった。
・・・
灰色がかった毛並みの獣が、木々の間から次々と姿を現した。三頭、四頭――いや、それ以上。山犬の群れだった。痩せて目つきの悪い個体が多く、獣特有の飢えた雰囲気を纏っている。
「……まずい」
ノエルが小声で呟き、腰に佩いていた木剣に手をかけた。稽古用の代物だが、ないよりはいい、という程度の判断なのだろう。
「アレン、ゆっくり下がって」
「ノエルは?」
「わたしが時間を作る。あんたは走って村に――」
言い終わる前に、群れの中の一頭が、地を蹴った。
俺は考える前に、体が動いていた。走る、というより、ノエルと山犬の間に、いつの間にか自分の体を割り込ませていた。
・・・
その後の数秒は、正直、はっきりとは覚えていない。
一頭の牙が届く寸前で、俺の腕が、まるで見えない何かに導かれるように、獣の顎を弾き返していた。二頭目が横から飛びかかってきた時には、既に体が半歩分、勝手に踏み込んでいた。地面を蹴る感触が、いつもの自分の脚とは思えないほど鋭かった。
「アレン、後ろ!」
ノエルの声に、振り返るより先に体を捻る。三頭目の爪が、頬のすぐ横をかすめて空を切った。
群れは、明らかに戸惑っていた。獲物だと思っていた対象が、あまりに予想外の動きをする。何度か仕掛けては、その度に弾かれ、頭数を減らしていく仲間の様子を見て、やがて統率の取れない散り方で森の奥へと引いていった。
静寂が戻った頃、俺は膝に手をついて、荒い息を整えていた。怖くなかった、とは言えない。むしろ、今になって、指先が細かく震えているのが分かった。
「……大丈夫?」
ノエルが駆け寄ってくる。俺は頷きながら、ようやく声を出した。
「うん。ノエルは?」
「怪我はない。けど――」
ノエルは言葉を切って、俺の顔をじっと見た。
「今の、絶対おかしいって。あんな動き、できるわけない」
否定する材料は、もう俺の中にもなかった。
・・・
騒ぎに気づいたのは、俺たちだけではなかった。
森の縁からそう遠くない丘の上で、羊の様子を見ていた男が、一連の出来事を見ていたらしい。名は、オズワルドと言った。村ではあまり見かけない、寡黌な羊飼いだ。
「お前さんたち、今の……」
村へ戻る道すがら、待ち構えていたオズワルドに声をかけられた。ノエルが慌てて割り込む。
「た、たまたまです。運がよかっただけで」
「運、か。あれだけの数の山犬相手に、運だけでどうにかなるもんかね」
オズワルドは疑わしげにこちらを見ていたが、それ以上は追及せず、羊の群れの方へ戻っていった。それでも、その視線は最後まで、俺の背中に張りついているようだった。
・・・
村に着くと、既にいくつかの視線が俺たちに向けられていることに気づいた。井戸端で立ち話をしていた女たちが、こちらを見てはすぐに声を落とす。マーサも、複雑な顔でこちらを一瞥した後、目を逸らした。
「もう知れてる、って感じだね」
ノエルがぽつりと言った。
「早いな」
「村なんて、そんなもんでしょ」
その口ぶりには、諦めのようなものと、心配のようなものが、両方混ざっていた。
家に帰ると、リナが青ざめた顔で駆け寄ってきた。誰かが既に知らせに来ていたらしい。
「アレン、無事なの? 怪我は」
「……大丈夫。ノエルのおかげで、怪我はない」
半分だけ本当のことを言うと、リナは俺を強く抱きしめた。腕の中の力は、いつもより少し、強すぎるくらいだった。
夕食の席で、ギードとノーラは終始無言だった。何かを言いたそうな顔をしながら、結局、二人とも何も口にしなかった。ただ、ノーラの視線だけが、いつまでも俺の方から離れなかった。
・・・
その夜、床の中で、俺は今日の出来事を振り返った。
これまでは、家族とノエルだけの内側に留まっていた話だ。それが今日、村の大人の目にも触れてしまった。もう、内輪の秘密では済まないところまで来ている気がした。
窓の外では、いつもと変わらない夜の静けさが続いていた。それでも、明日からの何かが、確かに変わり始めているのを、俺は感じていた。




