06 冬に来た祖母、重なった瞳の色
六歳になった冬、家に一人の来客があった。
その年の冬は例年より雪が深く、朝、扉を開けるたびに白い息が四方に散った。かまどの火だけが、凍える朝の中でぽつんと温かかった。
朝の食卓を片付けながら、リナがいつもより念入りに皿を拭いていた。同じ皿を二度も磨き直している。
「おばあちゃんが来るんだって」
そう切り出した声は、心なしか上ずっていた。母方の祖母――足腰が弱ってきたのをきっかけに、これから俺たちと一緒に暮らすことになったのだという。
「どんな人?」
「隣村からさらに馬車で半日以上かかる、遠いところに住んでたのよ。私も、何年も会ってないの」
「厳しい人?」
「厳しいというか……昔から、ちょっと何を考えてるか分かりにくい人ではあったかな。でも、悪い人じゃないから」
歯切れの悪い答えだった。皿を戻す手が、一瞬だけ止まる。リナが誰かについてこんなふうに言い淀むのを、俺は見たことがなかった。
「父さんは、会ったことあるの?」
俺が聞くと、台所の隅で薪を運んでいたギードが、思わずといった様子で顔を上げた。
「一度だけな。結婚の挨拶の時に」
「どんな感じだった?」
「……何を考えとるか、最後まで分からんかったな」
ギードはそれだけ言うと、気まずそうに薪を抱え直して外へ出て行った。両親そろって同じ感想を漏らすというのも、なかなか珍しいことだった。それを聞いて、俺はますます興味を引かれた。両親そろって手を焼くような相手というのは、想像するだけで気になるものだった。
・・・
荷馬車が家の前に止まったのは、その日の夕方だった。
村では滅多に見ない大きな荷馬車で、御者台に座った老いた御者が、慣れた手つきで手綱を引いていた。物音を聞きつけた近所の子供たちが、遠巻きに集まってひそひそと囁き合っている。「あんな立派な馬車、見たことない」と誰かが囁く声が、冬の澄んだ空気の中でやけによく通った。
御者の手を借りて降りてきたのは、思っていたよりずっと小柄な女性だった。真っ白になった髪を後ろでまとめ、背筋だけはぴんと伸びている。年老いてなお芯の強さを感じさせる、そんな佇まいだった。
「お母さん!」
リナが駆け寄って抱きつく。ノーラと呼ばれた祖母は、皺だらけの顔をくしゃりと崩して笑った。
「リナ、大きくなって……いや、もう大きくなりすぎてるくらいだね」
軽口を叩きながら、ノーラの視線がゆっくりとこちらに移る。
「この子が、アレンかい」
「はい」
俺が答えると、ノーラは目を細めて顔を覗き込んできた。その瞬間、彼女の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……きれいな瞳だね」
「え?」
「いや、なんでもない。ただ――」
ノーラはそこで言葉を切り、もう一度、まじまじと俺の瞳を見つめた。何かを確かめるような、それでいて確信は持てないような、そんな複雑な目の色をしていた。
「懐かしいだけだよ。気にしないでおくれ」
その言い方が、逆に妙に引っかかった。もう少し何か聞き出せないかと思ったが、ノーラはもう荷物の方に向き直っていて、それ以上踏み込む隙はなかった。
「母さん、荷物、俺が持つよ」
ギードが慌てて駆け寄り、大きな行李を担ぎ上げる。ノーラは「若いもんに任せるのが一番じゃ」と、悪びれもせず笑っていた。
隣家の窓から、マーサが興味深そうにこちらを覗いているのが見えた。目が合うと、小さく会釈をしてすぐに引っ込んでしまう。この様子は、きっと明日には村中に知れ渡っているだろう。
・・・
ノーラが来てからの数日は、家の中の勝手が少しずつ変わっていった。台所の棚の位置が知らぬ間に入れ替わり、洗濯物の干し方にまで細かい注文がつく。リナは食器の位置が変わるたびにため息をつきながらも、次第にノーラのやり方に合わせて自分の癖を変えていった。
ギードは相変わらずノーラの前では言葉少なで、必要以上に近づこうとしない。それでも、薪割りの量がいつの間にか増えているのに気づいた時、俺はなんとなく、父なりの気の遣い方なのだと察した。
