07 収穫祭の夜、遠くを見る目
ノーラが我が家に来てから、もうすぐ一年になろうとしていた。
季節は巡り、レイフ村の畑は一面、黄金色に染まっていた。風が吹くたび、麦の穂がさわさわと乾いた音を立てる。軒先に収穫の野菜や果実が積まれ始めると、村の空気はどこか浮き立ったものに変わっていく。収穫祭が近い、というだけで、大人も子供もどこか気が急いているのが分かった。
「今年の収穫祭、去年より出店が増えるらしいわよ」
朝食の席で、リナが弾んだ声で言った。ギードは黙って頷きながらパンをかじり、ノーラだけが興味なさげに茶をすすっていた。
「婆ちゃんは、収穫祭って参加したことあるの?」
「あるにはあるがね。婆の生まれた土地の祭りは、もっと地味なもんじゃったよ。ここのは賑やかだって、リナから聞いておる」
「賑やかだよ! 出店もいっぱい出るし、夜は広場で焚き火して、みんなで踊るんだ」
俺が横から口を挟むと、ノーラは片眉を上げた。
「踊る、と言われてもね。婆の腰は、もう若い頃のようには動いてくれんよ」
「見てるだけでも楽しいと思う」
「そうかい。まあ、婆にも分かるように、しっかり見せてもらおうかね」
そう言うノーラの口ぶりは、興味がないようでいて、どこか楽しみにしているようにも聞こえた。
・・・
村の広場に収穫祭の準備が整ったのは、それから数日後のことだった。
広場には、色とりどりの布で飾られた出店がずらりと並んでいた。焼いた芋の匂い、蜂蜜酒の甘い匂い、炙られた干し肉の煙。普段は畑と井戸くらいしかない広場が、まるで別の場所のように活気づいている。子供たちの笑い声、大人たちの談笑、遠くで奏でられる笛の音。それらすべてが混ざり合って、村全体を一つの生き物のように震わせていた。
「アレン! こっち!」
人混みの中から、ノエルが手を振ってくる。今日は見慣れた稽古着ではなく、明るい色のワンピースを着ていた。似合っていない、とは言わないが、あまりの珍しさに俺は思わず二度見してしまった。
「なに、その格好」
「お祭りだから、母さんに着せられたの。文句言わないでよね」
ノエルはむっとした顔で腕を組んだが、それ以上気にしていないようで、すぐに俺の手を引いて出店の方へ歩き出した。
「麦飴はどうだ、坊主たち! 今年もいい出来だぞ!」
ひときわ大きな声を上げていたのは、恰幅のいい中年の男だった。去年もこの場所で同じ声を張っていた気がする。名を尋ねると、「デニスだ、覚えとけ」とだけ返ってきた。ノエルはさっさと銅貨を二枚渡して二本買い、当然のような顔で一本を俺に押しつけてきた。
「今日は奢ってあげる。感謝してよね」
「別に頼んでない」
「じゃあ、返す?」
「……いや、もらう」
即座に翻す俺に、ノエルが噴き出した。
「そういうとこ、変わんないね」
・・・
広場の中央では、村の子供たちを集めた催しが始まっていた。麻袋に詰めた麦を担いで、決められた距離を往復する競争らしい。単純な力比べだが、一番になれば村長――ハロルドから、蜂蜜漿の壺を一つもらえるという話だった。
「出るでしょ、これ」
言うが早いか、ノエルはもう列に並んでいた。仕方なく、俺もその後についた。
結果は、僅差でノエルの勝ちだった。麻袋を担いだまま転びかけた俺を、ハロルドが笑いながら助け起こしてくれた。
「大健闘だ、坊主。来年に期待だな」
「悔しくないの?」
蜂蜜漿の壺を掲げて得意げなノエルに、俺は正直なところを答えた。
「まあ、少しだけ」
前世の会社員だった頃には、こんな他愛のない力比べで悔しがる機会など、ほとんどなかった。数字と評価ばかりを見ていた自分に、今こんなことで本気になれる部分があるとは、正直思っていなかった。
・・・
日が落ちて、広場の中心に大きな焚き火が焚かれる頃には、村人たちが自然と踊りの輪を作り始めていた。俺はノエル、マーサ、リナ、ギード、ノーラと少し離れた場所に座り込み、その様子をぼんやりと眺めていた。
炎の爆ぜる音、太鼓に似た手拍子、時折上がる誰かの掛け声。輪の中心では、村の若者たちが不揃いな動きで踊っている。上手いとは言えないが、それを笑う者もいない。
「アレン」
「……なに」
「なんか、今、遠くを見てるような顔してた」
ノエルの指摘に、俺は少し驚いた。
「そう見えた?」
「うん。前にも、何回かあった気がする」
「……別に、何も考えてなかったよ」
嘘ではなかったが、本当のことでもなかった。焚き火の炎を見ているうち、なぜか前世の忘年会の記憶が、ふと頭の隅を過っていたのだ。あの頃の宴会は、誰も本当に楽しそうではなかった気がする。上司の顔色を窺いながら杯を重ねる時間と、今、目の前で不格好に踊っている村人たちの顔とでは、何かが決定的に違う気がした。
「まあ、いいけど」
ノエルはそれ以上突っ込まず、焚き火の方に視線を戻した。突っ込まれずに済んだことに、俺は密かに安堵した。
・・・
「ほれ、これでも食え」
不意にノーラが、焼いた芋の欠片を俺の手に押しつけてきた。
「婆ちゃんは食べないの?」
「婆はもう、若いもんの分まで腹に入れる歳じゃないさ」
そう言いながらも、ノーラの目は踊りの輪をじっと見つめていた。何を思っているのか、俺には読み取れなかった。ただ、その横顔が、いつもより少しだけ和らいで見える気がした。
「婆ちゃんの村じゃ、こういう祭りの時、何してたの?」
「さあて、な。忘れちまったよ」
素っ気ない答えだったが、その口元には、微かな笑みが残っていた。本当に忘れたのか、それとも話す気がないだけなのか、俺には判断がつかなかった。それ以上は聞かずに、俺は芋を頬張った。
「――アレン、あんた最近、少し背が伸びたね」
「そう?」
「うん。見てて分かるくらいには」
ノーラは目を細めてそう言うと、それきり黙って踊りの輪に視線を戻した。
・・・
祭りが終わる頃、俺はすっかり眠気に負けて、ギードの背中で運ばれていた。夜道を進む足音に合わせて、意識が揺れる。
ぼんやりとした頭の中で、来年の収穫祭のことを考えている自分に気づいた。
――来年は、もっと大きな出店が出るだろうか。麦担ぎの競争は、また出るだろうか。今度こそ、ノエルに勝てるだろうか。
当たり前のように来年を思い描いている自分に、俺は少しだけ驚いた。前世では、来年のことなど、目先の仕事に追われて考える余裕もなかった。手帳に書き込むのは、いつも直近の締め切りばかりだった気がする。
眠りに落ちる直前、遠くでまだ続く笛の音を聞きながら、俺はそんなことを、ぼんやりと思っていた。




