05 川の中の一瞬、初めて分けた秘密
あの日以来、川辺はノエルと俺の定位置になった。
素振りに付き合わされた後、汗を流しに川へ寄る。それがいつの間にか、二人の間の決まりごとになっていた。ノエルは相変わらず口が悪かったが、隣に誰かがいるという状態そのものに、俺はまだ慣れきれずにいた。
「今日は打ち込み、五十回ね」
「多くないか、それ」
「昨日は四十回だったでしょ。ちょっとずつ増やさないと強くなれないの」
「ノエルは剣士になりたいだけだろ。僕まで巻き込むなよ」
「一人でやるより、二人でやった方が続くもん。文句言いながらでも、ちゃんとついてきてるくせに」
図星だった。理屈は分かるが、五歳児の腕はとっくに悲鳴を上げていた。それでも文句を言いながら枝を振り続けるのが、いつの間にか日課になっていた。
腕が上がらなくなるまで振り終えた頃には、いつも決まって日が傾き始めている。汗だくの体を持て余しながら、二人で川へ向かうのが、この頃の一番の楽しみになっていた。友達と過ごす時間にこれほど心が緩むものだと、正直まだ実感し切れていない部分もある。それでも、その緩みを嫌だとは思わなかった。
「今日、ちょっと深いとこまで行ってみない?」
素振りを終えて川に浸かっていると、ノエルが川の上流を指差してそう言い出した。いつもより雨が続いた後で、川の水量は普段より多い。
「危なくないか、それ」
「平気平気。前にも一回行ったことあるし」
根拠のない自信だった。止めるべき場面だと分かっていたが、ノエルはもう歩き出していた。止めようとした声は、彼女の背中に届く前に萎んでしまった。
・・・
上流の淵は、思っていたよりずっと深く、流れも速かった。両岸から張り出した木の枝が影を落とし、水面はいつもより暗く見えた。
ノエルは膝まで水に浸かったところで、得意げに振り返る。
「ほら、平気でしょ」
その直後だった。ノエルの足元の石が崩れ、体勢が大きく傾いだ。
「わっ……!」
短い悲鳴とともに、ノエルの体が深みへと引き込まれていく。水音が、やけに遠くから聞こえた気がした。視界の端で、金色の髪が水面に沈んでいくのが見えた。時間の流れが、急に間延びしたように感じられた。
「ノエル!」
考えるより先に、体が動いていた。いや――動いた、という表現すら正確ではないのかもしれない。気がついた時にはもう、俺は水の中にいて、ノエルの腕を掴んでいた。
・・・
後になって思い返しても、その一瞬の記憶はひどく曖昧だった。ただ、自分の五歳児の脚が、あんな速さで岸を蹴れるはずがないということだけは、はっきりと分かった。まるで体そのものが、普段とは違う何かに置き換わったような、そんな感覚があった。
ノエルの腕を掴んだ手には、我ながら信じられないほどの力がこもっていた。流れに逆らい、彼女の体を岸へと引き寄せる。水を吸った服が鉛のように重い。それでも、脚は止まらなかった。
気づけば二人とも、ずぶ濡れのまま河原に転がっていた。
「げほっ……げほっ……」
ノエルが激しく咳き込む。水を吐き出し、荒い息を繰り返すその背中を、俺はただ黙ってさすり続けた。手が、震えていた。恐怖のためか、それとも別の何かのためか、自分でも判断がつかなかった。
「……大丈夫か」
「……うん。多分」
しばらくの沈黙の後、ノエルは体を起こし、まじまじと俺の顔を見つめてきた。その目には、恐怖とも困惑ともつかない色が浮かんでいた。
・・・
「今の、何」
短い問いだった。誤魔化す余地のない、まっすぐな視線が突き刺さる。
「……分からない」
嘘ではなかった。本当に、何が起きたのか自分でも説明がつかない。ただ気づいた時には、あり得ない速さで水の中にいて、あり得ない力でノエルを引き上げていた。それだけだった。
「アレンが、あんな速さで泳げるわけない」
「……うん」
「わたしを引っ張り上げた力も、絶対おかしかった」
「……うん」
否定のしようがなかった。俺は膝を抱えて、川面をじっと見つめることしかできなかった。心臓が、まだ痛いくらいに脈打っている。
・・・
長い沈黙の後、ノエルが口を開いた。
「前から、なんとなく思ってた。あんた、絶対何か隠してる」
「……うん」
「でも」
ノエルは膝の泥を払いながら、いつもの調子で続けた。
「アレンのおかげで助かったのは事実だし。今、無理に問い詰めるようなことじゃないでしょ」
その物言いは、思っていたよりずっとあっさりとしていた。
「気にならないのか」
「気にはなるよ、すごく。でも」
ノエルは立ち上がり、濡れた服を軽く絞りながら、こちらを見下ろした。
「あんたが話したくなった時に、話してくれればいい。それでいいでしょ」
その言葉に、俺はしばらく声を出せずにいた。前世でも今世でも、誰かにこんなふうに、答えを急かされずに済んだことは、あまり記憶になかった。
「……ありがとう」
「また、それ」
ノエルは呆れたように笑うと、俺の手を引っ張って立たせた。その手の感触に、なぜか妙に安堵している自分がいた。
・・・
濡れた服のまま家路につく道すがら、ノエルはさっきまでの出来事などなかったかのように、川で見つけた変わった形の石の話をし始めた。あえてそうしているのだと、なんとなく分かった。
「今日のこと、誰にも言わない方がいい?」
別れ際、ノエルが不意にそう聞いてきた。
「……できれば、そうしてくれると助かる」
「分かった。じゃあ、これはわたしとアレンの秘密ってことで」
秘密、という言葉の響きが、なぜか胸の奥に小さく残った。悪い意味ではない。むしろ、くすぐったいような、落ち着かないような、そんな感触だった。
・・・
家に着くと、真っ先にリナが飛んできた。
「アレン、その格好どうしたの!?」
ずぶ濡れの服を見て、リナの顔色が変わる。とっさに、嘘が口をついて出た。
「川で、足を滑らせて」
半分は本当だったが、半分は嘘だった。誰が水に落ちたのかも、その後に何が起きたのかも、伏せたままの報告だった。
「もう、気をつけてよ。風邪引くでしょ」
リナは疑う様子もなく、濡れた服を着替えさせてくれた。その優しさに甘えている自分に、少しだけ胸が痛んだ。前世の記憶を隠しているだけでは飽き足らず、今度は噓までついている。
夜、布団の中で天井を見上げながら、俺は今日一日を振り返った。ノエルの腕を掴んだ時の感触。誰にも言わない、という約束。両親についた、初めての嘘。
秘密が一つ増えるごとに、守るべきものも、一つずつ増えていくのかもしれない。そんな予感だけが、やけにはっきりと胸に残っていた。
それでも、と思う。今日感じた恐怖の何倍も、ノエルが無事だったという安堵の方が大きかった。理屈の合わない力も、両親への小さな嘘も、その安堵の前では、ひとまず後回しにしてもいいことのように思えた。
壁一枚隔てた向こうの家で、ノエルも今頃、同じ夜空の下でどんな顔をして眠っているのだろうか。そんなことを考えながら、俺はゆっくりと目を閉じた。