ある朝、ギードが薪割りに向かおうとしたところで、ノーラに呼び止められた。
「その割り方、無駄が多いね。もっと楽な角度がある」
「へえ……教えてもらえますか」
意外にも、ノーラは自ら斧を取り、危なげない手つきで薪を割ってみせた。ギードは目を丸くして、それ以来、真剣にノーラのやり方を観察するようになった。
夕食の時間も、いつの間にか一刻早まっていた。「日が暮れたらさっさと食べて、さっさと寝る。それが体にいいんじゃ」というノーラの一声で、長年続いてきたリナの習慣があっさり覆された。
・・・
夕食の席で、俺はさりげなくリナに尋ねてみた。
「僕の目、婆ちゃんと同じ色なの?」
「言われてみれば……そうかもね。私は父さん似だから、気づかなかったわ」
リナは自分の榛色がかった茶色の瞳を指しながら、不思議そうに首を傾げた。ギードも興味深そうにこちらを覗き込む。
「本当だ。同じ色をしてるな」
両親は特に深く考える様子もなく、そういう偶然もあるものだと、笑って話を終わらせた。だが、食卓の端に座るノーラだけは、その話題の間、終始何も言わずに黙々と食事を続けていた。フォークを動かす手だけが、いつもより少しだけ遅かった。
気まずい沈黙を破ろうと、ギードが咳払いをした。
「その……道中は、疲れなかったですか」
「なんじゃ、他人行儀な口を利くんじゃないよ。婿殿は昔からそうだったね」
からかわれたギードは、耳まで赤くして黙り込んでしまった。「婿殿」という呼び方が余程慣れないのか、それからもしばらく咳払いを繰り返している。俺はその隣で、笑いを堪えるのに必死だった。気まずさの残る空気も、ノーラの豪快な笑い声ですぐにかき消された。
「婆ちゃんの作る料理、母さんのより味濃くない?」
空気を変えるつもりだったのか、俺は思わずそんなことを口走った。とたん、リナが目を丸くする。
「アレン、それ、今言うことじゃないでしょう」
「別に構わんよ。年寄りの舌は、味が濃い方が分かりやすいだけさ」
ノーラは意に介した様子もなく笑い飛ばした。助け舟を出してもらった形になり、俺は密かに胸を撫で下ろした。我ながら、空気を読んだつもりで余計なことを言う癖は、この体になってもまるで直っていないらしい。
食後、ノーラは荷物の中から小さな布包みを取り出し、リナに手渡した。
「これは?」
「お前が好きだった木の実の砂糖漬けじゃ。まだ好きかどうかは知らんが」
「……覚えててくれたんだ」
「そりゃ、母親じゃからな」
ノーラはぶっきらぼうにそう言うと、さっさと台所の片付けに戻ってしまった。リナはしばらく、その小さな布包みを手のひらの上で見つめていた。
・・・
ノーラが来て早々、ノエルは物怖じもせず家に上がり込んできた。
「初めまして。アレンの……なんていうか、剣の師匠見習いです」
聞いていたギードが、盛大に吹き出した。
「師匠見習い、とは面白い肩書きだね」
ノーラは目を丸くしてから、愉快そうに笑った。
「あんた、いくつだい」
「六歳です」
「六歳の師匠見習いか。それで、弟子の方はどれくらい上達したね」
「まだまだです。素振りの構えだけは、様になってきましたけど」
ノエルが胸を張って答えると、俺は思わず口を挟んだ。
「様になってきた、じゃなくて、様になってる、でいいだろ」
「まだ認めてないもん」
そんなやり取りを、ノーラは楽しそうに眺めていた。ノエルの物おじしない態度が気に入ったのか、それからというもの、暖炉の前で昔話を聞かせてもらうのが、いつの間にか俺とノエルの日課になった。両家の親同士も、それを微笑ましく見守ってくれていた。
「――昔々、この大陸には、鱗を持つ人々がいたそうじゃ」
ある晩、暖炉の薪が爆ぜる音を背景に、ノーラはそう切り出した。ノエルも、俺も、思わず身を乗り出す。ノーラの昔語りは、いつも、その語り口の巧みさで俺たちを引き込んでいった。声を低くしたかと思えば、急に囁くように潜め、まるでその場に竜血族が本当にいたかのような気にさせる。同じ話でも、村の他の年寄りが語るのとは、どこか違う重みがあった。台所からは、リナとギードが洗い物をしながら、時折こちらの話に耳を傾けている気配が伝わってきた。
「竜血族、と呼ばれておった。今ではほとんど見かけんが、その血を引く者は、時と空間を渡る力を持っていたと言われとる」
「時空系統ってやつ? 学校で習うって聞いたことある」
ノエルが得意げに口を挟む。彼女の家は、村では珍しく、簡単な読み書きと一般教養を教える巡回教師の授業を受けさせてもらっていた。ノーラは目を細めて頷いた。
「よう知っとるな。じゃが、今どき時空系統を使える者なぞ、生きた伝説みたいなもんじゃ。竜血族自体、大昔にどこかへ姿を消してしもうた、という話でな」
「鱗を持つ人って、どんな見た目してたの?」
俺が尋ねると、ノーラは懐かしむように目を細めた。
「話によりゃ、腕や首筋に、細かな鱗が浮いておったそうじゃ。日の光を浴びると、金色にも見えたとかせんとか。婆も、実際に見たわけじゃないから、本当のところは分からんがね」
「見てみたかったな」
ノエルがぽつりと呟く。ノーラは小さく笑った。
「そうさなあ。婆も、子供の頃はそう思うたもんじゃ」
「消えた?」
「滅ぼされた、という者もおるし、自ら隠れた、という者もおる。本当のところは、誰にも分からん」
「ノーラさんは、どっちだと思う?」
ノエルが遠慮なく踏み込む。ノーラは少しの間、火をじっと見つめてから答えた。
「さあてな。婆が生まれるよりずっと前の話じゃ。どちらであっても、おかしくはなかろうよ」
ノーラはそう言うと、火かき棒で暖炉の薪をつつきながら、少し声を落とした。
「ただな。婆が子供の頃、旅の行商人から聞いた話じゃが……この国のどこかには、今も竜血族の血を密かに引く者がおる、という噂もあってな」
知らず、俺は身を乗り出していた。滅んだのか、隠れているのか、誰にも分からない――そんな伝承・世界があることに、柄にもなく心が熱くなっていた。
「アレン、なにその顔。そんなに気になるの?」
ノエルが面白がるように覗き込んでくる。
「……ちょっとだけ」
誤魔化したつもりだったが、うまくいったかは怪しい。ノーラだけは、その様子を黙って見つめていた。彼女の緑の瞳が、暖炉の火に照らされて、いつもよりわずかに鋭く見えた。
「――ノエルや、そろそろ夜も遅い。今日はこの辺にしておこうかね」
いつもより早い切り上げ方だった。ノエルは不満げに口を尖らせたが、それ以上ごねることはなく、玄関先で振り返った。
「ねえ、さっきの話、続きが気になる」
「俺も」
「今度、ノーラさんにもっと詳しく聞こうよ」
ノエルはそう言うと、白い息を吐きながら「また明日ね」と手を振って帰っていった。
・・・
その夜、床につく前に、ノーラが俺の部屋にそっと顔を出した。
「アレン、さっきの話だがね」
「はい」
「今夜のことは、あまり誰彼構わず話すもんじゃないよ」
「……どうして」
「さあてね。当てにならない年寄りの勘、ってやつじゃ」
ノーラはそう言うと、悪戯っぽく笑ってみせた。冗談めかした言い方だったが、なぜかそのまま素直に頷く気になった。
「分かった」
「よし。いい子だ」
ノーラはそう言うと俺の頭を軽く撫でた。忠告の重さとは裏腹に、その掌はひどく温かかった。ノーラは静かに部屋を出ていった。
窓の外では、いつの間にかまた雪が降り始めていたらしい。屋根を叩く音もなく、ただ静かに降り積もっていく気配だけが伝わってくる。かまどの火も、もうそろそろ落とされている頃だろう。
それでも、婆が来てからのこの数日は、思っていたよりずっと賑やかだった。皮肉屋の婆と、口下手な父と、世話好きの母。三人が繰り広げる不器用なやり取りを眺めているだけで、飽きることがなかった。今までは三人だけだった食卓に、椅子が一つ増えている。それだけのことが、なぜかひどく居心地よく思えた。
温かい掌の感触だけを胸に残して、俺はいつの間にか眠りに落ちていった。




